きっと忘れない 4




「やっほ〜。今日も仲良しだねぇ、紅薔薇姉妹は」

 木製扉を開けた途端そんな声をかけられたものだから、祐巳は元々赤かった顔を更
に紅潮させた。


 あの日から、祥子は変わらず祐巳を教室まで迎えに行った。

 ほんの少しとはいえ、記憶をなくしている祐巳が何かと不便だから、という理由は
はっきり言って口実だ。その前から薄々そのことに、自分自身では気が付いていた。


 けれど、今は明確にそのことに託けて、祥子は祐巳を迎えに行く。

『いつも、すみません』

 そう言いながら、祐巳が頭を下げる。

『構わないわ』

 こちらも、もう常套句のように持ち合わせた言葉をかける。

 後は祐巳の手を引いて、薔薇の館まで行く。それも、祐巳が記憶をなくした後に登
校を始めた日から変わりない。


 ただ。

 廊下の端や、非常階段の下。薔薇の館の玄関。物置。

 薔薇の館の会議室につくまでには、道草できる場所が多すぎる。だからだ。

『・・・・・・ん・・・・』

 キスの合間に、祐巳が目を閉じたまま、息をつく。その顔が見たくて、また、祥子
は唇を寄せる。その繰り返し。


 どうにかそれを終えると、祐巳の全部を自分のものにしたくなるような衝動に突き
動かされて、強く強く、小さな身体を抱きしめる。


 それから。

 祐巳の小さな手のひらが、祥子の背中を抱きしめる。

 その力が、日増しに強くなっていくような気がするのは、祥子の願望なのだろうか。

「遅くなりまして、申し訳ありません」

 頬を赤くして立ちすくむ祐巳を隠すようにして歩み出てから、祥子はお姉さま方に
そう告げた。


「あらあら。私たちはただ遊びに来ているだけでしょう。何たって楽隠居ですもの。
今の薔薇さまはあなたたちでしょう。もっと楽になさい。何なら、お茶、淹れて差し
上げましょうか」


 黄薔薇さまにそう言われて、祥子はとんでもないとばかりに手を挙げてそれを制止
する。からかわれているだけなのだろうけれど、お姉さま方にそんなことをさせられ
るわけがない。早々に祐巳をつれだって自分たちのお茶の用意をする。その際見渡し
た室内には、お姉さまである紅薔薇さまの姿はない。受験に一段落ついたついたとは
言え、真面目なお姉さまのことだから、今頃は図書館か自宅で参考書を開いているの
だろう。


「どう、祐巳ちゃん。調子の方は」

 カップを手に持って席へ着くと同時に、白薔薇さまがそう言って祐巳の顔を覗き込む。

「あ、はい。勉強は、何とかついていけています」

 祐巳の記憶喪失については、あまり大々的には知られていない。知っているのは高
等部の教師と、山百合会の人間だけで、他の生徒たちには知らされていないのだ。あ
まり大事にしたくないという祐巳の意向のためで、長期間の記憶の欠乏ではないこと
から、学校側もそれを了承した。もっとも、その際に多少の怪我を負っており、その
ことについてはクラスメイトも知らされている。だからこそ、祥子の教室への日参も
不自然にはとられないのだ。


 だから、薔薇さま方をはじめとする山百合会の面々も、祥子以外は表立って祐巳を
気遣う様子は見せない。けれど、それが薔薇の館内だと話は別らしい。


「そりゃ良かった。それじゃ、祥子お姉さまとのあっまーい日々も着実に思い出せて
るわけ」


「ふえ!?」

 にやけた顔を更に近付けてそう囁く白薔薇さまに、祐巳が見る間に赤くなっていく。

「白薔薇さま」

 たまらなくなって祥子が声をかけるけれど、そんなことで白薔薇さまがひるむわけ
がない。

「いいじゃん、そんな怖い顔しなくっても。私はただ、祐巳ちゃんにもっといろいろ
思い出してほしいだけだもの。ほら、祥子のことだけじゃなくって、私との愛の日々
とか」


「・・・・・・」

 わかっている。白薔薇さまのこういったおふざけが愛情表現だということは。祥子
や祐巳をからかう仕草も、単に後輩を可愛がっているに過ぎないということも。その
証拠なのか何なのか、黄薔薇さまはその様子にさして興味を示すこともなく、手にし
た文庫に視線を落としたまま、ぴくりともしない。


 でも、近づきすぎじゃないかしら。

 馬鹿みたいに、そんな気持ちがすぐに膨れ上がる。

 いつのまにか、白薔薇さまは祐巳の肩に腕を置いて、楽しそうに会話を重ねていく。

 祐巳だって、まったく嫌がるそぶりなんて見せない。密着した白薔薇さまの距離に
戸惑っているだけで、その声や言葉に、屈託なく笑っている。


 胸が痛い。今度は、甘くも、切なくもない。じくじくと気持ち悪く痛い。

 こんな光景は以前からあった。

 その度に、こんな風に腹を立てていたことだって、分かっている。

 だから、この胸の痛みの正体は、嫉妬だ。

 でも、と思う。

 祐巳の心の真ん中の部分に変わりはなくても、彼女を取り巻く環境は、その頃とは
少し違う。


 祐巳の記憶はなくて。祥子と姉妹だったことも覚えていなくて。

 どれだけ「そうだった」と伝えたとしても、祐巳の胸の中に、思い出とともにその
事実があるわけではないのだから、ともすれば彼女にとってそれは遠い外国の話と同
じになってしまう。


