涼風凛凛 5




「一緒に入る?」
「え?」


 二人で食べ終わった食器をキッチンへ持っていくと清子小母さまは目を丸くした。

「まぁ、やっぱり祐巳ちゃんは祥子さんの食欲増進剤なのね」

 うれしそうにそう言われたので驚いて祥子さまを見るととても不機嫌な顔をしていて。それ
でも清子小母さまはさらりと言ってのけたのだ。


「だって祥子さん、今日は嫌いなものまできちんと残さず食べているんですもの」

―――祥子さまの偏食には本当に手を焼いているらしい。

 そんなやり取りをした後、清子小母さまに「おやすみなさい」の挨拶をしてから部屋に帰っ
た。そのままなんだか手持ち無沙汰になって、二人して椅子に腰掛けたところで祥子さまが唐
突にそう言ったものだから、すぐには何のことだかわからなかった。


「お風呂、入るでしょう?」

「え、え、・・・あ、はい・・・でも」

 つまり、お風呂に入るけれど一緒に入るかどうか聞いているのだ、祥子さまは。考えてもい
なかった事態に周囲の空気を巻き込んでぴしりと固まってしまった。それにいつもの祥子さま
の言動からして「一緒に入りましょう」と言うだろうところなのに、あえて祐巳の意向を確認
してくるものだからどう答えていいのかわからない。きっとまた真っ赤な顔になっているに違
いない。


「嫌?」

「と、とんでもないです!」

 そこは即答。祥子さまと一緒にいられることが嫌なわけなんてない。出来ればずっとくっつ
いていたい位なのだから。


「あの・・・でも・・・その」

 しかしだ。お風呂に一緒に入るということは裸にならなければいけないわけで。祥子さまの
ゴージャスボディは何度でも拝見したいけれども、自分の貧相な身体を晒すのは正直躊躇って
しまう。いくら抱き合ったとはいえ、明るい場所で自分の身体を好きな人の目の前に置くなん
て格段に勇気のいることなのだ。しかし、祥子さまはそんな祐巳の煮え切らない態度に早くも
痺れを切らしてしまったらしい。


「もう、いちいち「でも」とか「その」とかが多いわね。私は一緒に入るのかそうでないのか
聞いているのよ」


 ぴしゃり。先程までの甘い空気はどこへやら。いつものお姉さまモードでそう言われた途端
に祐巳は背中に針金が入ったかのように直立不動になって、こちらもいつもの妹モードで返事
をしてしまう。


「は、入ります!一緒に、入りたいです!」

 もはや条件反射の様な祐巳の従順な子犬っぷりに祥子さまは可笑しそうに笑ったけれど。

「では、一緒に入りましょう」

 そういって微笑んだ祥子さまのお顔は、祐巳の動悸を激しくさせるには充分過ぎるほどに
艶やかだった。



                        *     *     *


 二人で隣り合って身体を洗っている間、祥子さまはずっと会話を絶やさないでいてくれた。
聞き上手な祥子さまは、山百合会のことやクラスでのこと、それから家での様子など祐巳の他
愛もない話にテンポよく相槌を入れてくれたり、時折自分の話を織り交ぜてくれたりして会話
の止まることのないように、それでも無理をしている風ではなく自然に話しをしてくれた。だ
から祐巳はさっきまで感じていた緊張などいつの間にか忘れて会話を楽しむことが出来た。

 まるで合宿にでも来ているかのような楽しい雰囲気に安心しきっていた祐巳が、再び激しい
動悸に悩まされることになったのは身体を洗い終わって浴槽に浸かろうかという時だった。


「祐巳、こっち」

 先に浸かっていた祥子さまが祐巳の手を取るとそのまま自分の方に引き寄せてくるから、祐
巳はすっぽりとその腕の中に納まってしまった。


(うわぁ!)

