涼風凛凛 6




 祥子さまが真剣な表情でそう囁いたから、祐巳はもう何も言えなくなってしまった。お湯に
のぼせているわけじゃないのに顔が熱い。


「もう出ましょう」

 なんだか気まずいような、恥ずかしいような沈黙がしばらく続いた後、祥子さまはそう言っ
て立ち上がった。祐巳の視線から逃れるように顔を背けた祥子さまの耳や頬は心なしどころで
はない位に赤くなっていて。それが祐巳と同じように、お湯のせいじゃないのだと思うと一層
胸が高鳴った。


「あ、あの・・・っ」

「なぁに?」

 お風呂に入るまでは、祥子さまと一緒に入るということにどきどきしすぎてしまって忘れて
いたけれど、タオルで身体を拭き終わってはたと気づいてしまった。代えの服がないのだ、二
人とも。祐巳の方はいきなりお邪魔したのだから用意なんてしてきていなかったし、祥子さま
はと言うと、長い黒髪を念入りに拭いている途中で、未だそのことに気づいていないようだ。
でも、ここは祥子さまのお家なのだからお部屋に戻れば自分の着替えはすぐに用意できるのだ
ろうけれど。それに、これから何をするのか考えればいささか無粋な気もするけれど、やっぱ
り恥ずかしくて確認せずにはいられなかった。


「ふ、服は着たほうが、いいですか・・・?」

 恥ずかしすぎて最後の方はなんだか声になっていなかった気がするが、祥子さまはしっかり
と言葉の意味を理解した上で、ぽかんと呆気にとられたような顔をした。


「ああ、そういえば用意して入らなかったものね」

 真っ赤になっている祐巳とは対照的に祥子さまはさらりと事実確認のように言ってのける。

「え、えっと、その・・・どうしましょう?」

「何が?」

「え?だ、だから服を・・・」

 しどろもどろ。だって、いつまでもここに裸のままで突っ立っているわけにはいかないでし
ょうと縋る様に祥子さまに視線を送ったけれど、祥子さまは意に介さない様子で眉を顰めた。


「祐巳は、服を着て、そのまま寝てしまうつもりなのかしら?」

「え?え?ど、どういうことでしょうか?」

「もう・・・そんなこと、いちいち確認しなくてもいいでしょう」

 祥子さまは赤くなった頬を隠すようにしてそのままつんと横を向いてしまった。

(うわ、うわわわ・・・)

 祥子さまの表情を見てやっと自分の愚行に気づいた。こういう時にこそ黙っておけば良いの
かと今更気づいてももう遅い。祥子さまの気持ちが伝染したみたいにまた顔が熱くなっていく。
 そうやってどれ位の時間がたったのだろうか。恥ずかしさに縮こまって、タオルを抱きしめ
る様にして俯いていたらふいに祥子さまが深呼吸するみたいに息をついた。


「・・・祐巳」

「は、はい」

 恐る恐る顔を上げると、静かな表情で祥子さまが手を差し伸べていた。

「来て・・・そのまま」

 少しだけ掠れた声が、水面に落とされた小さな滴の様に祐巳の胸に漣を立てる。もう何も言
えない。祐巳はただ小さくうなずいて祥子さまの手を取った。

 繋いだ手が、とても熱い。


                *     *     *


 祥子さまに手を引かれるまま、寄り添い合ってベッドに腰掛けると、穏やかな安心感とそれ
とはまったく逆の狂おしいほどの焦燥感が祐巳の中でせめぎあった。口の中が緊張で乾いて。
胸が焼けるように熱くて、痛いくらいに高鳴る。きっと、どんなに抱き合ったとしても、祥子
さまに触れられるとこんな風に感じるんだろうと思った。

 祥子さまは繋いでいた手をもう一度ぎゅっと強く握ると、祐巳の頬を鼻先でくすぐってから
そっと唇で触れてくれた。触れられた場所から、甘い熱が全身に広がって競りあがってくる圧
迫感に吐息が乱れる。早鐘を振り払う様に祥子さまをみつめると、熱く潤んだ瞳と視線が絡ま
って。自分もきっとそういう表情なのだろうと思うと胸が押さえつけられる様に感じて、ぎゅ
っと目を閉じた。


