涼風凛凛




「ふう・・・」


 パンダの被り物を外すと顔にまとわりついていた熱気が風にさらわれ、深呼吸すると新鮮な
空気が肺を満たした。

 先程まで祐巳を抱きしめてくれていた祥子さまは一旦身を離すと、とりあえず被り物だけで
も外すようにと促した。本当はもっと抱きしめていてもらいたかったけれど素直に従って正解
だった。蒸れた被り物を外しても暑いはずなのに、汗が引いてくる。あのまま被り続けていた
ら脱水症状を起こすところだった。


「祐巳」

 被り物を外してからクリアになった視界に一番に入ってきたのは、なんともいえない表情を
した祥子さまの顔だった。


「お姉さま、あの、ご心配おかけしました・・・」

「本当よ、この子は・・・!」

 そういってまた力いっぱい抱きしめられる。

「ふぁ・・・」

 ああ、そうか。今の祥子さまの表情は、心配や不安や安堵が綯い交ぜになったものだったん
だって、耳元で呟いた祥子さまの声が震えているのを聞いてやっと気づいた。


「ごめんなさい、お姉さま」

 心配させてごめんなさい。不安にさせてごめんなさい。そんな気持ちを込めて祥子さまの胸
の中で囁くと自分を抱きしめる腕に更に力が込められた気がした。大切な人にそうされてしば
らくは幸せをかみ締めていたけれど。祥子さまはまるでキスするみたいに祐巳の髪に顔を埋め
て抱きしめてくれるものだから、うれしいけれども徐々に落ち着きを取り戻した頭で汗やら涙
やらでぐちゃぐちゃになっていた自分の顔を思い出して、汗臭くないかななんて的外れなこと
を思ってしまった。


「あの、お二人さん」

 こほん、とひとつ咳払いが聞こえて顔を上げると、渋そうな顔をした令さまが立っていた。

「とりあえず、そういうことは後でしてくれる?」

 見ているこっちが恥ずかしいから。そういわれて改めて辺りを見回すと、令さまや由乃さん、
志摩子さんに乃梨子ちゃんといった山百合会の面々はもちろん、大量の花寺の生徒たちまでも
が取り囲むようにして抱き合う二人をしげしげと眺めていたのだった。


「あ――――――――――!!!」


*     *     *


「で、ですから、まぁ、色々な事情がありまして・・・」



 しっかりと花寺の全校生徒に熱い抱擁を見られてしまった紅薔薇姉妹というか祐巳は軽いパ
ニックを起こしてその場で卒倒しそうになったが、祥子さまは落ち着いたもので「一旦引いた
方がよさそうね」等と人事のように呟くとてきぱきとした動作で撤収を始めたのだった。

 ちょっとしたアクシデントはあったものの花寺の学園祭はその後もつつがなく催され、西日
が傾きかけた頃終了を告げた。山百合会の六名はというと学園祭終了後、生徒会室で花寺側と
予定通りの挨拶を交わし、次回のリリアンでの文化祭の確認を行った後帰宅の途につくことと
なった。その途中、片づけをするために下りてきた花寺生徒会の面々と下駄箱付近でなんとな
く固まって雑談をしている時に小林君が言ったのだ。


「そういえば。なんで祐巳ちゃんはパンダの着ぐるみなんか着てたの?」

―――と。そして今のこの状況にあるわけなのだけれど。

「そういえばそうよ、祐巳ちゃん。元々はタオルを取りにいっていただけなのでしょう?」

「う」

「そうね。しかもそれにしては時間がかかりすぎていたし」

「うう・・・」

 まずい。非常にまずい。お姉さまをはじめ、みんなには多大な心配をかけてしまったわけで、
しかも明らかにおかしい状況で帰ってきた祐巳をみんなが不審に思うのも当然なのだけれども。
祐麒と間違えられて推理小説同好会に誘拐されていましたなんて言ったらそれこそ大事になる
のは目に見えている。それに腹立たしくはあるけれども、絶対に口外しないと約束したのだ。
大丈夫、私を信じて等と大見得切った手前そうやすやすと反故にするわけにはいかない。これ
は女の約束なのだ。しかし・・・。


「祐巳ちゃん」

「祐巳さん」

 黄薔薇姉妹は追及の手を緩めない。後輩思いの令さまに隠し事が大嫌いな由乃さんだから、
少しの不審な事柄も見逃すことは出来ないのだ。ああ、こんな時は息がぴったりの二人が怖い。
いつもはうらやましいなんて思えるのに。視界の端に何か言いたそうな祐麒の顔が見える。

