Rainbow fish 2



 みちるの指が、はるかの腕を何度も撫でる。黒ずんでいきそうな青いあざの上を。

「あのさ、もう平気だから」

 ベッドの上にだらしなく寝そべったままそう伝えたけれど、はるかのすぐ傍に腰を
下ろした彼女は項垂れたまま、力なく首を横に振った。


「押さえたら少し変な感じはするけど。痛いわけじゃないよ」

 顔をあげてほしくて目元のあたりに指先を伸ばすけれど、みちるはそこに自分の額
をくっつけるようにしてはるかの手のひらを握る。そのまま、また、首を横に振った。


「みちるのせいじゃないだろ」

 みちるの髪が、彼女の首の動きに合わせて、左右に揺れる。

「・・・・・・」

 思わず零れそうになるため息を、らしくもなく呑み込んでこらえた。

 ただちょっと難しーお仕事だっただけ。こちらが思ってた以上に力のあるらしい相
手だったとでも。


 使命を遂げるためなら、犠牲者が出ることもやむを得ない。二人の認識は一致して
いる。けれど、必要もないのに、誰かを傷つけてしまうのは許されないってことも理
解している。


 だからどうしても、お仕事やっつけちゃうのは、人通りの少ない薄暗ーいところだ
ったり、目隠しになるような建物や木々やその他諸々が周囲を覆い尽くしているよう
な場所になる。


 対峙するのはいつもどおり一体の化け物。思っていた以上に力があるって言うのは、
強かったって意味じゃない。ただ単にはるかの慢心がそう思わせただけ。そのせいで
二対一であるにもかかわらず、結果的に時間がかかってしまった。


 相手の意識が彼女に集中している間に後ろを取れば難もなく済ませられる。次の
シュミレーションを行うよりも前に、身体がその間合いで動いていた。


 はるかの脚がその方向へめがけてかけ出すのと、そいつがこちらへ振り返るのは同
時だった。ただその次の行動が、はるかよりも相手の方が早かった。逃げるでも守る
でもなくそいつははるか目がけて一直線に力を放った。


 避けきれなかった。けれど渾身の一撃だろうに、それははるかの身体を吹き飛ばす
以上の力を持っていなかった。風に押し上げられるみたいに宙を舞いながら、身体自
体へのダメージがないことを認識する。


 着地と同時にカタをつけてやるさ。

 右手に熱を集めながらはるかは視線を定めた。が。

『あ?』

 身体が打ち付けられる鈍い音。ここまでは想定の範囲内。自分たちの姿を覆い隠す
木立に背中を強く打ちつけていた。その反動で目標物めがけて駆け抜けていくはずだ
ったのに。


 打ちどころが悪かったのか、むしろある意味ヒットなのか。その衝撃と共に、はる
かの意識はすとんと落ちた。ついでに身体も真っ逆さまに。それでもって最初に地面
にたたきつけられたのが、不格好な跡の残るこの腕だった。間抜けすぎる。


『はるか、はるか・・・!』

 頑丈さが取り柄であることを自覚しているはるかが、次に目を開けた時に見たもの
は、既に女の子の姿に戻ったみちるだった。木立を背凭れにして座り込んだはるかに
覆いかぶさるようにしてこちらを覗き込んでいる。


『はるか!』

『え、あ、はい』

 ものすごい剣幕にしか見えない形相で呼びかける彼女の声に、思わずはるかは身を
縮めてお返事する。


『・・・・・・はるか』

『うん』

 さっきから何度も名前呼んでるのって、本人確認か何かなのかな。そう思ってもう
一度頷いて見せる。瞬間、はるかの肩を掴んでいた手から力が抜ける。


 強張っていた表情が、柔らかくなって、くしゃくしゃになる。

『はるか』

 力の抜けた身体をしなだらせると、みちるが掠れた声でもう一度呟くから。彼女が
何を確かめようとして何度も呼びかけていたのかがわかって胸が痛んだ。


 抱き返したみちるの肩が小刻みに揺れている。

 傷ついたはるかを、彼女はいつも、自分に痛みが与えられたかのような顔をしてみ
つめているのを知っている。


 それを悟られないように、表情を押さえつけようとしていることも。

 その彼女が、腕の中で小さく震えているのも、自分のせいだと思うと、腕の痛みも
忘れて強く抱きしめて離したくなくなった。


(・・・こういうのも可愛いんだけど)