 祥子さまのお部屋専用の浴室は福沢家のものより大きいくらいで、広々とした浴槽は女の子
二人位なら悠々と足を伸ばせる程だった。それなのに後ろから抱きすくめられる様にして座ら
されてしまっては、縮こまって身じろぎ一つも出来ない。その上、何も身につけずに抱きしめ
られると触れ合った場所が過剰なまでに祥子さまを感じてしまって会話どころではなくなって
しまった。祥子さまも先程までの饒舌さは影を潜め、今はただ無言で祐巳を抱きしめていた。
時折滴り落ちる水の音だけが浴室に響いて、余計に自分の早鐘が耳について仕方がない。


「祐巳」

 静寂は唐突に祥子さまの声で破られた。耳元に吐息を感じると同時に祐巳を抱きしめていた
腕に力が込められる。


「は、はい・・・」

 呼吸が競り上がるように乱れるのを感じながら、祐巳は何とか呼びかけに答えたけれど、次
の瞬間浴室に響いた声は思いの他硬かった。


「・・・どうして、黙っていたの?」

「え?」

 水面に反響する声はそれでも不機嫌な色を落としてはいなかった。抱きしめられて溶けてし
まいそうになっていた体が瞬時に強張るのが自分でもわかる。


(お、怒ってる!?)

 自分でもよくわからないことで祥子さまがお怒りになるということはこれまでも幾度となく
あった。その度に言葉足らずの二人が行き違いになることもしばしば。でも、こんな風に優し
く抱きしめられながらなじられるなんてことは今までなかった。蕩けてしまいそうな身体を冷
たく固まった心が冷やしていくみたいに足元が震える。

 でも、ふと祐巳のお腹の辺りで組まれている祥子さまの手も少しだけ強張っているのをみつ
けて肩の力が抜けた。
 そうだった。祥子さまの祐巳に対するこんな怒りは傷ついた心の裏返しでもあるのだった。

 そんな心ごと受け止めたいから、いつだって祥子さまを優しく包んで暖めてあげたいから。
祥子さまの言葉をただ待つだけなんてしてはいけないのだ。


「あの、すみません。お姉さまは何のことを仰っているのでしょうか?」

 花寺でのことだろうか、可南子ちゃんのことだろうか、それとも祐巳にはまったく見当もつ
かないことなのか、聞いてみなければわからない。


「・・・あの、一年生のこと・・・とか」

 しばらくの逡巡の後祥子さまがそう小さく答えたかと思うと、首筋に濡れた感触がして。瞬
間、小さく焼けるような痛みが走った。


「・・・・・・っ」

 強く唇を押し当てられた場所が、熱く脈打つのがわかる。驚いて息を呑むと唇が離れて、次
に慰めるようにそっと温かい唇が再びそこに触れた。意図を察しかねて小さく身じろぎをする
と祥子さまはそこに額を押し当ててまた呟いた。


「・・・花寺でのことも・・・」

「お姉さま?」

「祐巳は何も言ってくれないもの」

 浴室の壁にあたって跳ね返ってきた祥子さまの声は少しだけ震えていて、泣いているみたい
だった。


「怒っているわけではないの。ただ、私の気持ちの問題」

 心配になって振り向こうとした祐巳の耳に、今度は震えてはいないけれど、どこか自嘲的な
声が届く。


「お姉さまの、気持ち・・・」

 反芻するように声に出して呟くと、なんだか切なくなって祥子さまの腕の中ではじけるよう
に身体の位置を変えた。


「お姉さま・・・」

 向き合うようにすると祥子さまは背中に腕を回してやんわりと抱きしめてくれたけれど、顔
は少し俯いていて。確かに祥子さまは怒ってなんていなかった。むしろ傷ついているような表
情だ。

 それなのに。泣いているみたいな顔の祥子さまに胸が切ないはずなのに、どうしてこんなに
も自分は落ち着いているんだろう。


「・・・私の腕の中にいるあなたはこんなにも小さいのに、つらいことも悲しいことも自分で
乗り越えていける力が詰まっているのよね。それは、うれしいことなのに・・・」


 まるでうまく気持ちを伝えられない子どものように、祥子さまは唇を噛んでそこで黙り込ん
でしまった。だから祐巳は、安心させるように裸の胸と胸をぴったりとくっつけて祥子さまに
寄り添う。規則正しい二つの心臓の音が重なり合うと、祐巳まで穏やかな気持ちになって、静
かに祥子さまの次の言葉を待つことが出来た。


