きっと忘れない 5




 『祥子さまと一緒に過ごしている時間で、薔薇の館以外には、思い出深い場所があ
りますか』


 子ども染みた喧嘩を、祐巳の慈悲深さで乗り切ると、祥子は酷く後悔を抱えたまま、
そのくせ以前にも増して、祐巳を愛しいと思う気持ちを膨らませていた。


 土曜日の昼食を二人で取る約束をしていた。山百合会の活動も、それぞれの事情で
その日は行われなかった。だから、午前中の授業が終わってしまえば本来ならばすぐ
に帰宅するところを、祐巳との約束のために、必要のない弁当を持参して授業をやり
過ごしていた。 三年生を送る会のことも少し考えておかないといけない、そんなこ
とも言ったかもしれない。記憶のあるなしにかかわらず、祐巳にとっては初めての仕
事なのだから、かいつまんで説明する必要は確かにあった。でも、傍から見ればただ
のこじつけだろう。そういった話をしながら、昼食を一緒に取ろうと約束した矢先、
祐巳がそんなことを言ったのだ。


 祥子の事情を言えば、今夜は久しぶりに家族が揃うからという理由で、夕食は全員
定時出席が求められている。けれどそれまでには帰られるだろう。朝、家を出る前に
何度もそのことを言って聞かせるお母さまをそう説得してやっと登校したのだ。


 でも、家を一歩出てしまうと、すぐに祐巳と一緒に過ごす時間のことで頭がいっぱ
いになる。重症だ。


「温室で、ですか?」

「ええ」

 祐巳を迎えに行った教室で、行き先を告げると祐巳は不思議そうな顔をした。こん
な表情を見ると、やはり記憶がないのだなと納得する。


「思い出深い場所、とこの前言っていたでしょう」

「あ、はい」

 歩きながら、祥子がそう説明すると、祐巳はうれしそうに頷いた。

「だから、温室といっても、古い方ね。そこで泣きごとをあなたに聞いてもらったこ
ともあるわよ」


「ええ!?」

 昇降口で祐巳が靴を履き替えているのを待っている間にそんなことを言ってみせる
と、彼女は狼狽した様子で革靴を手から落としてしまった。


 最初はそれがおかしくて笑ってしまったけれど。拗ねたような表情を作る祐巳と手
をつなぐと、その笑いはもっとはじけてしまって、緩んだ頬がそのままになってしま
いそうだった。


 子猫がじゃれあうように歩いていると、いつのまにか古い温室が前方に見えた。

「あ」

 温室に近づくと、どうしてだか祐巳は声を上げた。

「?どうしたの」

 声をあげてから、立ち止まる祐巳を眺めながら尋ねると、彼女は不思議そうに首を
かしげていた。


「いえ・・・古い温室のことは知っていたんです。何度か来たこともありますし。で
も・・・」


「でも?」

「・・・何だか、懐かしいなって思って」

 それは、祐巳の記憶が戻り始めたということなのだろうか。それとも、無意識下で、
そう言った情景を覚えているということなのだろうか。


「そう」

 祐巳のつぶやきにそれだけ答えると、祥子は温室の扉を開けた。

 その瞬間、緑と土のにおいがして、祥子の方こそ、祐巳との思い出が駆け巡ってい
くかのように感じて、瞬きをした。


 入口から見える中央の大きな花壇を回って、空いているところに腰かけた。

 そこには、紅薔薇がある。

「これが、紅薔薇」

 いつだったか、告げたと同じように、彼女にそう伝える。

「祥子さまの花ですね」

 覚えておいてね。そう伝えた時と同じように、祐巳は微笑んだ。

 それから、お弁当箱を開けると、箸を進める合間にここに二人が立ち寄った時間こ
とを話してみせた。


 シンデレラの劇の練習の最中に、祥子がここへ逃げ込んできたことや、そこに祐巳
が追いかけてきたこと。


 黄薔薇革命の時に、祐巳と祥子が令を連れ戻しに来たこと。

 バレンタインイベントの時も、ここで口論になったこと。

 そんな事を話すたびに、祐巳は驚いて、それからすぐに次の話をねだった。

 気がつけば、ここで過ごした時間はそんなに長くないのに、印象深い出来事にはい
つもこの場所が浮かんでくる。


 そんなことを呟くと、祐巳は祥子の言葉を咀嚼するように考えてから、何となく、
わかる気がすると言った。


 いつの間にか、弁当箱は空になっていた。

 時間も大分たっていたのだろう。

 それでも、話が終わる気配はない。

 なくした記憶は、祐巳の人生の中で、きっと短い時間に過ぎない。祥子にとっても、
その時間を数字にしてしまえば微々たるものだろう。


 でも、そうじゃないのだ。少なくとも。祥子にとっては。

 隣り合っていた身体が、自然に向かい合う形になったのは、ここへきてからすぐの
ことだったと思う。お互いの肩や髪に触れる回数が多くなったのは、多分お弁当を食
べ終わってからではないだろうか。


