涼風凛凛 3




「えっと、でも・・・」


「でも、何?」

 祥子さまは、泊まっていけばいいと言われて今度こそ本当に硬直してしまった祐巳にぴった
りとくっつくようにしてベッドの上に座りなおした。


「・・・申し訳ないです・・・」

 蚊の鳴くような声でそういうのが精一杯だった。だって、そんな風に祥子さまに優しくして
いただく価値なんてない。まるで子どもみたいに柏木さんに嫉妬して、お姉さまに迷惑をかけ
て、その上こんなに甘やかされたら本当にだめになってしまいそうだった。それなのに祥子さ
まはまるで包み込むように祐巳の肩に手を置くとやわらかく言葉を次いだ。

「ばかね、こういう時には素直に甘えればいいのよ。・・・それに」


「それに?」

「あなたのことが心配なのもあるけれど・・・・・・」

 さっきまで、正真正銘のお姉さまの様に威風堂々としていた祥子さまの声がそこで詰まった。
すぐ横にある顔は、覗き込まなければ表情まで見えない。なにか、ごにょごにょと呟いている
声がするがうまく聞き取れない。


「お姉さま?」

「・・・・・・私が泊まって欲しかったのだもの」

「は」

 びっくりして、祥子さまから少し身体を離してまじまじと見つめてしまったけれど、その表
情を見て今の言葉が自分の聞き間違いではないことを理解した。祥子さまのお顔は真っ赤だっ
た。それから、祐巳と視線が会うと気まずそうに目線を泳がせてから、怒ったような顔をして
つんと横に向けた。


「お姉さま・・・」 

 なんだろう、この気持ちは。胸の奥がじんわり暖かくなってくる。さっきまで祐巳を満たし
ていた自己嫌悪がそれによって消されていくかのように身体の隅々までぽかぽかと温められて
いく。うれしすぎて叫びだしてしまいそうだ。しかし、祐巳のそんな忙しい心理状態を知って
か知らずか、祥子さまは何かに思い当たったような表情をしてからこちらに向き直った。


「それとも、祐巳は嫌なの?」

「へ!?」

 まったくもって見当はずれな祥子さまの質問にまたしても間の抜けた返事をしてしまう。そ
んな拗ねたような表情で言っても、祐巳の幸せゲージをいっぱいにするだけなのに。


「そうではないんです、ただ・・・」

「ただ?」

 キスされるのかと思うくらい祥子さまが祐巳に顔を近づけて続きを催促するから、一瞬言い
よどんでしまったけれど、祐巳をまっすぐにみつめてくれる祥子さまに嘘なんてつけないと思
ったから。祐巳は俯きかけた顔を上げて祥子さまをみつめ返した。


「私、柏木さんに嫉妬しました」

「・・・・・・」

 一瞬、祥子さまの眉が不快そうに顰められて怯みそうになったけれど、視線をそらしたりな
んてしなかった。できなかった。


「何でもできてしまう柏木さんに嫉妬して。お姉さまと親しくする柏木さんに嫉妬して。その
くせ、何も出来ない自分がふがいなくて、嫉妬ばかりしている自分が滑稽で。私が一人で落ち
込んでいたんです。・・・お姉さまにまで不快な思いをさせて申し訳ありませんでした」


 一気にそれだけ言うと緊張の糸が切れたみたいに、また俯いてしまった。呆れられただろう
か。言わなきゃいけないなんて思ってはいたけれど、いざ言ってしまうとその後の祥子さまの
反応が怖い。沈黙に背筋がじりじりと痛んだ。


「ばかね」

「・・・っごめんなさ、い・・・」

 ぽつりと漏らした祥子さまの言葉に、我慢していた涙がこぼれてしまった。本当に、なんて
馬鹿なんだろう。自分でも自覚していただけに、それを祥子さまに指摘されると思っていた以
上に堪えた。


「・・・祐巳は嫉妬してしまったことを言っているのかもしれないけれど・・・」

 祥子さまは、祐巳の瞳からこぼれた涙を指先でそっとぬぐいながら静かに言った。

「・・・・・・私が気に入らないのはそこではないわ」

「え?」

「何にも出来ないなんて、自分を卑下するものではないわ。祐巳は、いつだって私を支えてく
れているじゃない」


「お姉さま・・・」

 力強い眼差しに、胸に満ちていた重い空気が吐き出される。それと一緒に心の奥から言葉に
出来ない感情まで溢れ出してくる。


「私が辛い時、側にいて欲しいのは祐巳よ。うれしい時、一緒に笑って欲しいのも祐巳だわ。
そしてあなたはいつだってそうしてきてくれたじゃない。それなのに何も出来ない、なんて。
本当にそう思っているの?」