 しばらく抱きしめていると、落ち着いたのか、彼女は慌てたように身体を離したけ
れど。家路についている間。部屋に帰ってから。それから今ベッドに寝そべるまで。
みちるは不安そうに瞳を揺らめかせたまま、はるかをみつめていた。正確には、あざ
の浮き出たはるかの腕を。


 Tシャツに薄手のベストを羽織って、スウェット地のチェックパンツを引きずるよ
うにして履いているいつもの格好のはずなんだけど。こんなことなら、ロングスリー
ブにするか、薄いジャケット羽織ってくれば良かったかな、とみちるの視線を受け止
めながらはるかは苦笑した。


(僕が心配するのは嫌がるくせに)

 怒った顔をして見せるわけじゃない、ただ彼女の身を案じるような素振りをはるか
がみせると、何でもないことのように受け流されるだけ。けれど逆の立場になると話
が違うらしい。


 痣の浮き出た腕に唇を這わせ始めた彼女を眺めながら、不謹慎かもしれないけど、
ちょっとした悪戯心が芽生えるのを止められなくなった。


「じゃあ、本当にもう何ともないって、確かめてみる?」

 先ほどまでの押し問答とは違うはるかの台詞にみちるが顔を上げた。それと一緒に、
はるかも身体を起こして座りなおす。


「?」

 そのまま腕を軽く引っ張って膝の上に乗せると、彼女は不意の出来事に目を丸くした。

(あー・・・いいな、この位置)

 隣り合って座ったり、二人して寝そべったままみつめあうのも好きだけど。こんな
風にみちるを膝の上に座らせて、普段と違う目線になるのも好きだ。だって。


(おいしそーなお菓子がすぐ側に・・・)

 口が裂けてもそんなこと教えたりできないけど。この体勢で、はるかの目に映るの
は彼女の唇のあたり。艶々ひかるそれをでれーっと眺めながら視線を下げるだけで、
はるかの大好物であるところのそれがはちきれんばかりに視界を満たす。幸せ過ぎる。
これはもういただきますしていいんだよね。食べちゃうよ。生憎はるかは「待て」や
「おあずけ」のしつけが覚えられていないのです。


 ということで、天ならぬ海王星の恵みに感謝して心の中で手を合わせてみた。いた
だきまーっす、と。


「きゃ・・・」

 抱き寄せた細い腰のあたりから、撫で上げるみたいに動き始めたはるかの指の感覚
に、彼女が短く悲鳴を上げた。


 服着たままだと正直さわり心地はよろしくない。綿とかポリエステルに思い入れが
あるわけじゃないし。けれど。


「・・・・・・は、る」

 戸惑う気持ちのまま声を途切れさせて、けれどキッとこちらをみつめ続ける姿がい
じましい。視覚の愉しみってやつ?


 胸元まで這い上がって来たはるかの手を睨みつけると、彼女は近くにあった腕を叩
こうと左手を軽く振り上げた。いつもなら、ここでぱしりと叩きつけられてる所なん
だけど(もちろん止めたりなんてしないけど)、そこに浮き出ている青い跡のことを
思い出したのか、緩々と指先が這わされただけだった。押し返そうと少しだけ力を込
める指先を無視して、手のひらに収まりきらないような熱を味わう。食い込んで、弾
かれて、喉がからからに乾いちゃいそう。