「・・・祐巳がつらい時、側にいるのはいつだって私でいたいのに・・・」

 ああ、そうか―――

 もどかしげに吐き出された言葉はそれでも祐巳にきちんと伝わった。

『祐巳のことは全部私がしたいのに』

 祐巳を自己嫌悪の渦から引き上げてくれた言葉は祥子さまの本音で。

『私といて楽しいと、いつも思ってもらいたいのに』

 いつだって、祥子さまのやるせない気持ちは祐巳への想いの裏返しで。


 祐巳は祥子さまが好きで。

 祥子さまも祐巳が好きで。

 でも、世界は二人だけで構成されているわけではないから。糸と糸が重なり合って布を織り
上げていくように、一人の人間の周りにはたくさんの関係が築かれていて。その上で二人はお
互いに惹かれあっているのだ。


 だからこそ不安になる。大切にしたい気持ちばかりが先走って、自分を無力に感じてしまう。

 でも、どうしてだろう。自分のそんな気持ちに気づいた時には自己嫌悪でいっぱいになった
のに。祥子さまのそんな気持ちに触れても全然嫌じゃない。それどころかうれしくて、愛しく
て、とくんとくんと鼓動と共に暖かい気持ちが溢れてくる。祥子さまからのまっすぐな気持ち
が届いた心が喜んでいるみたいだと思った。祥子さまにも、ぴったりとくっついた胸からその
気持ちが伝わればいいのに。


「お姉さま」

 祐巳は、膝で立つ様に身体を起こしながら、その首に腕を絡めて愛しい人をみつめた。

「祐巳?」

「何があっても、お姉さまが腕を広げて待っていてくださるから、私は何度でも立ち上がれる
んです」


「え?」

 可南子ちゃんとこじれてしまった時、お姉さまの温もりが祐巳を包んでくれた。

 着ぐるみを着て歩いていた時、お姉さまが待っていてくれたから、祐巳は決して歩みを止め
たりなんてしなかった。


「どんなに離れていても、お姉さまがいてくださるだけで、私が幸せになれるんだってこと。
どうしてお姉さまはわかってくださらないんですか」


「祐巳・・・」

 大切な人の瞳に自分の瞳が映っている。まっすぐに祐巳を見つめてくれる祥子さまが、上か
ら見下ろす角度からは少しだけ幼く見えて胸がきゅんと締め付けられた。


「大好き、お姉さま」
 
 言葉で、視線で、全身でこの気持ちを伝えたい。何回言っても足りない位の「大好き」がひ
とつ残らず祥子さまに届きますようにと願いを込めて、首に回した腕をそのままに祥子さまを
抱きしめた。祥子さまに比べたらずいぶんと慎ましやかな祐巳の裸の胸に、祥子さまの頬が当
たってくすぐったい。直接触れ合った場所から早くなった鼓動が聞こえるかもしれないけれど、
もう恥ずかしいなんて思わなかった。いっそう力を込めて抱きしめると祥子さまも背中に回し
た腕に力を込めて応えてくれた。そのことがうれしくて、自分の腕の中に祥子さまがいてくれ
ることがうれしくて。くすくすと笑い声がこみ上げてきてしまった。それが伝染したみたいに
祥子さまも祐巳の胸に頬擦りするようにしてくすくすと笑うから。くすぐったくてまた笑う。
おかしそうに顔を上げた祥子さまと額と額をくっつけてみつめあうと、幸せな気持ちになって
今度は二人して笑い合った。


 ああ、この人が好きだ。

 胸いっぱいに満たされた幸福感の中で心の底からそう思った。ひとしきり笑い合った後、祥
子さまは少しだけ上がってしまった呼吸を整えながら祐巳をみつめて、指先でそっと頬に触れ
てくれた。


「・・・嘘つきね」

「へ?」

 嘘なんてついたっけ?唐突な祥子さまの言葉に思わず記憶を遠いところまで遡らせそうにな
ったけれど、みつめあう祥子さまはとても楽しそうに微笑んでいて、祐巳を非難している風で
はない。


「私が、よ」

「え?」

 祐巳の頬を撫でていた祥子さまの指先が、ゆっくりと唇まで撫で下ろされる。

「祐巳のご両親には休ませるなんて言って・・・」

 唇を優しくなでていた指先がそっと離れると、その場所に熱い吐息を感じて先程までとは比
べ物にならないほどにどきどきした。


「・・・何をするつもりなのかしらね」

 甘くそう囁いてから、祥子さまは祐巳のおとがいに優しく口付けたのだった。



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