 なんて答えていいのかわからなくて、こくんと喉が鳴る。さっきまでとはまったく違う涙が
溢れるのも止められないくらい、もう祥子さまをみつめるしか出来なかった。いつだって祐巳
を勇気付けてくれるのはやっぱりお姉さまの方だ。大好きな人にこんな風にみつめてもらえる
なんて、こんなすばらしい言葉をもらえるなんて。これ以上幸せなことって他にあるのだろう
か。

「お姉さまぁっ」


 身体の底から湧き上がる幸福感に満たされながら祥子さまをみつめると、祥子さまはちょっ
とだけ照れたような微笑を浮かべた後に両腕を広げてくれたから、祐巳はまっすぐにその腕の
中へ飛び込んだ。祐巳を包んでくれる祥子さまの細くて華奢な腕はそれでも力強く温かかった。


「・・・それにね」

 胸に顔を埋めるようにして祥子さまを全身で感じていると、不意にぽつりと声がした。

「嫉妬していたというなら、私だってそうよ・・・」

「え・・・?」

 顔を上げようとしたけれど、それよりも早く祥子さまが祐巳の首筋に顔を埋めたから表情ま
では確認できない。耳朶に当たる祥子さまの吐息が熱い。


「祐巳のことは私が全部したいのに。結局優さんに車で送ってもらわなければならなかったで
しょう?とても自分が無力に思えたもの・・・」


「そんな!」

 確かに、体調の悪い祐巳を車で送ってくれたのは柏木さんだったけれど、抱きしめて欲しか
ったのは祥子さまだ。側にいて欲しかったのは祥子さまだけだった。他の誰かじゃだめなのだ。
静かな雪のように募った愛しさが、祥子さまの暖かい気持ちで溶かされていっぱいになって祐
巳の小さな身体だけではとても収まりそうもない。


「お姉さまは、帰る間ずっと私の側にいてくださいました。私、すごく、すごく安心しました
・・・っ」


 ああ、本当はこの胸に溢れる祥子さまへの気持ちをひとつ残らず伝えたいのに。言葉になっ
て出てくるのはそれだけなのがもどかしい。祥子さまには伝わっただろうか。


「ええ・・・」

 顔を上げて祐巳を見つめてくれた祥子さまの瞳は穏やかで、祐巳への愛情に満ちているって
自惚れてもいいくらいに優しい光を湛えていた。


「わかるわ」

 そう囁いた祥子さまの指先がそっと祐巳の唇をなぞる。優しく目元を緩ませた祥子さまをみ
つめながら、吐息が乱れていくのが自分でもわかった。祥子さまへの気持ちが触れ合う場所か
らもっともっと伝わりますようにと願いを込めて目を瞑る。


「祐巳」

 祥子さまの吐息が唇にかかって、くすぐったい。甘い期待に胸が高鳴る。

(お姉さま・・・)

 そう、あと少し。もう少しだったのにそれはやってきてしまったのだ。唐突に。

 ぎゅるぎゅるぎょ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜・・・・・・

「うわ!」

「・・・・・・」

(うわ!うわわわわ!!うわぁぁ〜〜〜〜〜〜!!)

 何てこと。ムードも何もあったもんじゃない。まさかここでかえるの独唱なんてっ!しかし、
慌てふためいて入れる穴を探してわたわたし始めた祐巳の耳に不可思議な声が届いた。


「くっ、くくくくく・・・」

「お、お姉さま!」

「あははははは!もう!祐巳ったら・・・っ。ふ、ふふふっ」

 絶望的な気持ちで顔を真っ赤にしている祐巳とは対照的に祥子さまはあろうことか目に涙まで
ためてお嬢様らしからぬ声を上げて笑った。


「いいわ、ご飯にしましょう」

 さっきまでの甘い雰囲気なんてすっかり忘れたように、祥子さまは立ち上がって祐巳も立た
せた。


「そ、そんな・・・」

 空気をぶち壊しにしたのは確かに祐巳ではあるけれど、何もそんなにさっさと切り替えしな
くても。クールな祥子さまに思わず情けない声を上げてしまう。


「そんな顔しないの・・・まだ、夜は長いでしょう?」

「え?」

 それは一瞬だった。祥子さまの手がそっと祐巳の肩に置かれたかと思うと、頬に柔らかな感
触が訪れて静かに離れた。


「用意なさい」

 祥子さまはすぐに顔を離すと食事の用意のためか、部屋を後にするべくさっさと歩き出す。

「えっと・・・」

 触れられたところに手のひらを当てるととっても熱くなっていて。ふと祥子さまの後ろ姿を
見ると耳が真っ赤になっていて。自分も同じようになっているはずだと思ってからやっと、祐
巳は頬にキスされたのだとわかったのだった。




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