 それを必死で食い止めるかのように、まっさらな心に祥子の持っている思い出を塗
り重ねているまっ最中なのだ。その上、それをいいことに、「恋人同士だった」なん
て嘘まで塗り固めようとしているのだから、とんでもないことである。


 そんな中で、白薔薇さまが依然と変わらぬ距離で祐巳と接してくれているのは、彼
女にとって良いことに違いないのに。不安で仕方がない。


 そう、きっと祥子には自信がない。

 何もないまっさらな心のまま、また、祐巳が自分を選んでくれる自身が、まったく
ない。


 だから、こんなにも不安になるのだ。

「そういえば、祐巳ちゃん、結局私にバレンタインのチョコレートくれなかったんだ
よねぇ」


 不意に白薔薇さまがそんなことを言った。

「え、そうなんですか」

「うん。確かに祐巳ちゃんは「仕方がないから作ってあげる」みたいなことを言った
んだよ」


「し、白薔薇さまにですか!?」

「いやいや、君。問題はそこじゃなくって。とにかく私はもらえるはずのチョコレート、
もしくは気持ちをもらいそびれているわけ。わかる?祐巳ちゃん」


「はぁ」

 白薔薇さまの言葉に、記憶のない祐巳は首をひねりながらも、そう相槌を打つ。

 近い距離のまま。

「だから、今からでも絶賛受付中」

「ええ?」

 白薔薇さまがまた、祐巳に触れる。顔を覗き込む。

 じくじくとした痛みが胸から放射線を描くかのように全身に満ち渡っていくのが、
ひどく苦しい。


「愛情のこもったチョコレートじゃなきゃ嫌だからね」

 芝居がかった口調の白薔薇さまの真意なんてわかるはずなのに。痛みのせいで冷静
になれない。


 私の祐巳に、それ以上触れないでほしい。

 醜い感情だ、そう自覚しているのに、それよりも強く衝動が身体を突き動かす。

 バン!!

「!?」

 その音に、驚いたように飛び上がったのは祐巳だけだ。

 祥子が机を叩いたために発せられた音だった。

「おお、怖い。祥子のヒステリー」

 案の定、白薔薇さまはそれも予想済みとばかりに、おどけた様子でそう言うと、す
るりと祐巳から手を離した。


「・・・・・・」

 そう、はっきり言って、いつものことなのだ。こんなやり取り。遊ばれているだけ
だと、自分でもわかっている。だから、その時の憤りは何にせよ、発散させてしまえ
ば、祥子も尾を引くようなことはあまりない。


 それが、記憶を失う前であれば、祐巳も、不慣れではあっても、祥子がそういった
行動に至る場面に何度か遭遇しているのだ。だから、少しの間の気まずさをのぞけば、
問題がないはずだった。


「・・・す、みません・・・あの・・・」

 怯えたような声で、祐巳が言った。

(あ・・・・・・)

「すみません、騒がしくして・・・」

 薄い肩が微かに震えている。

 薄い色の瞳が、揺らめいている。

 今の祐巳には、記憶がないのだ。

 わかっているはずなのに。どうして、都合よくそんなことを忘れてしまえるのだろう。

「ほらほら、祥子もいつまでもそんな怖い顔するんじゃないよ。祐巳ちゃんがびっく
りするでしょう」


 見かねた白薔薇さまにそう告げられても、祥子は小さく「すみません」と声を出す
しかできない。


 馬鹿みたいだ。


                            


 その日の放課後は、渡り廊下からいつまでも中庭を見つめていた。

 いつもなら、授業が終わるとすぐに祐巳の教室に向かうのに。今日は足が重くて、
一向に動き出せそうにない。このまま、薔薇の館に行くことも、今日はないような気
がした。


 結局、祐巳とは仲直りができない。

 仲直り、といっても、祥子が一方的に祐巳を怯えさせただけなのだけれど。

 ただ一言「ごめん」と言えたらどれだけ気が楽だろう。

 でも、また、あんな視線を向けられたら、逃げ出してしまいそうだ。恋人同士が、
聞いて呆れる。そのくせ、祐巳のことが気になって、昇降口が見える渡り廊下で一人
悶々と中庭を眺めている。


 祐巳は、一人で薔薇の館に行くだろうか。それとも、教室で祥子を待ってくれてい
るのだろうか。この期に及んで、後者だと良いと考えられる自分の身勝手さに目眩が
しそうだ。


