Rainbow fish 3



「本当か、天王」

 クラブハウス棟の裏手で、彼は感極まったように声を上げた。

「記録会まで、でいいんですよね」

「あっ、ああ!」

 はるかの突然の心変わりに驚いたのか声を上擦らせて、それでも望んだ回答を得ら
れた彼は満面の笑みを浮かべて何度も頷いて見せた。その上。


「ありがとう」

「・・・・・・」

 みちるにそうした時と同じように、制服のポケットへ突っ込んでいたままのはるか
の手を強引にとると、握りしめて上下に振った。どうやらこれは、彼の友好的な態度
の示し方らしい。だがしかし。


「・・・ただ」

 自分がされれば煩わしいだけの感覚も、みちるがされるのではわけが違う。ふつふ
つとこみ上げてくる感情を声にならないように押さえつけたら別の所で弾けてしまっ
た。


 すぐ近くにあるダスト缶めがけてはるかの脚が飛ぶ。衝撃に鉄が歪む音の次に、飛
ばされたそれが壁に打ち付けられる音が盛大に響いた。


「次からは、言いたいことは僕に直接言って下さいね。先輩」

 そうそう。一応先輩だから、睨みつけたりなんてしないよ。前髪が伸びちゃって見
えにくいから多少視線がきつくなっているかもしれないけど。


「・・・・・・わかった」

 はるかの気持ちを察してくれたのか、彼は強張ったように手を離して、硬い動きで
頷いた。


(おかげであの日は仲良く過ごせたから別にいいけど)

 明日からの出席時間や、持参物を確認してから、はるかはそう思い直して踵を返す。

『朝まで側にいて』

 言われなくてもいつだってそうしたくて仕方がないはるかは、もちろんぴったり彼
女にくっ付いたまま夜を過ごした。部屋まで抱っこしていこうとしたら怒られたけど。


 普段だったら引っ剥がしても離れないはるかに、お小言の三つや四つや五つくらい
は投げつけるのに。はるかの腕の中で、寄り添うように身体をくっつけて肩や首に触
れる彼女が愛しくてたまらない。


 手のひらを重ね合わせて、指先を絡めて、笑い声を漏らしながら、取り留めない会
話がいつまでも流れていく。心地よい音楽のようなそれを聞きながら、多分、彼女は
何も言わないんだろうなと思った。


『はるかが自由にしているのが好きだもの』

 だけど、頼ってくる相手を突き放すのは、やっぱり胸が痛むんだろうな、とか。急
に近すぎる距離で迫られたら、そりゃびっくりしたよね、とか。自分よりも小さな身
体を抱きしめながらやっと、苛立ち以外のいろんなことを思い出した。


 駐輪場へ差し掛かると、石畳沿いに植えられた木立の青葉が、風に揺られて音を立
てる。立ち止まって見上げると、真っ青な空が広がっていて、その穏やかさにはるか
は小さく息を零した。


 ―――ねえ。僕のこと、好き?

 一々聞かなくったってわかれよ。

 むずがる気持ちに呆れながら、言い聞かせるように、くしゃくしゃと髪を掻き上げた。


                            


 いつもの制服姿の肩にエナメルバッグをかけて登場したはるかに、みちるは素直に
目を丸くした。


『記録会までだけ、って言ってるから』

 ぶっきらぼうにそう告げるはるかに、僅かな間の後で、みちるは苦笑した。

『そう』

「天王さん」

 みちるの声を思い出しつつ。肩慣らしにトラックを走ってから、スタートダッシュ
を何度か行っていた所で、後ろから声を掛けられて振り返った。


「着替えを持って来ている時は、汚れた方のシャツはまとめて洗うから、向こうにあ
る青色の籠に出していてくださいね」


 そこに立っているのは小柄な女の子。だけど、五リットルのドリンクキーパーを両
手に提げていたりする。マネージャーちゃんだ。


「ありがと」

 手近なフェンスに引っ掛けておいたタオルに額を押し当てながら返事をすると、そ
の子はにっこりと笑った。可愛いな、おい。肩までくらいの巻き毛を後ろで一つにま
とめているから、溌剌とした笑顔が全く隠れていなくて、はるかは素直に鼻の下を伸
ばしてみる。