「っはるか・・・、どうしてこんな時にまでふざけるの?」

 みちるの手のひらが、はるかの手に重ねられてお互いの指が絡まりあうと、彼女の
意図とは反対に、もっともっと引き寄せらていく。


「ふざけてなんてないさ」

 早くそこに溺れさせてよ。

「ただ、僕はそうじゃないって言っているのに、みちるがどうしても自分のせいだっ
て言い張るんだったら」


 はるかの前髪を掻きわけるように吐き出されたため息が熱の塊みたい。

「お詫びに何かしてもらおうかなって思って」

「え?」

「僕がいいって言うまで、逆らっちゃだめだよ」

 はるかの手に添わされていた手のひらが微かに強張るのがわかると、妙に声が上ず
りそうだ。


「もっとこっちにおいで」

 緊張からじゃない。昂ぶっていく気持ちに身体が煽られていく。唇の端が、意地悪
く上がっていくのもきっとそのせい。


「ちゃんとしがみ付いとかないと、ひっくり返っちゃうかもよ」

 試しに膝を揺すってみたら、軽い身体が簡単によろめいた。反射的にだろう、彼女
の手が微かなこわばりとは別に、ぎゅっとはるかの手を握った。


「あ、でも。そうしたら、ベッドにはり付けちゃえばいいか」

 その心地よい感覚を受け流して、ワンピースの肩紐に指を掛けた。きっとこれもは
るかの為の身なりに違いない。脱がしやすいことこの上ない。胸元や腰回りが緩く絞
られているから、肩紐を外してもかろうじて重力には逆らえるけれど、はるかの腕が
ほんの少し力を加えるだけで、それははるかの膝の上まですり落ちて行く。街を歩い
ている時には、コサージュでデコレートしたはるかのカンカン帽と、デニム地のジャ
ケットをプラスした露出の少ないコーディネートであるにもかかわらず、周りの視線
にまで嫉妬しそうになっていたけど。いざはぎ取る段になると正反対に心躍る。身勝
手理不尽は喧嘩の元ですか、そうですか。


「・・・そんなことしたら、・・・」

 滑り落ちて行く布地の白と、それと入れ替わりで露わになっていく素肌の白色の眩
さに、ぽかんと口を開けたままのはるかの前で、みちるは唇を噛んでから呟く。


「したら、何?」

「・・・く・・・口を、きいてあげないわ、ずっと・・・」

 素肌に触れる外気のせいだろうか、それとも感情の起伏からなのか。多分後者せい
なんだろうけど、薄い肩が震えている。だけど。


「じゃあその時はこじ開けちゃうよ」

 はるかは口元の緩みを訂正することもできない。声が笑っているのが自分でもわか
る。頬っぺたが薄紅色に輝いている。一生懸命眉をつりあげて、潤んでいく瞳をこら
えてる。細かく肩が揺れてるのは、怒ってるからだけじゃないよね。だって、頬っぺ
たとおそろいの色になってるよ。


 どれから教えてやろうかな。

 内心のニヤケ具合を必死で押しとどめながら、うきうきと覗き込むと、当然のよう
に彼女と目があって。視線が絡まるよりも前に、みちるは口元を指の背で覆い隠した。


「今も、押さえつけたらダメ」

 笑いかけるはるかを悔しそうに睨んでから、「嫌よ」と彼女が言う声が白い指に押
さえつけられて掠れてる。


 まるで耳への愛撫みたいだ。

「ダーメ。泣いてるみちるの声好きだから」

 おかしくなっちゃうまで、その声で撫でてよ。

「逆らっちゃだめって言ったろ。いい子にしててよ」

 唇を押さえつけている指先を絡め取って、そこへ軽く噛みついたら、また、熱い吐
息がはるかの頬へ触れた。それをもっと浴びせてほしくて、白い肌の上に何度も唇を
寄せた。



                             


(今日は音楽室だったよな)

 高速で駆け上がるエレベーターの中で、はるかはそんなことを思い出しては浮足立
つ。だって、今日はお昼ご飯も一緒に食べられなかったし。おかげで午後の授業なん
てほとんど聞いてない。センセーゴメンナサイ。


 上昇が停止してしばらくすると音もなく扉が開かれる。急いてしまいそうな足元を、
意識してゆっくりと踏み出した。


(相変わらずおとぎの国みたいなフロアだな・・・)

 室内に川が流れていたり、彫刻やら美術品が並べられているわけじゃない。けれど、
床や壁のちょっとした装飾や、部屋の配置が何となく荘厳に見えなくもない。


 演習室の並ぶ廊下を抜けると、大小のホールがある。それを横目に講義室をひたす
ら目指す。


(もう走っちゃおうかな・・・)

 見た所、生徒の行き来も少ないし、ホールや演習室からのざわめきも多くない。多
分に気持ちのモンダイなんだろうけど長すぎる道のりにはるかは苛々と歩く速度を上
げ始めていた。


「お願いっ、海王さん」

(は?)

