涼風凛凛 2




 祥子さまが寝込んでしまう位に荒いと評判の柏木さんの運転だったけれど、今のところ気持
ち悪くなったり、吐き気を催したりということはない。むしろ良い運転の見本の様に慎重なハ
ンドル捌きだ。


「どう?祐巳ちゃん、少しは良くなったかな?」

 相変わらず昔の青春スターのような微笑を浮かべたまま柏木さんはバックミラー越しに祐巳
に話しかけてくる。


「はい。あの、すみません」

「謝ることなんてないさ。女性を気遣うのは男の役目だからね」

 聖さまが聞いたら真っ先に噛み付くだろう台詞をさらりと言ってのける。やっぱりこの人キ
ザだ。だけど、歯が浮くようなその台詞にも先程のような腹立たしさは感じられない。いや、
感じられないというよりはそんな風に思う自分がどうしようもなく子どもっぽく思えて居た堪
れなくて、あまり深く考えないようにしているというのが現状なのだけれど。


「でも、本当に優さんがいてくれて助かったわ」

 祐巳を気遣うように抱き寄せてくれていた祥子さまが口を開く。その気持ちのこもった言葉
にまた祐巳の胸がちくりと痛む。


「そう言って貰えるとうれしいな」

 祥子さまは。分別ごみのように正しいこととそうでないことを明確に別けていて、道理をわ
きまえている。だから、柏木さんとの間に傷ついた過去があっても、そのことで彼の全てを否
定したり、拒絶したりしない。たとえ受け入れられないことがあっても、そのことと今彼が見
せる気遣いや厚意を結びつけて踏みにじるようなことはしないのだ。


 わかっているのに。そして、それが出来ない自分が嫌で仕方がないのに。

 穏やかに談笑を始める二人を見ると、また心に漣が立つのがわかる。それは寄せては返す波
となり、激しく押し寄せてくる津波となって祐巳の身体の中で何度も何度も打ち付けられる。
今、誰よりも祥子さまの近くで、祥子さまの体温を呼吸を感じているのは自分なのに、心はど
こか遠くに忘れ去られたかのような空虚感が胸を満たす。


「祐巳?」

 押し黙った祐巳を不審に思ったのか、祥子さまが覗き込むようにしてみつめてくれたけれど。
頬に祥子さまの暖かい吐息が触れて、涙ぐみそうになる。

 だから、優しいお姉さまが気遣ってくれているのに、祐巳は目を開けることが出来なくなっ
てしまった。


「・・・寝てしまったみたい」

 そんな声を聞きながら、車に揺られていると本当に意識が遠のいてきた。せっかくだからそ
れに抗うようなことはせず、眠りにつく方が懸命な気がした。


 二人の会話なんてこれ以上聞きたくなかった。


*     *     *



 なんだか、目の前に霞がかかったような、ぼんやりとした世界の中に祐巳はいた。そこには
大好きな祥子さまもいて、祐巳と二人きりだった。祥子さまはとても優しそうに微笑んでいて、
それなのに祐巳のほうなんか見てはいない。二人きりのはずなのに、祐巳ではない誰かに話し
かける様にして、まったく祐巳のことなんて眼中に入っていない。


『お姉さま?』

 声をかけても、祥子さまは気づかない。くすくす笑ったり、身振り手振りを交えたりしなが
ら、祐巳には見えない相手とのおしゃべりに熱中している。


『お姉さま・・・っ』

 まるで祐巳のことなんて見えてない様な仕打ちに胸が張り裂けそうになって、叫ぶようにし
て祥子さまを呼ぶが答えてくれる気配はなかった。


『・・・・・・っ』

 涙の滲む目でじっと祥子さまを見つめると、祥子さまの向かい側で佇む人がぼんやりと浮か
んできた。


『だれ・・・?』

 柏木さんかと思った。蓉子さまかもしれないと思った。でもその人は祐巳の知っている人で
はなくて。いや、知っている人なのかと言うより、男性か女性かということすらわからない。
ただ穏やかな微笑を浮かべ、祥子さまをみつめる瞳は慈愛に満ちていた。守るように慈しむよ
うに祥子さまをみつめるその瞳に、滲むだけじゃなくて涙がこぼれてしまった。

 だって。
 何の見返りも求めていない、愛情だけを込めたその眼差しを、自分は祥子さまに向けられる
のだろうか。そう思えてしまったから。



「・・・お姉さま」

「あら、起きたの?祐巳」

「へ!?」

 うわ言のように呟いた言葉に返事が返ってくるとは思っていなかった祐巳は思わず間の抜け
た声を上げてしまった。


「お、お姉さま!?」

 急激に頭に血が上ったせいか、すぐに目が冴えた。慌てて身を起こすといつもの自分の部屋
とは違う風景が目の前に広がっていた。そういえば自分が身を預けていたこの布団もいつもよ
り数段ふかふかな気がする。