「祐巳、何とか言いなさいな」

「あうっ」

 見かねた祥子さまがやんわりと説明を求めるが、そんなお姉さまの気遣いすら今の祐巳にと
っては詰問に聞こえてくる。


(ああ、どうしよう・・・お姉さまに隠し事なんて・・・でも・・・)

 どうしよう、どうしよう、じわじわと追い詰められた祐巳が口を割らされるのも時間の問題か
と思われたその時、不必要に爽やかな声がその場に割って入ってきた。


「祐巳ちゃんは、僕の雑談に付き合ってくれていたんだよ」

「か、柏木さん!」

 無意味なスマイルで近づいてきたのは、花寺の前生徒会長で、祐巳の恋敵、もとい祥子さま
の元(ここ重要)婚約者の柏木さんその人だった。ご丁寧に「やぁ」なんて軽く手を上げて立
っているものだから、暑さのせいではなく眩暈がしそうだ。


「まぁ、優さん。そうだったの」

 祥子さまってば、相手はあの柏木さんなのに普通に会話なんかして。一瞬、自分に向けられ
ていた矛先を彼がそらせてくれたことも忘れて唇をかみ締めてしまう。でも。


「それにしても、長居させすぎよ。祐巳は私の用事で生徒会室に行っただけなのだから」

 どれだけ心配したと思っているのと付け加え、少しだけ怒った表情で祥子さまがそう言って
くれたから祐巳のご機嫌はすぐに直ってしまった。思わずみんながいることも忘れて祥子さま
の腕に抱きつきたくなってしまったが、そんな脳みそ溶けまくりの祐巳を由乃さんの冷静な声
が現実に引き戻す。


「柏木さん、でしたっけ?雑談が長引いたのはわかりましたけれど、何で祐巳さんが着ぐるみ
を着て帰ってこないといけなかったのかは、理解できないのですけれど」


 さすがは名探偵由乃さん、柏木さんの登場ぐらいで、当初の問題を忘れたりはしないようだ。
どうやら祐巳が白状するまでこの話を終わらせるつもりはないらしい。


「それは・・・っ」

 居た堪れなくなった様な表情で口を開きかけた祐麒を、柏木さんが片手を挙げて制す。

「下駄がね」

「下駄?」

 何のことだとでも言うような不審な顔で聞き返す由乃さんにも柏木さんはひるまずに笑顔で
続ける。


「祐巳ちゃんがはいていた下駄、上げ底用なんだろう?でも、鼻緒が切れてしまって。目立た
ないように学ランを着ているのに、ズボンの裾を引きずりながら歩くわけにも行かないし。だ
からってリリアンの制服に着替え直したりしたら本末転倒だからね。少しの間蒸し暑いのを我
慢してもらったんだよ」


 わかってくれるかな、なんて更ににっこり微笑んで言うものだから、由乃さんはうんざりと
した表情で「そうですか」と返すしかできなかった。過剰な爽やかさも時には人を黙らせる武
器になるらしい。それにしても。


(学ランのことも、下駄のことも何も言っていないのに・・・)

 どうして祐巳たちが花寺の制服を着ているのかなんて少し考えればわかることなのかもしれ
ないけれど、柏木さんに見透かされていると思うとなんだか面白くなかった。それを何も言わ
なくても察した上で、パンダの着ぐるみを着ていた口実にしてしまうところが間違いなく面白
くなかった。

 少しふてくされたような気持ちで周りを見ると、由乃さんは不承不承という感じではあった
が一応は納得したみたいな顔で、令さまにいたっては「そうだったのか」なんて素直に頷いて
いるから、どうやらこの話はここで終わりそうだった。それから、祥子さまは。


「そうなの。それでは優さんに助けられたってことになるのかしらね」

「まぁ、元はといえば僕が祐巳ちゃんと話がしたくて引きとめただけだからね。成り行きかな」


「まぁ」

 ふふふ、と愉快そうに微笑む祥子さまを見て涙が滲みそうになった。柏木さんに向かって微
笑んでいるその姿にこめかみがずきずきした。先程からの暗澹たる敗北感は、間違いなく柏木
さんがもたらしたもので。なんで柏木さんにそんな気持ちを抱くのか、その元をたどるとそこ
には必ず祥子さまがいて。柏木さんに負けたくないのは、祥子さまの側に立つのにふさわしい
のはいつでも自分でありたいという対抗心と焦りが祐巳を急き立てるから。つまり、これは嫉
妬だ。助けてもらっておいて、こんなことでいちいち嫉妬している自分が情けない。どうしよ
うもなさに再度唇をかみ締めるとイライラがムカムカに変わって、胸からお腹に移動したよう
な気がした。お腹、というより胃。


(あれ・・・?)