 角を曲がって、目当ての部屋の両扉が全開になっているのをみつけると同時に、そ
こから悲鳴のような声がした。


「そう言われても・・・」

 急激に速度を上げて、視界の中で大きくなってくる扉。木製。けれど、開かれたそ
の向こう側から、彼女の声が聞こえてくると、はるかは身体を前のめりにさせながら
立ち止まった。


「はるかが了承していないのなら、私が無理強いすることではないわ」

 反射的に扉の影に身を隠すようにして中の様子を伺う動作が、いやに身体になじん
でいる気がして一瞬情けない気持ちになるけれど。


「もちろん。無理に何とかしてほしいとかじゃないんだ。ただ、聞いてみてくれるだ
けでいいから」


 覗き込んだ部屋の中で、手を握らんばかりの距離に近づいてみちるの真正面に立つ
彼の姿をみつけると、それを遥かに上回る勢いではるかはうんざりした。情熱も一歩
間違えれば煩わしいだけだよ、主将。向かい合ったみちるは困ったように眉を下げて、
それでも何とか唇を微笑の形に保っていた。


 はるかにとりあわれなかった彼は、どうやら作戦を変更したらしい。先日見せた執
拗なまでの熱心さを、今日も今日とて、今度はみちるの前で披露しているようだ。そ
の上。


「君の言うことなら、聞いてくれると思うんだけど」

 当たりだ。この間のはるかの様子からそこまでわかってくれるなんて、うれしいの
通り過ぎて、腹立ってきたな。そもそも彼女の顔なんて、ちらりと見えていただけだ
ろうに、しっかりこんな所にまで訪れているなんて。


(・・・まあ、すぐにわかることか)

 少し見ただけで印象に残るような顔立ちだから、だけじゃない。彼女が海王みちる
だって知らない人間なんて、とりあえずこの学校の中にはそんなにいない。ヴァイオ
リニストで、画家で、後はまあ、一年生の可愛い子とか、そんな理由から。顔か名前
のどちらかがうろ覚えでも、とりあえず、そこら辺歩いている奴に聞けば、放課後滞
在している場所なんてすぐにわかるくらいに、彼女は有名人なのだ。おもしろくねー。


「・・・私は、そう言うことはしたくないの。わかって頂けないかしら」

 ぎりぎりと扉の端っこを握りしめながらみつめた先で、みちるはついに微笑の形を
崩して溜息をついた。


「そこを何とか!」

(おいっ!!)

 握らんばかり、ではなく勢い彼は、あろうことかみちるの手を握りしめて頭を下げ
た。必死だったら何してもいいわけじゃないだろ。


 思わずそこから身体が飛び出しそうになる。というか片足が既にダッシュの形で一
歩前へと踏み出されていた。だけど、焼き付きそうなくらいにみつめた先、大きな手
に握られていた白い手が、そこからそっと抜け出すのが見えた。


「・・・ごめんなさいね」

 静かな声に、弾かれたようにはるかが視線を上げると、唇を微笑の形に戻した彼女
が、そう告げていた。


 穏やかに一度目を伏せて、踵を返す、その動きに合わせて髪の毛が揺れる。その仕
草を、はるかと同じように、彼も呆然と眺めていたのだろうか。それ以上は何の声も
聞こえてこなかった。


 赤い絨毯の上を、音もなくゆっくりと、彼女が歩いてくる。

 で。

 何で、レストルームなんかに隠れちゃってるわけ、僕は。


                              