 肩越しに触れ合うだけのキスをして、抱きしめあってキスをして、支えるものがなくなった
みたいに崩れ落ちるようにしてキスをした。


「ゆみ」

 重なり合うようにして抱きしめあいながら触れ合っていた唇を離すと、祥子さまが泣いてい
るような切ないような声で祐巳を呼んだ。こんな声で祐巳を呼んでくれる人、祥子さま以外に
きっといない。ぶつかった視線のその先の、さっきよりももっとずっと潤んだ祥子さまの瞳か
らは愛情や欲情が混ざりあって今にも零れ落ちそうだ。


「・・・おねっ・・・ん・・・っ・・・」

 唇を僅かに開いてその声に応えようとした途端、噛み付くようにして塞がれる。先程までの
ものとは明らかに違う、燃え滾る情動をぶつけてくる様な荒々しいキスだった。


「・・・・・・ぅん・・・」

 捻じ伏せられる様な長い長い口付けは、祐巳の胸を締め付けていた焦燥感を、全身を駆け巡
る熱い疼きに変える。うねりを上げながら突き抜けてくる衝動に眩暈がしそうだ。


「・・・・・・っ、はぁ・・・」

 唇が離れると、呼吸をするのをやっと思い出したかの様に、祐巳は喘ぐ様にして肩で息をし
てしまった。


「大丈夫?」

 祥子さまもむせ返りそうな吐息を整えながら、落ち着かせるように祐巳の顔中にキスの雨を
降らせてくれた。


(・・・さ、祥子さまは、なんで平気なんだろう・・・?)

 瞼や鼻筋に、頬に、おとがいにいっぱいの口付けをくれる祥子さまの呼吸は徐々に穏やかな
ものになっていくのに、祐巳の息は弾みっ放しだ。肺活量の差なのかな、なんてぼんやり考え
ながら祥子さまのキスを感じていたら、吐息が耳にかかった。


「祐巳」

 祥子さまはただ名前を呼んでいるだけなのに、直接頭に響かせるような距離に目の前が真っ
白になる。


「大好き」

「ふぁ・・・」

 甘く優しく囁く唇に身体全部が溶かされてしまいそうだ。思わずこぼれてしまった声に慌て
て、口元を自分の手で覆う。祥子さまはそんな様子にちょっとだけ声を漏らして笑ってから、
唇で啄ばむ様にして丁寧に祐巳の耳の輪郭をなぞった。頬や瞼に受ける穏やかなキスも好きだ
けれど、祥子さまの吐息を一番近くに感じられるここへのキスも好き。優しいだけじゃない、
でも激しすぎるわけでもない、祐巳をゆっくりと悦びの高みへ導いてくれる耳への口付けはと
ても心地良かった。

 うっとりと目を瞑って優しい口付けに浸っていると、祥子さまは耳から首筋へきつく唇を押
し付けながら、ゆっくりと祐巳の肌に指先を滑らせ始めた。


「・・・・・・っ」

 喉元から鎖骨へ、胸の間から脇腹へ、いくつものシュプールを描くみたいに、指先が手のひ
らが肌の上を何度も滑る。きつく押し付けられる唇と、優しくなだめるような指先のコントラ
ストに零れ落ちる吐息と一緒に涙まで溢れてきそうだ。全身が痺れていく様な感覚に深く息を
吐き出して身をよじると祥子さまがゆっくりと身体を起こした。


「・・・お姉さま?」

 全身を包んでいた暖かい圧迫感がなくなるとそれだけで空寒く感じられて。縋りつくように
祥子さまの背中に腕を回すと、先程まで指先で円を描いていた箇所に唇が這わされてきつく目
を閉じた。
 目を閉じると、感じられるものは祐巳に触れてくれる祥子さまだけだった。


 首筋に、肩口に、胸元に、祥子さまの長い髪が春の雨のように優しく降り注ぐ。全身に髪の
雨を浴びながら、ずっと長い髪のままでいて欲しいと思った。この先、年をとってお婆ちゃん
になっても。白髪になっても。その髪に触れるたびに祐巳はこの瞬間のときめきを思い出すの
だ。きっといつまでも、この愛しさは色褪せたりしない。


 愛しい人を抱きしめながら、祐巳の意識は高みへと上っていった。



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