きっと忘れない 2




「ど、どうして・・・」

 こちらこそ倒れこんでしまうかのような声量を披露した後、狼狽しきった様子で祐
巳が言った。


「どうして、小笠原祥子さまがここに・・・」

「?」

 その呟きにひっかかりを覚えて、祥子は言葉に詰まった。

 どうして。

 この場所が、病院だということ。それが意識を失う前の祐巳のいた場所とは違うこ
と。そのことについてわからないというのならば、特に問題はない。現状認識に時間
がかかっているだけだ。だから、ひっかかったのはそこではない。


 ―――どうして、小笠原祥子さまがここに・・・。

 これを一つの文章としてとらえると、何もかもが違和感で満ちていく。

 小笠原祥子さま。

 それは祥子のフルネームに敬称をつけて呼んでくれているのだ。それが祐巳と祥子、
それから二人共通の知人以外の人間に対する説明であれば納得がいく。けれど、この
場合、祐巳の意思は全く違う。本人を前にしてそう投げかけているのだから。


 まるで、初対面の人間に対するように。

 そして、その初対面の人間が「どうして」ここにいるのか。祐巳の呟きはそう問い
かけているとしか思えない言葉だった。


「ここは病院。あなたが階段から落ちて気を失ったままだったから、学校から搬送さ
れたのよ。覚えていないの、祐巳」


 努めて冷静にそう説明する。きっと、祐巳は混乱しているのだろう。そう思っていた。

「ゆ、み・・・?」

 けれど、祥子の言葉を聞いた祐巳は、尚更不安そうに瞳を揺らめかせた。

「祐巳、って・・・?」

「―――・・・」

 きっと、祐巳は混乱しているのだ。

 そう自分を納得させようとしても、目の前の祐巳の表情が、祥子の期待を拒絶する。

 不思議そうに、祥子を眺めている。

 祥子の言葉に、全く理解を示さず首を傾げている。

 目の前の祥子を、全くの他人として、みつめている。

 不安がそう見せるのだ。そんな風に切り捨てることだって、祐巳以外の人間であれ
ば、できただろう。


 けれど事実として、祐巳はそんな佇まいのまま、祥子の前にいる。

「祐巳ちゃん」

 それまで様子を静観していた小母さまが祥子の後ろから祐巳に声をかけた。

「お母さん」

「っ・・・」

 小母さまの顔を見るなり、祐巳は安心したかのように表情を崩した。もちろん、そ
れは当たり前のことだろう。こんな時、一番頼りになるのは肉親以外のなにものでも
ない。けれど、それでも祥子が打ちのめされたのは、祐巳の反応そのものだ。


 小母さまのことは認識している。近しい心の置ける肉親として。

 それは、祐巳の心が全体的に混乱をきたしていない証拠だ。

「祐巳ちゃん、学校で階段から落ちて頭を強く打ったの。それで、祥子さんがあなた
をここまではこんでくれたのよ」


 祥子の様子を見かねたのだろう、小母さまは祥子がしたと同じような説明をもう一
度する。


「・・・・・・?」

 けれど、祐巳は全く合点がいかないかのように、また首をかしげた。

「・・・祥子さんは、あなたのお姉さまでしょう?」

 その仕草に、小母さまが確信的な事実を告げた。

「え」

 半分は予想していたとおり、もう半分はそうであってほしくないと願っていたと反
対に、祐巳はまた、目を見開いて、ついでに口も開いた。


 それから。

「えええぇぇえぇぇぇえ〜〜〜っっ!?!?!?」

 先ほどと同じように、耳を押さえたくなるような奇声を披露したのだった。


                             


「軽度の記憶の混乱ですね」

 祐巳が目を覚ましたとの一報を受けて到着した医師は、身体的な診察といくつかの
質問の後、こともなげにそう言った。


「念のためもう一度検査を行いますが、救急の際の検査では、出血や外傷、骨折の類
は見られませんでした。頭を強く打ったために、記憶中枢が脳しんとうを起こしてい
るような状態と言えば良いでしょうか。軽めの記憶喪失と言ったところでしょう。日
常生活には問題がない程度には記憶もありますし。通常の生活を続けていれば、元に
戻る可能性もあります」


 カルテと祐巳を交互に眺めながらそう説明する医師に、祥子は縋りつくように言った。

「戻らない可能性は」

 軽度。軽めの。医師がそう判断した祐巳の失くした記憶は、祥子と出会ってからの
ものだった。


 つまり、祐巳の記憶は、祥子と出会う前に戻ったのだ。確かに日常生活自体には何
の差し障りもない。けれど。


「どちらとも、断言できません」

 姉だの姉妹だの言っていたためか、祥子のことを血縁関係にある人間だと認識した
らしい医師は、祥子の言葉にそう答えた。


「そんな・・・」

 あやふやとも取れる、けれどきっぱりとした口調の宣告に、祥子は血の気が引いて
行くのを自覚した。


 祥子と過ごした時間が、祐巳の心の中から永遠に無くなってしまうかもしれない。

 そんなこと、今の今まで考えたことすらなかったのに。

 次回の検査時刻を告げた医師が去った後の部屋に、重苦しい沈黙と、受け入れがた
い事実だけが残される。


「あの・・・」

 椅子にかけることもなく肩を落として佇んでいた祥子に、ベッドの上の祐巳が恐る
恐る声をかけた。


「?」

 顔を上げると、そこには祥子とは比べ物にならない程に、悲壮な表情を浮かべた祐
巳がいた。


 ああ、そうだ。祐巳の方こそ、不安で仕方がないのに。自分の記憶が、知らないう
ちに無くなってしまったのだから。


 絶望の淵に立たされたような気持ちにとらわれていた祥子は、それでも何とか表情
を和らげて祐巳に続きを促した。


「あの、ごめんなさい・・・」

「え・・・」

 涙をうっすらと浮かべた祐巳の口から出た言葉は、自分の抱えている不安が吐き出
されたものではなかった。


「ごめんなさい。心配、してくださっているのに・・・。私、思いだせなくて・・・」

「――――――・・・」

 不安に押しつぶされそうなのは、祐巳自身であるに違いない。

 それなのに、彼女は自分のことよりも先に、肩を落とす祥子に対して、そう言った。

「大丈夫よ。お医者さまも、元に戻る可能性がないわけではないって言っていたで
しょう」


 何も言えずに固まってしまった祥子の後ろから、小母さまがまた柔らかく言葉を
重ねた。


「それに、祥子さんも側にいてくれるのだから。ね?」

 言葉を振られるとともに、こちらをみつめられて、祥子は慌てた。

 祐巳の側にいることが嫌なわけでは決してない。そういった祥子の気持ち次第で決
定できることなのかが、わからないだけで。


 祐巳は、側にいるのが祥子で良いと、思ってくれるのだろうか。

 不安に慄きそうになりながら祐巳を眺めると、彼女の方こそ揺れる瞳で祥子をみつ
め返した。


「もちろんです」

 その瞳に背中を押されるかのように、思わず声が出た。

「側にいて、必ず祐巳を守ります。私たちは姉妹ですもの」

 最後の言葉は、半分本当で、半分嘘だ。姉妹だから、ではなく、それ以上の気持ち
で祐巳の側にいたい。けれど、それは今は、心の奥にしまい込むことにした。


 祥子の言葉を聞いた祐巳が、零れるような笑顔を見せてくれたから。

 それだけで満足だと、自分に言い聞かせた。



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