「あ・・・」

 昇降口から出てくる人影が見えて、祥子はみっともなく渡り廊下の窓ガラスに顔を
こすりつけんばかりに近付けた。


 祐巳だった。

 コートを羽織り、マフラーを付けた姿から、少し用事があってそこへ来たのではな
いことが分かる。


 一人で行くのか。

 自分は逃げ出しておいて、身勝手な落胆を抑えきれない。

 祐巳は、祥子が迎えに来なくても平気なのだ。

 あたりまえのことに、馬鹿みたいに落ち込んだまま、食い入るようにその姿を見つ
めている。


 祐巳は、二、三度辺りを見渡すと、どうしたことか、そこで背筋を伸ばして立ち止
まった。


「?」

 誰かを、待っているのだろうか。

 立ち止まった彼女の姿に、そんなことを考える。

 けれど、一向に待ち人と思えるような人物は現れない。時折、不安げに左右に視線
を巡らせて。それでも、祐巳はずっと立っている。美しく、背筋を伸ばしたまま。


 もしかして。

 そう思いついたと同時に、祥子は鉛がとりついたかのような足の感覚も忘れて走り
出した。スカートのプリーツが乱れるのも、タイが翻ってしまうのも、気にする余裕
がない。


 どうして。

 どうして。

 そんな言葉しか浮かんでこないまま、景色だけが後方へと遠ざかっていく。

 階段を転がり落ちるようにして降り切ると、すぐに昇降口が見えた。

「祐巳・・・っ」

 上履きのまま、外へ出た。

「あ」

 祐巳が振り返る。

 ものすごい勢いで飛び出てきた祥子を見て、祐巳は驚いたように瞳を見開いた。そ
の後に、泣き出しそうな顔をして、それから一生懸命笑顔を作った。


「祥子さま」

 はにかんだ声で、そう言った。

 全速力で走ったせいで、乱れた呼吸が。激しく上下していた肩が。その声を聞いた
途端に一切の動きを止めてしまった。


 小走りで祥子の方へやってきた祐巳は、ポケットからハンカチを取り出すと、季節
外れに浮かんでしまった祥子の額の汗をそっと拭ってくれた。


「ごきげんよう、祥子さま」

 いつもなら、どうこたえていたのだったか。

(また、祥子さまって言ってる・・・)

 そうだ、「お姉さま」でしょうと諭すのだ、祐巳を。

 でも、喉の奥がぎゅっと狭くなって、うまく声が出せない。

「・・・ごきげんよう」

 かろうじてそれだけ言うと、祥子は取りつくろうように少し後退して、外履きに替
えるべく、下駄箱に視線を移した。少し、落ち着く時間がほしかったのかもしれない。


 でも、上履きをボックスに入れて、入れ替わりにとりだしたローファーを履いてし
まえば、すぐに終わってしまう。


 振り返ると、当然のように祐巳と目があった。

「おまたせ」

 祥子の声を聞くと、祐巳はやっぱりはにかんだように笑って、首を横に振った。

 いつものように手をとると、祐巳は少しだけ頬を染めて、でも微笑んでくれた。

 その表情を見てやっと、祥子は祐巳に酷いことをしたのだと理解した。

「・・・ごめん」

 歩きながら、顔も見ずにそう言ってから振り返ると、祐巳は少しだけ考え込むよう
にした後で祥子の手を強く握り返した。


 祐巳は、ずっと祥子を待っていたのだ。

 本当は、そんなことがなくとも気が付くべきだったのに。

 ただ、八つ当たりで祐巳を怯えさせたというだけではない。

 そんな仕打ちをした祥子を、祐巳は馬鹿みたいに待っていた。あんな寒い場所で。

 きっと、最初は教室で待っていたのだろう。いつも祥子が来ているから。それでも、
いつまでたっても祥子がやってこないものだから、確認のために昇降口へ下りたのだ。
そこへ行けば、靴があるかどうか確認ができる。あれば、まだ校内にいるということ。
いったん教室から出た祐巳は、入れ違いになることを考えて、そこで待っていたのだ。


 不安そうな顔で。

 祐巳には、記憶がないのだ。

 都合よく忘れて良いはずではないのに。

 どれだけ短い期間のものであったとしても、それがどんなにか彼女を不安にさせた
ことだろう。


 祐巳には、今、学校内で頼れる相手が、多分祥子しかいないのだ。

 なくした記憶に一番近い場所にいるのは、祥子なのだから。

「いいえ」

 祐巳は少し沈んだ声でそう言って、祥子と目が合うと、精いっぱいの笑顔を見せて
くれた。


 頼られている祥子はと言えば、自分勝手に振り回すことしかしていないのに。

 側にいて、祐巳を守ります。

 いつかの自分の言葉が脳内で蘇ると、自分が取り返しのつかないことをしたのだと、
途方に暮れた。


 愛しい人が不安に苛まれている。

 それならば、ただ寄り添えば良かった。

 例え記憶を失ったままでも、いつか笑って過ごせるように、楽しい記憶をたくさん
作ってあげれば良かったのに。


 不安に付け込むように、自分の欲求を押し通した。

 祥子はきっとずっと、その秘密を抱えて過ごすのだ。



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