「祐巳さん、大丈夫?」

 黙って成り行きを見守っていた志摩子さんがおっとりと聞いてきた。

「顔色、良くないわ」

「うん・・・」

 大丈夫、そう答えようとした所で視界がぼやけてきた。さっき感じた眩暈は柏木さんに対し
てだけではないらしい。首筋から背中にかけてぞくぞくと冷感が走る。どうやら本当に体調が
よろしくないのかも・・・。


「祐巳?どうしたの」

 志摩子さんの声を聞いた祥子さまが祐巳に駆け寄ってくるのが見える。祐巳が祥子さまに手
を伸ばすよりも早く、祥子さまが祐巳を抱きとめてくれると同時に足元から崩れ落ちるような
感覚に襲われて祥子さまにしがみついた。


「祐巳!」

 祥子さまの悲壮な声で自分が今どんな状態なのか理解できたけれど、身体に力が入らない

「・・・だいじょぶ、です・・・」


 何とかという感じで祐巳はそう答えたけれど、自分の声が耳に届くと案外大丈夫かもしれな
いと思えてくるから不思議だ。実際、眩暈がして一瞬立眩みを起こしてしまったけれど意識を
失うほどではなかったし、気持ちが悪いけれど、吐き気を催すほどではなかった。


「おい、祐巳。大丈夫か!?」

 祥子さまに遅れること数瞬、祐麒も祐巳の元へ駆け寄ってくる。

「祐麒、祐巳さん送って帰ったほうがいいんじゃないの」

「あ、ああ・・・」

 アリスがおろおろと祐麒を促すと、祐麒もうろたえまくりながら頷いているのがわかる。

「大丈夫よ、祐麒。しばらく休んでいれば元に戻るし。祐麒たちはまだ片づけが残ってるでし
ょう」


 生徒会長に片づけをサボらせてまで送ってもらわなければならないほどの病状ではないと思
う。現にもう祥子さまに支えてもらえなければ立てないという程でもなくなっている。結構な
回復力ではないだろうか。


「でも、祐巳さん」

 今度は志摩子さんが異議を唱える。声をかけた途端に自分の目の前で倒れられたのだから、
志摩子さんとしては放っておけないのだ。


「本当に、大丈――・・・」

「では、僕が送って帰ろう」

「「な・・・っ」」

 思わず福沢姉弟の声が重なってしまった。だって、それまで事態を傍観していた柏木さんが
ごく当たり前のようにそう言って祐巳の手をとったのだから。他の人たちとは打って変わって
落ち着いた様子で、ポケットから車のキーを取り出す柏木さんに祐麒が慌てた。


「でも、先輩・・・っ」

「でも、じゃないだろう。お前後輩に片付け押し付けて、一人だけ帰るつもりか」

「それは・・・っ」

「それに、お前が付いて来た所で、祐巳ちゃんが公共交通機関を利用する以外は歩いて帰らな
いといけないことにかわりはない。祐巳ちゃんの体調を考えればどっちがいいのかなんて考え
なくてもわかるだろう」


「・・・」

 祐麒はしゅんと俯いてそれ以上何も言えなくなってしまった。確かにその通りなのかもしれ
ないけれど、なんだか癪に触るその言い方に今度は祐巳が噛み付いた。


「け、結構です。ちょっと立眩みがしただけです。歩いて帰れますから・・・っ」

「僕は、基本的に貸し借りはしないんだ」

「へ?」

「だから、君からの『貸し1』を早く返したいんだけどな」

「あ・・・」

 そういえば、パンダを着る前にそんなやり取りをしたような。しかしだ。柏木さんに助けて
もらう、なんて。まるで敵に塩を送られる様なものなわけで。それに、どんなに好きではない
相手でも、たまたま通りかかっただけの人にそこまでしてもらっては申し訳ない。


「祐巳」

 祐巳がそんな風に逡巡していると、祥子さまが言い聞かせるように話しかけてくる。

「今日は、お言葉に甘えましょう。他の方にもこれ以上心配をかけてはいけないわ」

 そう言われて初めて辺りを見渡すと、令さまやアリスたちが心配そうに様子を窺っていた。
意固地になって自分の気持ちを通そうとしていた心がしおしおとしぼんでいくのがわかる。


「・・・はい・・・」

 また、涙が滲みそうになる。子どもっぽい自分が情けない。皆が心配してくれているのに、
祐巳は自分のことしか見えていなかった。柏木さんに嫉妬するあまり、彼の厚意まで踏みにじ
るところだった。


「大丈夫よ、私も一緒に送っていくから」

 祥子さまはそう言うと、柏木さんの手から祐巳を自分の方へ抱き寄せてくれたけれど、自己
嫌悪の渦はずぶずぶと祐巳を飲み込んでいって、しばらくは立ち直れそうになかった。




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