 合間に持参したお茶を飲んだりする機会はあったのに。どうしてだか、そのまま離
れてしまうようなことはなくて。


 結局は隙間がないくらいに抱きしめあう。

 唇が一度重なり合うと、もう抱き合っている身体を離してしまうのは困難だと思えた。

 鼻先がぶつかって笑いあった後でキスをして。みつめあったまま、にらめっこのよ
うにキスをして。最後にやっと目を瞑ってキスをした。


 馬鹿みたいにそんなことを繰り返した後で、祐巳を抱きしめると、依然として感じ
ていた後悔や後ろめたさと、祐巳への愛情がひしめいて、祥子は何も言えなくなる。


 そんな沈黙がどれくらい続いたのだろうか。

 お互いがそれに気まずさを覚えて、二人して言葉を発する前の息継ぎをした瞬間だ
った。


 何の前触れもなく、温室の扉が開けられたのは。

「!?」

 ガチャリという音に、二人同時に肩を弾かせる。

「・・・―――・・・・・・」

 一人、いや、二人だろうか。何かを確認しあうような声。守衛さんだろうか。先生
なのだろうか。それとも、園芸部の生徒なのか。足音は、戸棚の裏側まで近づいてく
る。


 お互いに身を固くして相手を強く抱き寄せた。

 ただ姉妹で話し込んでいただけという風を装って、立ち上がってしまえばその場を
難なくやり過ごせたかもしれない。相手が先生であっても、守衛さんであっても、「
早く下校しなさい」と多少のお小言をもらう程度ですんでいただろう。


 けれど、今の二人の距離は、決して姉妹なんかじゃない。

 それがもし、白日の下にさらされたら?一体自分はどうやってその場を切り抜ける
つもりなのか。


 祐巳への気持ちが疾しいわけではない。けれど、他人の前で取り繕わないでいられ
る自信がない。それを祐巳の眼前につきつけるなんてできやしない。


 そう考えると、尚更強く、祐巳の背中を抱きしめるしかなかった。

「・・・・・・・・・―――」

 自分たちの後ろに聞こえてくる会話に息をのむ。

 強く押し付けられた祐巳の胸から、祥子の胸を突き上げるような心音が響いていた。

 どれくらいの時間がたったのだろう。来訪者の会話が終了されたと同時に今度は足
音が遠ざかっていく。


(ああ・・・)

 扉が開けられる音に、思わずため息をこぼしてしまいそうになりながら、ギュッと
耐えた。


 ガチャ。

 開かれた時と同じような音を立てながら、静かに扉が閉じられる。

「――――――っ・・・・・・」

 それを確認すると、やっと、息がつけた。祐巳も同じだったのか、ほぼ同時にため
息をついた。


 けれど。

「・・・え?」

 扉が閉められた直後、ガチャガチャと金属がぶつかりあうような音がする。それよ
りはもう少し控えめか。そう、これは。


(施錠しているの?)

 音を立てて血の気が引いて行くのを自覚しながらそっと隣をうかがうと、多分、祥
子も似たような顔色なのだろうとわかるぐらい動揺の色を顔に浮かべた祐巳がこちら
をみつめていた。


「あの・・・」

 怯えたように祐巳が声を絞り出すと同時に、扉がまたしてもけたたましい音を立て
て揺れ動く。どうやら、ご丁寧にも、扉が閉まっているかどうかノブを回して確認し
ているらしい。


 その音すら聞こえなくなった時、二人は周りの世界から切り離されて、完全に温室
の中へ取り残された。


「ど・・・どうしましょう・・・」

 うろたえながらこちらを窺う祐巳に、祥子は努めて動揺を気取られないように言った。

「大丈夫よ」

「でも・・・」

「校舎が完全に施錠される前に、もう一度守衛さんが全部の施設を回るはずだから」

 ただ、施錠されていることを目視して確認して終わり、というような点検方法であ
れば、発見される可能性は極めて低い。ガラス一枚を隔てているだけとはいえ、外の
足音までをも敏感にとらえることは難しいと思われた。