「もう起きても大丈夫なの?」

「あ、あ、・・・お姉さま?」

「・・・落ち着きなさい、祐巳。あなたさっきから同じ言葉しか口にしていないわよ」

 ベッドの端に腰掛けた祥子さまは呆れたような表情を浮かべながらも、優しく祐巳の背中を
さすってくれた。


「あの、私どうして・・・?」

 確か、花寺で立ちくらみを起こしてしまって、柏木さんの車で家まで送ってもらっていたは
ずなのに。今自分のいる部屋は、自分の部屋ではありえない位に広くて、見ただけでいい物だ
ってわかるような綺麗な家具が置かれていて。おまけにベッドには天蓋までついている。ここ
は、祥子さまの部屋だ。お正月に聖さまとお邪魔した時にお風呂を使わせていただいたから、
ぼんやりとだけれど覚えている。だから、わからないのはここがどこかではなく、なぜ、自分
がここにいるのかということなのだ。


「だって、あなたがしんどそうにしていたものだから」

「え?」

「優さんの車の中で、あなた寝てしまっていたでしょう?」

「あ、は、はい・・・」

 それは、もうなんとも如何ともしがたく不貞寝しておりました。涎とか垂らしていないとい
いんだけれど。


「最初は、私もただ寝ているだけだと思っていたのだけれど、あなたったら途中でうなされ始
めたのよ。涙までこぼしながら」


「ええ!?」

 そういえば、さっきは何だか夢見が悪いような気がしていたけれど、まさか泣くほど嫌だっ
たのか自分、と赤面する。けれど祥子さまはそれには気づかない様子で淡々と、でもちょっと
不安そうな表情で続けた。


「だから、車に酔って余計に体調を悪くしたのだと思ったの。それで祐巳のお家よりも私の家
の方が近かったから送ってもらったのよ」


「そうだったんですか」

 不貞寝した上に寝こけて、お姉さまに心配をかけた上、更にお宅にまで押しかけるとは何た
ることか。祥子さまが柏木さんと仲良くするのに嫉妬して、結局祥子さまの手を煩わせること
になるなんて。


「すみません・・・。あの、私・・・」

 帰ります。そう言って自分の荷物を探す。とにかく祥子さまにこれ以上迷惑をかけない様に
しないと。それに、いつまでもここにいて祥子さまに甘えていたらさっきまでの気持ちを引き
ずって、自己嫌悪から立ち直れそうになかった。


「ちょっと、祐巳」

 鞄をサイドテーブルの上に見つけて、立ち上がろうとする祐巳を祥子さまが少々乱暴に押し
留めた。


「は、はい」

「帰るって、もう遅いわ。第一、あなたさっきまで寝込んでいたのに」

「でも、それは」

 寝こけていただけなんです。とはさすがに心配そうにしてくれている祥子さまには言えなか
ったけれど、身体の方は本当にもう大丈夫だと思う。一瞬立ちくらみがしたけれど、あれは水
分不足と暑さにやられてしまっただけだろうし。なにより結構な時間寝かせていただいたこと
ですっかり体力は回復していた。


「それに、たまたまうちのかかり付けの先生がお茶に来られていたから診て頂いたのよ。軽い
脱水症状ですって」


「え?そ、そうなんですか?」

 小笠原家御用達、もといかかりつけのお医者さんまで巻き込んでしまったのか。大事になっ
てしまったのと、そこまで祥子さまを心配させてしまったのかと考えるとなんだか胸が締め付
けられてしまった。


「だから、勝手だと思ったのだけれど。祐巳のお家に電話してしまったのよ」

「うぇ!?」

 そ、そ、それは!本当に大事だ。祐巳が倒れたからお姉さまのお家で休ませていますなんて
電話がかかってきた日には、あの両親のことだ泡を吹きながら大急ぎで迎えに来るに違いない。

(・・・あれ?)

 飛んでくるに違いない両親の姿はここには見えない。ここには間違いなく祥子さまと祐巳の
二人しかいないわけで。


「・・・ちょっと心苦しかったけれど、心配されるだろうと思って。『学園祭の帰りにうちに
よって話しをしていたら祐巳が寝てしまって、疲れているようだから今日はこのまま私の家に
泊まらせていただけないでしょうか』とお願いしたのよ。最初は遠慮されていたのだけれど、
祐麒さんもお昼の様子を見ていたから加勢してくれて・・・」


「あ、あの・・・」

 結果的に、あなたのご両親をだましたみたいな形になって申し訳ないけれどと前置きした後、
その場に固まってしまった祐巳に祥子さまは言い聞かせるように言ったのだ。

「今日は、あなたはうちに泊まっていけばいいわ」




BACK NEXT

inserted by FC2 system