きっと忘れない 1




「今日はもう片付けてしまいましょう」


 バレンタインイベントも終わり、祐巳とのデートも楽しんだ週明けを、祥子は晴れ
晴れしい気持ちで迎えていた。


 朝、お姉さまに少しだけ会って、受験の結果をこわごわ尋ねたけれど、「特に問題
はないわ」という短い答えを聞いて安堵した。元々祥子に弱音を吐くような方ではな
いから、そう言った回答は予想できている。けれどその表情がいつもよりか幾分緩め
られているのを見つけて、きっとそうなのだろうと納得した。


 それから、早朝で人のいないことをいいことに、校舎までの短い間、お姉さまと手を繋いで歩いた。満たされた心が柔らかな腕に抱きしめられているようだった。

「最近、祐巳ちゃんとは仲良くしている?」

 校舎に着いてお別れする段になるとひどく甘えたい気持ちになって、手を離すこと
を逡巡していると、お姉さまは苦笑するかのように祥子にそう尋ねた。


「はい」

 祐巳の名前を出されて、自分でも知らず知らずのうちに笑みが零れる。

 本当は、週末にどんなふうに祐巳と過ごしたのか、全部お姉さまに聞いてほしかっ
たけれど、生憎そんな時間はなさそうだ。


 だから、祥子はその気持ち全てをこめて言った。

「祐巳と一緒にいると、とても温かい気持ちになります」

「まぁ」

 祥子の言葉を聞いたお姉さまは、目を丸くして、次にやっぱり苦笑いをした。

「それは、とてもいいことね」

 お姉さまはそう零しながら三年生の昇降口へと向かう。離れる瞬間に頭を撫でられ
て、祥子は思わずぼんやりとその後姿を見送ってしまった。


 そんなことがあったからだろう。薔薇の館で、祐巳に出会うと、どうしてだか、胸
の中で小さな爆発を感じた。


「この間は、ありがとうございました」

 祥子を見た祐巳は、あふれるような笑顔をこちらへ向けると、すぐにそう言って頭
を下げる。


「すごく、楽しかったです」

 そう言って、今度はどうしてだか頬を赤くして、微かに俯く。

「私もよ」

 その様子に少しだけ戸惑いながらも祥子がそう告げると、祐巳は弾けるように顔を
上げて、また笑ってくれた。


 大輪の花が綻ぶような笑顔だと思った。

 イベントが終わった次の週は、それまでに切り詰めがちだった部活動や委員会活動
での仕事が溜まっているのだろう。令や志摩子の姿は部屋にはない。三年生の方々は
学校にすら来られているかどうか。


「由乃さんは定期検診に行くって言ってましたから、今日はすぐに帰りました」

 椅子に腰かけた祥子の思案に被るように祐巳がそう言う。

「そうなの。じゃあ、二人だけなのね、今日は」

「あ、はい」

 一瞬だけ、沈黙が二人の間に広がると、祥子は少しだけ気まずくなる。

「何をしたらいいでしょう」

 祐巳も同じなのか、ためらいがちにこちらを仰ぎ見た。

「そうね・・・三年生を送る会の準備はまだ先だし・・・。各部の年度末収支決算の
確認位かしら」


 大きな行事の合間に、それまで手を付けていなかったり、後回しにしていた細かい
作業をこなしておかなければ、それこそ次の行事に響きかねない。


「はい」

 返事をするのと同時に立ちあがった祐巳は、何も言わなくてもチェストの引き出し
から、決算報告書の束を手に取る。


(随分と慣れたものね)

 数か月前、ここに来たばかりの頃は、祥子の一挙手一投足に神経を張り巡らせ、ど
こか張りつめた表情で後ろに付いてきていたのに。


 祐巳のその様子をうれしく感じると同時に、少しだけ寂しい気持ちがわき上がりそ
うになって、祥子は慌てて胸の奥に蓋をした。


 確認作業に入ると、二人の間には静寂が横たわる。祥子は元々饒舌な方ではない。
その上、目の前の作業に没頭しやすい自覚もあった。口を動かすことよりも頭を巡ら
せていることの方が断然多くなる。対する祐巳も似たようなものだろう。口を動かし
てしまうと、作業にミスが生じやすい。それをきちんと理解した上で、作業に取り組
む祐巳の真面目さが、祥子には好ましい。


 そんなモノクロのような空間に色を灯すかのように祐巳が小さなため息をついた。

「・・・疲れた?」

「え、あっ、いいえ!」

 祥子の声に、祐巳は慌てた様子で首を振ってみせた。少しだけ覗き込むようにする
と、申し訳なさそうな表情が瞳いっぱいに広がっている。


 その瞬間、胸に小さな痛みが走る。

 祐巳のこんな表情を見ると、いつもそう感じる。痛くてたまらないわけではない。
罪悪感かと問われればそれは違う気がする。


 小さく焼けてしまうような痛みは、どこか甘い味がする。

「今日はもう片付けてしまいましょう」

 その味に沈溺してしまう前に、祥子は言葉を絞り出した。

「でも・・・」

 祥子の提案を前に、祐巳が考えこむように言葉に詰まる。作業を途中やめにするこ
とへか、それとも、祥子にそう言った言葉をかけさせたことにか、とにかく祐巳は自
分の気の緩みが招いた結果のように受け止めているようだった。