 それでも、祐巳を不安にさせたくなくてそう答えた。

 良く考えれば、祥子と一緒だとはいえ、祐巳に一昼夜を野外で過ごさせるような危
険なめにあわせたくないのならば、すぐにでも扉に駆け寄って、大声で助けを求めれ
ばいいのだ。先ほどの来訪者が遠ざかって行く前に。


 それでも身体も頭もすぐに動かなかったのは、単に祐巳と一緒にいたかっただけな
のだろうか。それで校舎の古びた施設の中に閉じ込められてしまうとは判断ミスもい
いところだろうけれど。


 硬くなった背中をしばらくさすっていると、緊張し続けていることに疲れたのだろ
うか、祐巳が短く息をついた。抱き寄せていたからだから少しだけ、力が抜けたよう
に感じられて、祐巳がくたりと祥子の肩に頭を預ける。


「そういえば・・・」

 祥子の肩に頭を預けたまま祐巳が吐息のように囁いた。

「?」

 しばらく黙って待っていたけれど、続きが発せられることはなくて、祥子はかすか
に顔をあげて、祐巳を眺めた。


「その・・・」

「何?」

 言い難そうに口を噤む仕草に、なおさら不安になって、祥子は急きたてるように短
く問いかける。悪い癖だとわかってはいる。こんな言葉では、苛立ちをぶつけられる
ようにしか相手には伝わらないだろうに。


 でも、祐巳はそのまま押し黙ってしまうようなことはなかった。隙間なく寄せてい
た身体をわずかに離して、自分を訝しげにみつめる祥子に気圧されたのかもしれない
けれど。二、三度視線を左右に動かしてから、こちらをみつめ返した瞳が少し陰って
いた。


「・・・・・・記憶喪失って、記憶を失ってから、取り戻すまでの間のことも忘れて
しまうんでしょうか」


「え・・・」

 それは小さな声だったのに。祐巳の言葉に、鈍い衝撃を受けて祥子は眼を見開いた。

 考えたこともなかった。そんなこと。

 祐巳の記憶から自分が抜け落ちてしまった時、現実の自分までも奈落の底へ突き落
されたような気持ちになった。どうしてと、祐巳を恨んでしまいそうにすらなった。


 だけど、祐巳が祥子の気持を受け入れてくれたその時から、徐々にその気持ちが薄
れていくことに自分でも気が付いていた。


 確かに数ヶ月間の記憶が、祐巳にはない。それは消えてしまったというよりは、心
の奥底の引き出しの中にそっと隠されてしまったといえるのかもしれないけれど。今
この時まで、ついに祐巳は祥子との記憶を明確には思い出していなかった。


 ―――何だか、懐かしいなって思って。

 そんな風に、今の生活の中で少しずつ思い出していくのだろうと、ぼんやりと考え
ていた。それでもいいと思っていた。


 祐巳の魂自体が、変わってしまったわけではないと、わかったから。

(ああ、でも・・・)

 失ってしまった時と同じように、強い衝撃で、心の引き出しが開け放されることが、
あるのだろうか。それと同時に、今の記憶の扉が閉じてしまったとしたら―――・・・。


 考えられないことではない。祥子にとっては、ここ数日間のめまぐるしい日々にだ
って、以前ならあり得ないことだと切り捨ててしまうようなことが、多々あったのだ
から。


 言葉を探しあぐねて祥子が黙りこんでいると、不意に、祐巳の肩が小さく震えた。

「・・・寒いの?」

 古い温室を覆うガラス壁はところどころ建てつけが悪くなってきていて、隙間から
は二月の風が入り込んでいる。レンガと土で構成されている床面も底冷えを助長する。
コートを着ているとはいえ、半屋外なのだ。寒くないわけがなかった。


「大丈夫です」

 薄い身体を抱き寄せる腕に力を込めると、祐巳はこちらを見上げてから小さく笑った。

「・・・・・・もう少し、寄って」

 再度、二人の間に空気すら入らないように体を密着させながらそんなことを言って
みせると、祐巳はまた、おかしそうに笑って、祥子の肩に頬をすりよせた。その身体
を、自分の羽織っていたコートの前を開けて招き入れる。