「もうっ、はるかの馬鹿!」

「バカって言う方がバカだもん」

「・・・・・・」

 首元を手鏡で確認してからお小言を漏らすみちるに、はるかも負けじとツンとそっ
ぽを向いてみた。別にいいじゃん。軽く付けただけだから、明日には消えちゃうよ、
それくらいの赤み。彼女を部屋まで送り届ける車の中で、はるかはぶすっと唇を尖ら
せた。


 疾しいわけでも、気まずいわけでもないけど、出ていくタイミングを逃してしまっ
たはるかは、レストルームの物陰から彼女が歩いて行くのを眺めていた。だけど、廊
下の角に彼女が消えてから、思い出す。


(行き違いになっちゃうよ)

 原因はすっぽん並みにしつこい件の彼な気もしないけど、スマートな割り込み方が
即座に思いつかなかった自分の落ち度もあるわけで。だけど追いかけて行って、同じ
エレベーターに乗るなんて、覗き見してましたと報告するようなものだ。


 その結果。

『あ、みちる。早かったね』

 彼女の乗り込んだエレベーターを一度見送って、帰って来たそれに一人乗り込む。
待っている間にしっかりと確認しておいた停止階ははるかのクラスのあるフロア。一
度ははるかのクラスに足を運ぶだろうと言う予想の通りに、そこに立っていた彼女に、
少し席を外していたという素振りで、白々しくそんな言葉をかけてみる。ちょっと上
ずってしまった。不審な上に情けない。けれど怪しいことこの上ないはるかの行動に
怪訝な顔をするでもなく、みちるがふわりと笑ってくれたから、あっさりと立ち直っ
てしまった。


 だけど、彼女の手を取って歩き始めると、落ち込んでいた気持ちと入れ替わるよう
に、先ほどの光景に対する苛立ちを思い出してしまう。もしかして、一つのことしか
考えられない頭なのか、僕は。


『ちょっと、はるか!やめなさい!』

 それでもって助手席に乗り込んだ彼女にシートベルトを装着してあげるふりして、
真っ白な首筋に吸いついた。苛立ちが二、三周身体をめぐった結果、独占欲が噴き出
したからだった。頭叩かれたけど。体罰はよくないと思う。ついでに言っとくと、ど
んなに根気強くしつけたって、この先はるかが「待て」を覚えることはないと思うよ、
みちるさん。


「・・・本当に、もう」

 隣のみちるが呆れたようにため息を吐いた。ちらりと盗み見ると、風になびくふわ
ふわの髪を右手で押さえつけながら、苦笑いを浮かべている。微かに赤い跡の残る首
筋が露わになっているのも見えると、少しだけ気分が晴れた。


(・・・・・・部屋につくまで、何にも言わないのかな)

 何にもしゃべらないつもりではないらしいけど。今日の残業について、楽しそうに
話し始めた彼女を横目にはるかもため息をつきたくなった。ヴァイオリンの技法だっ
たり、音の響き方だったり、そういったことは何度聞いてもよくわからないけれど、
彼女の話をつまらないと感じることなんてない。ただ、振られるはずの話題が出てこ
ないことに焦れてしまいそうなだけ。


「みちる、僕に言わなきゃいけないこととか、ないの?」

「?」

 話のきりが良さそうなところを見計らって、はるかの方から尋ねてみる。だけど、
こちらへ顔を向けた彼女は笑顔のまま、はるかの質問の続きを待っているみたいに微
かに首をかしげて見せた。


「だから、伝えとくこととか」

 陸上部の彼にしつこく食い下がられたこととか。あまつさえ手、握られちゃったり
したこととか。そもそも、はるかがさっさと首を縦に振っとけばこんな面倒にならな
いなんて愚痴とか。


「???」

 彼女の部屋のあるマンションが視界で確認できる距離に、慌てたように言い募るは
るかに、彼女はますます不思議そうに首を傾ける。


「言いたいこととか。全然ないの?」

「言いたいことって?」

「ほら。人から伝えといてっていわれたこととか。あ、えっと、別に普段から思って
ることとか、何でもいいけど」


 ここまで言ってしまえば、もうさっき部屋の中見てたことまでばれそうな気がする
けど。


「それで、言いたいこと?」

 とぼけている風ではなく、きょとんと尋ね返すみちるの様子から察するに、何も思
い当たることはないらしい。主将がちょっと哀れに思えてきた。


「そうねえ・・・。たまには」

「たまに?」

 少しだけ考え込んでいた彼女は、はるかの例示した後半について思い当ったらしく
口を開いた。何、何と信号待ちをいいことに、思いっきり彼女の顔を覗き込む。そし
て告げられる、彼女の想い。


