きっと忘れない 3




 生活に支障はないという医師の言葉に間違いはなかった。

 なぜなら、祐巳が失くした記憶が、祥子と出会ってからの数ヶ月間だけだったから
だ。つまりそれ以前のことを彼女はきちんと覚えている。社会規範や常識、家族関係
は勿論、それまでに修得した知恵や知識も、十一年間通い続けているリリアンのこと
も、彼女の中では生活の一部として位置づけられているのだった。


 だから「側にいて、祐巳を守る」とは言ったものの、祥子が彼女にしてあげるられ
ることは、自然と限られてくる。具体的には。


「祐巳」

 放課後の一年生の教室に祥子が顔を出すと、どうしてだか、そこはいつもざわめい
ていた。落ち着きのないクラスなのだろうか。


「祥子さま」

 祥子の姿を確認した祐巳が、はにかみ笑いを浮かべながら、小走りで教室の扉まで
駆け寄ってくる。


「行きましょうか」

「はい」

 祐巳を促して教室を後にして、向かう先は薔薇の館だ。

 つまるところ、祥子が祐巳にしてやれるのは、せいぜい薔薇の館までの同行程度だ
ったりする。もちろん、薔薇の館の場所くらいは祐巳も分かっている。だから、気分
的に不慣れだろうからという何とも曖昧な理由で毎日教室まで迎えに来ているのは、
祥子の自発的な行動に他ならない。


 祐巳のために何かしたくて、ただ身体を動かしている。空回っていると言えなくも
ない。


「祥子さま」

 昇降口で先に靴を履き終えて待っていた祥子の元へ駆け寄って祐巳が呼ぶ。

「お姉さま、でしょう」

「あ、はい・・・」

 祥子に指摘されると、祐巳は顔を赤くして俯いた。これも、今に始まったことでは
ない。彼女が退院して、登校するようになってから毎日のように二人の間で交わされ
るやり取りだった。


 姉妹制度のことは、もちろん祐巳の記憶の中にあった。それから、これは幸運なこ
とだと言ってもいいのだろう。祥子の名前も祐巳は知っていてくれた。けれど、祥子
とそういった関係を結んだことは、彼女の心の中から抜け落ちている。だから、顔を
知っている程度の人間のことを、以前はそういう関係だったのだからという理由だけ
で、「お姉さま」と呼ぶことに、祐巳は一向に慣れようとてくれなかった。


「それで。どうかして?」

 憤りと言えなくもない感情をもてあましながら、それを祐巳にぶつけることもでき
なくて続きを促す。


「いえ、あの」

「?」

 ゆっくりと歩きながらすぐ隣を眺めると、祐巳はやっぱり恥ずかしそうにうつむい
たままで。


「毎日、迎えに来てくださるから・・・ご迷惑じゃないかなと思って・・・」

 耳の横をそよいでいく風のように、祐巳の声は小さく消え入りそうだった。

「私が好きでしていることよ」

 反対に、祥子は少しだけ強い口調でそう告げる。

「・・・・・・それとも、迷惑?」

 それから、思い直して付け加えた。精一杯、弱気を気取られないように強がった。
言葉自体の情けなさは棚上げした。


「いいえっ・・・」

 祐巳はと言えば、祥子の言葉を聞いた途端、弾かれたように顔を上げると、力強く
首を横に振った。


「私・・・っ、私は、その・・・」

 祐巳が立ち止まって言葉を探し始めたから、祥子もそれに倣って立ち止まる。もた
つくことは嫌いなのに、それが祐巳と一緒だと、当たり前のように身体が静止した。


「うれしいです・・・祥子さまが迎えに来てくださるの、すごく、うれしいです」

 懸命に言葉を絞り出すその仕草を向けられている相手は自分だ。

 祐巳が、いつだって真摯に向かい合ってくれていたことを、祥子はきちんと覚えて
いる。それを、心地よいと感じていたことも。記憶をなくした今も、祐巳のその姿は
変わらないのだろう。