 このまま、一つになってしまえばいいのに。そんな馬鹿みたいなことを考えながら、
祐巳の身体を抱き入れたまま、コートを閉じる。


「・・・よかった」

 祥子の肩に、顔をうずめたままだったから、祐巳の声は少しくぐもっていたけれど。

「好きになった人が、祥子さまでよかった」

 それでもはっきりと、祥子の耳に届いた。

「祥子さまが、私の気持ちを覚えていてくれてよかった」

 瞬間、胸の奥がねじれていく音がした。

 今までの痛みなんて比ではない。

 胸が痛いとは、本当は、こういう時に使う言葉なのだ。

 呻き声も上げられずにいると、祐巳はまた、澄んだ声で言った。

「・・・・・・だいすき。さちこさま」

 本当のことを、告げるなら、きっと今しかない。

 これより先に、行ってはいけない。

 冷静な自分が、また、警鐘を鳴らす。

 ―――違うの。

 そう一言告げることこそ、本当の愛情だろう。

 それは、偽りの記憶の上に作られた感情だと。そうさせているのは紛れもなく、目
の前にいる祥子なのだと。


 それでも、祥子の体は動かない。

 動けない。

 最初から、祥子の罪悪感と祐巳への愛情は、その胸の内にひしめきあったりなんて
していないのだ。本当は。全てを吹き飛ばして、祐巳への独占欲が、身体の中で渦巻
いている。


 だから、動けない。

 どうして、こんなことになってしまったのだろう。

 まとまりきらない感情が、頭の後ろをすりぬけていく。

「・・・・・・祥子さまは」

「え」

 祐巳が顔をあげた。

「祥子さまは、また、応えてくださいますか?」

 声と同じように澄んだ瞳だった。

「私がまた、記憶をなくすようなことがあったとしても。私の気持ちに、応えてくれ
ますか?」


 後悔も、罪悪感も、独占欲ですら霞ませてしまうような、美しさだった。

 そんなこと。

 当たり前だとすぐに言えないのは、自信がないからでしかない。祐巳の気持ちに応
えることではなくて。


 祐巳がまた、記憶を失うようなことがあったとして。祥子の気持ちに応えてくれる
自信なんて、まったくない。


 それでも、祐巳に悲しい顔をさせたくなくて、祥子は必死で言葉を絞り出した。

「例え、何度、あなたの記憶の中から私のことが消えてしまっても、私はあなたへの
気持ちを、きちんと覚えているわ」


 自分の作り上げた虚構の中で、それでも嘘偽りのない気持ちだけを告げた。

「もし、私が記憶を失うようなことがあったとしても」

 間近に見つめあった祐巳の顔が、少しずつ霞んでいく。抱き合った身体は温もりに
あふれているのに、まるで幻を見ているかのような錯覚にとらわれると、足元から何
かが崩れ落ちていくのではないかと思った。頬が冷たい。そう感じてやっと気付く。