「はるかが「僕ってうまいんだ」って、勘違いしていたらどうしようと思うことはた
まにあるけれど」


「・・・・・・・・・」

 絶句したはるかに、警報器のようなクラクションが後ろから浴びせかけられた。

「そんなこと全然気にならないわ」

「僕が気になるんですけど!?」

 何その重すぎる話題っ。眩しすぎる笑顔で告げられて、はるかは打ちのめされた。
立ち上がれそうにないんですが。尚も鳴らされ続けるクラクションに、のろのろと車
を発進させながら灰になりそうだ。


(そそそそれって、どういうこと!?そりゃ、何だか沈んでる日とかに無理強いしち
ゃうこともあったりなかったり・・・。で、でも・・・。え、もしかしてフリ?これ
でいいでしょ。はい、お終い。的な?主演女優賞ですかっ!?)


「冗談よ」

 考えたことすらなかったご指摘にはるかが崩壊しそうになった所で、隣からくすり
と笑い声が聞こえてきた。


「だから、特に言わなければならないことなんてなくってよ」

「・・・・・・・・」

 ボロ雑巾のようになってるガラスのハートに気付いてあげて。涙目どころか鼻水ま
で垂れ流れてきそう。


「ねえ、もしかして、それってこの前の仕返し?」

「まさか」

 髪を弄ぶ風に、楽しそうに目を細めて、彼女が言う。

「はるかにされて嫌なことなんてないわ」

「ホント?」

「大体は」

(そこに含まれてない残りのとこはどうなのよっ!?)

 マンションの敷地にゆっくりと進入しながら、はるかは叫び出したくなる。とりあ
えず、記録会に出るだとか、しつこい彼を納得させる方法だとか、そんなことよりも
まず先に、二人で話し合わなければならないことのような気がしてきた。相性はいい
と思うんだけど・・・。でも、もうマンションに着いちゃったし。


 速度を落とした車内に、緩やかな風が入り込んで、みちるとはるかの髪が、今は穏
やかにそよいでいた。


「何もないわ。私ははるかが自由にしているのが好きだもの。・・・でも・・・」

 ―――人から伝えといてっていわれたこととか。

 多分、それが彼女の答え。それなのに、所定の位置に車を停めて、じっと言葉を待
っているはるかの横で、みちるはどうしてだか言い淀んで俯いた。


「・・・もう。本当にわからないの?」

 呟く彼女の声が零れ落ちるように足元へと吸い込まれていく。

 ―――言いたいこととか、全然ないの?

 ―――普段から思ってることとか。

 停車した車と反対に、速度を上げていく自分の心臓の音を聞きながら白い手に手の
ひらを重ねると、俯いていた横顔がスローモーションのように上げられるのが見えた。


 視線を上げて、それからこちらをみつめ返したみちるの瞳に、自分が映っている。

「・・・帰らないで・・・」

 彼女の唇が、花びらのようにほころんでいくのを眺めていたら、不意にこみ上げて
来て、握った手のひらに力が入る。


 ―――ねえ。僕のこと、好き?

「も、っと・・・きちんと言ってくれなきゃ、わかんないかも・・・」

 白い手を握りなおして持ち上げて、指の背に唇をくっつけたら、めっためたに打ち
倒されたことも忘れて息が上がっちゃいそうになる。その上、他の奴が握ってたんだ
よな、と思いだすと、その指の一つ一ついたるところに口付けないと気が済まなくな
りそう。


 だけど、薬指にキスした所で気が付いて、はるかは顔を上げた。

「朝まで側にいて」

 はるかの手の中で、はるかより華奢な手が少しだけ震えていた。



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