 薄く染まったほほを眺めながら、妙に納得した。

「それなら、いいじゃない」

 それが伝染してしまう前に、祥子は短くそう言って、祐巳からわずかに顔をそ向け
て歩き出した。代わりに小さな手を取った。


「は、はい・・・」

 未だ、戸惑っているかのような声色を無視して、祥子は歩き続けた。

 繋いだ手が、ひどく脈打っている。でもきっと、それは祥子の心音が反響している
のだ。


 校舎の脇を抜けて、中庭を通り過ぎる間、祐巳も祥子も無言のままだった。

 不機嫌なわけでも、怒っているわけでもないのに。何となく気まずくて。二人とも
その気持ちを共有しているのだろうと思うと、気が滅入るよりも先に、どうしてだか
むず痒くなる。


 言葉が足りなくて。でも、お互い相手に気を遣いすぎて。

 こんなこと、少し前までたくさんあった気がしてくる。それどころか、祐巳の記憶
が失われるような大事件に遭遇しなければ、未だその関係の延長上に二人はいたはず
だ。そして、祐巳の記憶が失われた今でも、同じように二人してまごついている。少
しだけ、おかしかった。


 中庭のレンガ造りの道の上を歩き続けると、ほどなくして薔薇の館が見えてくる。
その段になって、祥子は胸の中に悪戯心と言えなくもない感情が湧きあがっているこ
とに気がついた。


 祐巳は。祥子と手をつないだまま、やっぱり俯いていて。けれど、祥子の視線に気
がつくと、顔をあげてはにかんだ。


 胸が痛い。

 苦しいとか、辛いとか。そんな痛みではない。もっと、甘くて、でも、締め付ける
ように、痛い。


 今度は、祥子が立ち止まる番だった。

「?」

 祐巳は不思議そうな表情を浮かべただけで、すぐにそれに従って足を止めた。

「もう少し、慣れてもらわないと困るわ」

 みつかったり、ばれてしまっては困るものだ、悪戯は。そんなことはわかっている。
だから、こんなにも心臓が早く打ち鳴らされているのだろう。けれど、そんなことを
理解しているだけでは、何の歯止めにもならない。


「え」

「姉が妹を指導するのは当たり前のことだし、困っているのならばなおさら寄り添う
ものだわ」


 きっと、これ以上言ってはいけない。踏み込んではいけない。

 言葉足らずでもお互いに想いあえたのは、二人が姉妹という関係にあったからだ。
それ以上でも、以下でも、あってはいけない。


 悪戯、なんて言葉では取り返しがつかない。

 耳の奥に重く早く響く心音が、そう警鐘を鳴らしているのに、喉元からせり上がっ
てくるように、言葉が吐き出されてしまった。


「それに、恋人の記憶がなくなったのだもの。心配しない人間なんていないわ」

 吐き出した後、我に返るよりも前に、祐巳と視線がぶつかった。

 祐巳の驚きの表情を、ここ最近では見慣れてしまっていたから、焦りのスイッチに
指をかけるのが遅れてしまったのだろうか。


 祐巳の首元から頬へ向かって朱色が駆け上がっていく。

「・・・・・・え・・・」

 震えているように、唇が小さく開く。

 その唇から否定の言葉が飛び出してくるのが怖くて、祥子はそれよりも早く口走っ
た。


「姉妹であるのは本当。それから、付け加えるならば、私とあなたは恋人同士だった
のよ。あなたは思い出してくれないけれど」



                               