 泣いているのか。

 どうしてなのか、胸の内がかき回されすぎて、すぐにはわからなかった。

 でも、それと同じように、唇から声が零れ落ちていく。

「きっとまた、あなたに恋をするわ。・・・だって、私はずっと、・・・・・・ずっ
と、あなたが好きだったのだから」


 ―――あなたと私は恋人同士だったのだから。

 そんな言葉よりも先に、そう伝えておけばよかったのに。

 耐えきれなくなって瞳を閉じると、祐巳がぽつりとつぶやいた。

「それは違いますよ」

 閉じていた瞳が、自分の意志とは関係なく開かれる。


 ソレハ違イマスヨ。


 自分の不貞を暴かれたような言葉に、祥子は思わず肩を震わせた。顔は上げられな
かった。


 時間にすればほんの数瞬の間だろうに、宣告を言い渡される囚人のような気持ちで
おびえていた。


 けれど。

「きっと、好きになったのは、私が先です」

 恐る恐る顔を上げた祥子の眼に、祐巳のはにかんだような笑顔が映し出された。

 コートの中で、祐巳の腕が、しっかりと祥子を抱きしめていた。

「祥子さまは気がつかなかったでしょうけれど。私はずっと、祥子さまが好きだった
んですから」


 きっぱりとした口調でそう言われて混乱する。だって、祐巳には祥子と姉妹だった
間の、残っていないはずなのだ。


 そんな気持でみつめ返すと、祐巳は一瞬だけ苦笑して、またはにかんだ。

「四月の新入生歓迎会の時、祥子さまはピアノを演奏されたでしょう」

 小さな子どもに言って聞かせるかのように、祐巳はゆっくりとそう言葉を紡いだ。

 四月。

 そう言われて、やっと気がついた。

『どうして、小笠原祥子さまが』

 目が覚めた時に祐巳は祥子を見て、そう言った。祥子の顔は覚えていたのだ。

 祐巳が思い出せないのは、姉妹だったころの二人の記憶。

 だから、それ以前のことは、きちんと覚えている。

 周囲との関係も。情報も。それから、自分の感情も。

 そこまでたどり着いて、また、祥子は祐巳をみつめ返した。

「一目惚れです。私の」

 コートの中、抱きしめあっている距離は、祥子の嘘から作られたものに間違いはない。

 けれど。

 その身体を強く、強く抱きしめてくれる祐巳の腕に、嘘なんて一つもない。

 どれだけみつめ返しても、澄んだ瞳の美しさは陰らない。

 ―――きっとまた、あなたに恋をするわ。

 先ほどよりも一層強い気持ちが、膨れ上がって弾けてしまいそうだ。

 それと一緒にほてり始めた頬にまた、冷たい感触が押し当てられて、祥子は唇をか
みしめた。


 祐巳の唇が、その冷たい感触ごと拭っていくと、胸の奥に横たわっていた鈍重な痛
みがひとつずつ消えていく。


 私はただ、この人が好きだ。

 祐巳を力いっぱい抱き寄せながら、晴れ渡った胸の中にその言葉がつきぬけていく。

 きっとまた、あなたに恋をするわ。

 何度でも。

 頬を寄せ合うと、幸せにまどろむように、祥子はそっと、瞳を閉じた。


                              


「小笠原さん!福沢さん!」

 雷のようなノックの後に、盛大な音を立てて扉が開かれた。

「へっ!?えっえっ!?!?」

 その声と音のどちらともに驚いたように祐巳が寝起きの顔を上げた。対照的に、祥
子はそのことがわかりきっていたかのように、ため息をついて苦笑した。


 別に予知能力があるわけではない。きちんとした種があってこそのこの事態なのだ。
しかもその種をまいたのは自分なのだから、祥子が驚く様子を見せるわけもない。


 種を明かしてしまえば、いたってシンプルで。

 夕食を一緒に取る約束をしていた一人娘の帰りが遅いことに業を煮やした父母が
祥子に連絡をよこしたのだ。


 学校内での携帯電話の使用は禁止されている。

 ただ、持ち込みまでが禁止されているかといえば、そこまでの規制はない。良くも
悪くもリリアンに通う生徒の大半の保護者は過保護なのだ。その上経済的な余裕もそ
れなりにある。それの細かな使い道については各家庭での決まりがあるだろうが、安
全のためにという名目で、両者の精神衛生上それを携帯させているケースも少なくない。
学校側もそれをある程度は柔軟に受け止めてくれていると解釈できなくもないか。


 例外にもれず、祥子の家庭もそうであった。バス通学は幼稚舎のころからだが、習
い事も止め、帰宅時間も不規則になった高等部からは家族のたっての願いで、祥子は
それを携帯していたのだ。もちろん、それを取り出して使うこと自体がまれなのだけ
れど。


 とにかく、今回はそれのおかげで、早いうちの発見となったと、そういうわけである。

 どちらにせよ、夜中になっても娘が帰ってこなければ、祐巳のご両親だって黙って
はいないだろうし。祥子の両親の方が先約がある分動きが早かったのだ。


「えっ!?お、お姉さま!?」

 あの後しばらく眠っていたけれどすぐに目を覚ました祥子に対して、祐巳は祥子の
腕の中でずっと目を閉じたままだった。かすかな寝息のおかげで眠っているだけだと
はわかっていたけれど、温室内の寒さも相まって祥子は気が気ではなかった。まるで
山道で遭難してしまったかのような不安の中で祐巳が寒くないようにと背中や肩をず
っとさすっていた。その祐巳が、先ほどの轟音でやっと目を覚ました。けれど。


(『お姉さま』・・・?)