「構わないわよ。他の人たちも元から来ていないのだし。締め切りが迫っているもの
でもないのだから」


「・・・・・・」

 言葉を変えてみても、祐巳の表情は晴れない。こんな時、自分をとても小さく無力
に感じて途方に暮れる。大勢の前に立つことは平気なのに。クラスメイトとの会話だ
って、躓いたとしてもすぐに軌道修正できるくらいの自信はある。それなのに、目の
前の祐巳の表情に一喜一憂するする自分は、心のどこかのパーツが外れてしまったの
ではないだろうかとさえ思う。


 きっと、こんな時、聖さまや他の方なら、もっと簡単に祐巳を安心させてやること
ができるのだろう。


 そう考えるとなおさらやるせない気持ちが溢れかえって、身じろぎができなくなり
そうだ。


「・・・・・・たまには、二人で早く帰っても罰は当たらないわよ。どなたも来てい
ないもの」


 その祥子の言葉に、祐巳が顔を上げる。瞳が揺れている。その微かな動きに縋りつ
くように祥子は言葉を重ねた。


「あなたと、ゆっくり話もしたいし」

 焦る心とは裏腹に、それは本心からの言葉だ。

 薄い膜の中で反響するような心音の中でじっと祐巳をみつめる。きっと一秒にも満
たない。でも、ひどく長い沈黙。


 大きな目を一層見開いて。それから瞬きをして。ゆっくりと柔らかな広角が上がっ
ていく。目じりが優しく零れていくように緩められた。


「はい」

 祐巳が頷くまでの、それはほんの数瞬のできごとなのに、馬鹿みたいに胸が高鳴った。

 うれしい。

 とても。

 胸にしみわたるようにそんな言葉が浮かんでくる。

 それから、衝動的に、目の前の祐巳に触れたくなる。

 どうしてそんな気持ちになるのだろう。自分の願望に戸惑いながらも、祥子はそれ
がここ最近では当たり前のように湧き上がってくる欲求であることも知っていた。触
れたい、は、抱きしめたい、でもいい。いや、きっとその方がしっくりとくる。


「それじゃあ、片付けますね」

 言うが早いが、祐巳は立ち上がって、机の上に置いてある二人分のカップを手に取
り、シンクへと向かう。


(そんなに急がなくてもいいのに)

 早く帰ることを提案したのは自分の方なのに、てきぱきと動くその姿を見て、ただ
祐巳と一緒にいたかったのだという自分の願いに気が付いてしまう。


 もっと祐巳と一緒にいたいのに。

 できるならば、その手に触れて、みつめあいたい。いつまでも。

 小さな背中をみつめながら、くすぶり始めて持て余したこの気持ちは、きっと口外
してはいけないものだ。


 誰にも。祐巳にすら。

「お待たせしましたっ」

 手早くカップをすすいで、戸棚にしまい込むと、祐巳は小走りでこちらへ近づいて
鞄を手に取った。


「慌てなくていいのよ」

 自分の声に重なるように、胸の奥が鈍く痛む。素直に伝えられないことがもどかし
くて、だけど安堵する。


 だけど。平静を装いながら椅子から立ち上がる祥子を見上げる祐巳が、不意に言った。

「・・・だって、お姉さまとたくさんお話したいから」

 呟くように祐巳がそう言って俯くと、わけもなく泣きたくなった。

 あの夜に電話をしたこと。

 すごくドキドキしたと話したら、祐巳も同じように受話器を手にして悩んでいたと
打ち明けてくれて、うれしかったこと。


 祐巳は、受話器を耳に押し当て過ぎて痛かったって言っていた。

 ジーンズの色が、祥子にとてもよく似合っていると言ってくれたから、本当は家に
帰ってからも何度も穿いてみたと白状した。


 朝食の後、紅茶を口にすると、その日のお茶会を思い出して祐巳に会いたくなった。
祐巳も朝目が覚めると、前の晩に枕元に置いたままだった受話器を見つけて、祥子の
ことを思い出したと言ってくれた。


 椅子から立ち上がった祐巳に上目加減で見上げられながら。

 のろのろと歩いては、扉の前で壁にもたれて並んで。

 ドアノブに手をかけたまま笑いあって。

 他愛もなく、訥々と、だけどはっきりと止められなく、色々なことを話した。

 祐巳が笑うと、唇から白い小さな歯が覗いて見えて、ドキドキする。少し高めの声
が、祥子の耳にまっすぐ心地よく響く。


 そんなことばっかり考えていたから。

「祐巳」

 先に階段を下りて行く祐巳の背中を追いかけるみたいに声をかけた。

「はい」

 祥子の声に、祐巳が振り返らないことなんてない。だから、急がなくてもよかった
のだ。


 でも、その可愛らしい笑顔に夢中になって、先のことなんて考えていなかったから。
すぐにはそんなこと、思いもつかなかったのだ。


 案の定、祐巳は振り返った。

 階段を下りて行く途中で。

 そういえば、シンデレラの劇の中にもこんなシーンがあっただろうか。

 ああ、でもあれは確か、王子の声に、シンデレラは振り返らない。

「ゆ・・・」

 危ない。

 そう、声を出すよりも早かった。

 振り返った祐巳が、そのまま後ろへ向かって転がり落ちていくのは。


                            