 『冗談よ』

 その一言を、祐巳も、祥子も待っている。

 この、重たい沈黙を終わらせるために。

 それなのに、どうしてもそんなことは言えなくて、祥子は必死で頭を巡らせる。

『私たちは恋人同士だったの』

 よくもまぁ、こんな嘘が軽々しく口から出てきたものだ。しかも、ただ単に祐巳を
からかって面白がるための悪戯とは、明らかに違う。


 言ってみれば、それは祥子の願望。

 触れたくて、抱きしめたい。可愛い女の子。

 自分を慕ってくれる愛しい女の子が、自分を思い出してくれないことへの憤りか。
それとも、あわよくばといった下心なのか。多分その両方から、勢いよく嘘が飛び出
たのだ。


 だから、すぐに取り消すことができない。

 困ったような、放心したような祐巳の表情を眺めながら、まるで意地になっている
かのように、その嘘を、本当にしたくて仕方がなくなる。


「本当に・・・?」

 祐巳の反応は、不思議な印象だった。

 信じられない、といった表情には変わりがない。けれど、もしかしたらそれは祥子
の気持がそう見せているのかもしれないけれど、不快、といったものではない。ただ
ただ、その言葉に驚いている、といった顔。


 ともすれば、嫌悪感を抱くであろう関係に、祐巳からの拒絶が薄かったことに、ひ
どく安堵した。


 だからだ。

「ええ。本当よ」

 また、するすると嘘が出る。

「でも、覚えていないのだから、仕方がないわね」

 白々しい。自分でもきちんと自覚しながら、そんな科白を吐き出してみせた。

「・・・す、すみません・・・っ」

 それなのに、祐巳ときたら馬鹿正直にそう言って、心を痛めたような表情を浮かべ
ながら頭を下げた。


「あの、早く思い出せるように、がんばりますから・・・っ」

「は」

 その上、そんな言葉まで飛び出してくる始末。

 頑張ると言ったって、個人の努力で何とかなるようなものなのだろうか、記憶喪失は。

「だから、祥子さま・・・」

「『お姉さま』、でしょう」

「は、はい・・・」

 言葉遣いに訂正を入れながら、また、祐巳を眺めた。

 祐巳は、じっとこちらを見ていた。

 不安と、戸惑いが、赤い頬や、濡れた瞳に浮きあがっている。

 きれいだ。

 その前の自分の不道徳極まりない行いも忘れて見入ってしまう。それどころか、祐
巳からの拒絶反応がなかったことを確認してしまうと、もう何の制御も利かなくなる
ような気がした。


 腕を伸ばして頬に触れると、肌の間でぴりっと静電気が走ったかのように感じる。
そのせいか、それとも祥子の行動に対してか、祐巳は小さく肩をすくめて瞬きをした。


「・・・じゃあ、早く祐巳が思い出してくれるように」

 むしろ思い出されたらお終いだろう。こんな猿芝居。それなのに、さも祐巳を気遣
っている風にそう告げてから、祥子は唇を寄せた。


「!?」

 気付いた祐巳がびくりと肩を震わせる。

 でも、もう止まらない。

 薔薇の館が祐巳の肩の向こうに見える。

 いくら人目に付かない中庭の隅でも、誰かが通りかかってしまえば、すぐにその行
為をみつけられてしまう。


 それなのに、祐巳の頬へ伸ばしていた手のひらが、幾分か力んでその頭ごと抱き寄
せる。


 本当は、目を瞑ってするものなのだろうか。

 だけど、そんな作法にあれこれ気を回す暇もないくらい、身体が勝手に動いて、止
まらない。


 唇が、祐巳の唇に触れる。

 真っ赤な頬が、視界いっぱいに広がる。

 一秒、二秒、数えている端からその数字を忘れていく。

 祐巳の背中に、空いた腕を回すと、やっぱり小さく震えた。

 でも、寄せた祥子の身体を、押し返すような力はどこにも感じられない。

 祐巳の手のひらが、そっと、祥子の肩を包んだ。

 不謹慎だろう、そんなことを考えるのは。それでも。

 無くなった祐巳の記憶が、祥子との時間だけで良かった。

 どうしてだか心からそんな事を思った。



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