 その言葉自体は珍しいことではない。いや世間では珍しいのかもしれないけれど、
リリアンでは日常会話の中で飛び交っているものなのだ。けれど、それが目の前の祐
巳から発せられたことに、祥子は小さな違和感を覚えた。


「祐巳、起きたの?」

 その感覚を押しとどめながら、腕の中にいる彼女にそう呼びかける。

「お、起きたのって・・・ふえ!?な、何で、ここここんな・・・?」

 祥子の声に反応したのもつかの間、自分を抱きしめている腕が祥子のものだと確認
すると、祐巳はせわしなく左右へ視線を泳がせた。今の状況を必死に把握しているか
のように。


「・・・・・・」

 その様子に、先ほどの違和感が大きさを増す。

『お姉さま』

 記憶を失う前、祐巳は当たり前のように祥子をそう呼んでくれていた。慣れるまで
にはしばらく時間がかかったけれど。


 だけど、記憶を失ってから、祐巳は祥子のことを一度も「お姉さま」と呼んだこと
はなかった。


 何度指摘しても、気まずそうに顔を俯かせるだけで。

 それなのに。

「大丈夫ですか、二人とも」

 女性の声が、祥子の思考にかぶる。顔をあげると、一年生の頃の授業でお世話に
なった先生だった。


「それにしても、どうしてこんな・・・」

 最初に二人に声を掛けてくれた先生の後ろから、また、別の女性の声がする。下校
時間はとっくに過ぎていたけれど、夕日は完全には沈んでいない。今日は半日しか
授業がなかから、平日の授業後よりもずっと、職員室に残っていた先生方は多かったのだ。


「昼食をとってから、生徒会の方へ顔を出そうと思っていたのですが、二人とも居眠
りをしてしまって」


 端々を省略して告げると何とも間抜けな感じのする回答であるがあながち嘘ではない。
隣の祐巳も祥子の言葉を聞きながら、「そうだったのか」というような表情を浮かべた。


 それは、つまるところ、祐巳のその間の記憶があやふやだということで。

「祐巳」

 ひとまず先生方に連れられて職員室へ連行されていく途中、小さな声で祐巳に尋ねる。

「は、はい?」

 良く分かっていないながら、緊張した面持ちで彼女はこちらへ視線を向ける。

「・・・・・・今日は、何日だったかしら」

「え」

 突飛な質問に、祐巳が目を丸くする。

 けれど、祐巳の答えた日にちに、今度は祥子の方こそ目を丸くした。

 それは、祐巳が階段から足を踏み外した日。

 祐巳が記憶を失った日、そのものだった。


「そう」

 『・・・・・・記憶喪失って、記憶を失ってから、取り戻すまでの間のことも忘れ
てしまうんでしょうか』


 どうやら、そういうことらしい。強い衝撃によって記憶が混乱している、と言えな
くもない。それとも、祐巳の記憶を回復するような作用が身体の中にあったのだろうか。
わからない。


 どちらにしても、祐巳の心の中に閉じ込められていた祥子との思い出が、もう一度、
外へ出ることが許されたのだ。その代わりに、新しい二人の思い出の引き出しが、閉
じられてしまった。


 でも。

「お姉さま・・・?」

 押し黙ったままの祥子を不思議に思ったのだろう、祐巳が訝しげにこちらを覗き込
んだ。その声に視線を寄せると、当然のように吸い込まれそうな瞳にぶつかった。


 『私がまた、記憶をなくすようなことがあったとしても。私の気持ちに、応えてく
れますか?』


 祐巳の声が、鮮明に耳の奥へ蘇る。


 ―――きっとまた、あなたに恋をするわ。


「・・・とりあえず、話したいことがたくさんあるわ」

「へ?」

 きっとこの後で、職員室で待っているであろう他の先生方への状況説明をしなけれ
ばならないだろう。その上、同じことを迎えに来た両親にもしなければならない。も
しかしなくとも、祐巳のお母さまにも。


 それから。

 祐巳の記憶が戻ったかもしれない。そのことも。

 考えただけで、ものすごい時間を要することがわかる。

 でも、その合間でもいい。いっそのこと、その後でも。

「あなたに、話さないといけないことがあるの」

 不思議そうに首をかしげる表情が、何だか可愛らしい。

 記憶を失っていたこと。それからその後の二人のこと。祐巳に説明しなければいけ
ないことは、一つや二つではない。


 だけど。それよりも、伝えたい言葉が、あったはずだ。

 祐巳の視線に応えるように、祥子は静かに微笑んだ。



 ―――私はずっと、・・・・・・ずっと、あなたが好きだったの。



                             END



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