 薄暗い部屋の中に、規則正しい電子音が、忌々しく響き渡る。

『祐巳、祐巳』

 運ばれていく祐巳の手を握りながら、何度も何度もそう呼びかけた。でも、祐巳の
瞳は開かなかった。


 スローモーションのように落ちていく祐巳に、祥子の腕は届かなくて。

 うつりゆく情景の最後に、ひどく鈍い音がして、全身の血が凍りついた。

 怖かった。

 それまでの幸せな光景がまるで幻だったかのように、目の前が暗転する。

 怖かった。

 祐巳が、目を開かないことが。

 笑いかけてくれないことが。

 祥子の声に、応えてくれないことが。

 それでも、遠のいて行く意識を何とか押しとどめていたのは、祐巳の目が覚めた時
には、必ず一番に名前を呼ぼうと思ったからだ。


「祥子さん」

 不意に名前を呼ばれて振り返ると、女性が立っていた。

「少しは休んで頂戴。あなた、全然寝ていないのでしょう」

 肩まで伸ばした薄い色の髪が一つに結われている。大きな瞳。柔らかな口角。祐巳
のお母さまだった。


「いいえ・・・」

 祐巳の眠るベッドのすぐ傍らに腰かけて俯く祥子の肩にそっと手を触れながら、小
母さまはそう言う。けれど顔を上げられるはずもない。


「・・・私のせいで・・・」

 眠り続ける祐巳をみつめながら、祥子はこみ上げてくるものを必死で押しとどめる。
涙を浮かべること自体が憚られたからだ。


 室内の照明に薄く照らされた祐巳の顔には、幸い、一つの傷もない。それでも、そ
の瞬間は、痛かっただろう。恐かっただろう。それを思うと、その顔を直視すること
も、今はつらかった。


「まぁ。たまたまその場に居合わせただけで、そんなことを想わなくてもいいじゃな
い。その上、病院まで運ぶ手続きをしてくれたのは祥子さんでしょう」


「いいえ」 

 穏やかに祥子の言葉を受け流す小母さまに、祥子は大きく首を振って、言葉が堰を
切ったかのように溢れ出した。嗚咽交じりでは、理路整然とその場の状況を説明でき
るわけがない。けれど、直前まで、二人は一緒にいたこと。それから、祥子の声に振
り返った祐巳が、階段を踏み外したこと。それを、何度も繰り返し言った。


「私が声をかけなければ・・・」

 そう、何度も言った。

 馬鹿みたいに舞い上がって、階段の途中で呼び止めたりしなければ、こんなことに
はならなかったのだ。


「そんなこと、あるわけないでしょう」

 けれど、小母さまは、祥子が落ち着くのを待って言った。

「そそっかしい子だから、そう言うことはあるかもしれないけれど。誰も祥子さんの
せいだなんて思いはしないわ。もちろん、祐巳だってそう言うはずよ。あなたのこと
が、大好きなのだから」


 小母さまの言葉に息をのむ。

 ―――あなたのことが、大好きなのだから。

 本当に?

 心の中に浮かんできた言葉を打ち消すかのように、また、次の呟きが生まれてくる。

 そこまで思慕してくれている祐巳を、こんな目に合わせたのは、やはり自分ではな
いか。


 そんな風に、もう一度、祐巳を眺めた時だった。

「・・・・・・ん・・・」

 かすかに、祐巳が身じろぐ。その吐息にまぎれて、声が漏れた。

「祐巳・・・っ」

 その一瞬に縋りつくように祐巳の手を握ると、まるで奇跡のように、その瞼がぴく
りと動いた。


「・・・・・・」

 唇の端から、ふっと息が漏れる。それに呼応して、胸が微かに上下する。普段なら
ば全く意識しないであろう光景を、目を見開いて、祥子は凝視した。


 まるで、スローモーションのようだ。

 祐巳の瞳が、開かれていく、その光景が。

「ゆみ」

 祥子の声に、その瞳がはっきりと光を灯した。

 美しい瞳が、祥子の視線をとらえて、顔全体がこちらを向く。

「祐巳」

 はっきりとした声で、祥子はそう言った。その声はすぐ目の前の祐巳に、当たり前
のように届いているはずだ。


 祐巳が目を見開く。

 それから。

「き・・・」

「き?」

 唐突な声に祥子が問い返す間もなく、目の前の祐巳から、耳を劈くような奇声が発
せられて、祥子の方こそ目を丸くするしかなかった。




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