「重いだろ。一つ持つよ」

 おまけにいつも通りのジェントルマンな笑顔を浮かべてみるけれど、彼女は戸惑っ
たり顔を赤らめたりするでもなく首を横に振った。


「ありがとうございます。でも、これが私の部活動ですから」

 炭酸みたいに元気よく笑顔で言い切られると、はるかは肩をすくめるしかない。

 校舎から離れた競技場が陸上部の活動場所。今日そこに初めて足を踏み入れて見回
してみると、それぞれ走ったり飛んだりしている選手に隠れながら、数名のマネージ
ャーが忙しく動き回っていた。


(よく動くなー)

 見たままの感想を抱きながら、その子たちが全員女の子であることに、とりあえず
はるかの心は癒された。目の保養。


 だけど、実際の所、彼女たちは何も選手の目の保養の為にいるわけではないらしい。
(女子選手もいるしな)中学の頃の部活動では、自分たちの使うものは用意も片付け
も自分たちで片付けるのが基本だったし。そのほか必要なものは各自で持参していた
から、マネージャーってせいぜい記録を取ってくれてるのかな、位のイメージしかな
かった。


 だけど、はるかの見る限り、重たいものも何食わぬ顔で運んでるし、移動は基本駆
け足だし、はては女子長距離選手の伴走までやってるし。運動量だけ言えば、ほとん
ど選手と変わらない。


「なんでマネージャーなんかしてるの?」

 スポーツドリンクの入った紙コップを手渡されながら、はるかはさり気なくハーフ
パンツからのぞいているその子の脚を眺めてみた。


「元々は選手希望だったんですけど、中学の時に脚を故障しちゃったから。でも、陸
上から離れるのはできないみたい」


 結構たくましいな。と思いながら視線を上げると、その子は面倒くさがったりせず
にはるかの質問に答えてくれた。


「初めは走りたくて、何だかうらやましくて遠巻きに眺めてたんですよ。だけど皆が
記録更新したり、その為に毎日走っているの見ていたら、私にできることをしたいっ
て思ったから」


「ふうん・・・」

 聞けばフィジカルの生徒らしいから、ふっきるまでには今の言葉じゃ足りないくら
いの葛藤はあったんだろうけど。それでも明るく話す姿には好感が持てる。変てこな
学校だけど、こういう子も中にはいるんだなと妙に感心してしまった。それから、好
感度の高い女の子だと、はるかはどうしても茶化さずにはいられなくなったりする。


「主将はイケメンだし?」

 はるかにとっては煩わしさ全開だけど。と内心の言葉は隠してそう振ってみる。

「え、・・・っと・・・あの・・・確かに、格好良いですけど・・・そういうのでは・・・」

「・・・・・・」

 見る間に赤くなっていくその子の様子を眺めながら、人の好みは色々であることを
はるかは改めて知った。


(そうか、格好良いのか、あれ・・・)

 暑苦しいまでの直情径行も、見る人間によっては好ましく映るらしい。世の女の子
は皆自分のものだと思っているはるかは少なからずショックを受けた。


「はるか」

 もう少し突っついて愉しむくらいは許されるだろうと、はるかが女の子の顔を覗き
込むのと同時に耳慣れた声に呼ばれた。


「うわっ・・・」

「・・・何よ、それは」

 振り返ってフェンス越しにその姿を確認すると、思わず声をあげてしまったはるか
を、みちるが少しきつめの視線で咎める。


「差し入れ、持って帰ってもいいのよ」

「いやそんな。待ってたんだよっ、みちる様」

 ランチバッグを掲げる彼女に、はるかはひれ伏すようにして手を合わせて見せる。
ついでに尻尾も振っちゃう。ほんの出来心なんです、ホントに。


「それじゃあ、三十分からミーティングがあるので、それまでに集合してくださいね」

 みちるの前で仰向けでお腹見せる勢いのはるかの様子に動じることもなく、女の子
はそれだけ告げると、先ほどと変わらぬ元気いっぱいな笑顔を浮かべてグラウンドの
真ん中へと走っていった。


「楽しくしているみたいね」

「・・・・・・・う、うん」

 一番近くの出入り口からフェンスをくぐり抜けると、みちるがふわりと笑いかけて
くれた。それにビクついてしまうのは疾しいからに他ならない。ちょっと浮ついてた
だけだけど。


「じゃあ、みちるは先に帰る?」

「そうね。レッスンもあるし」

 スコーンを頬張りながら、お互いの予定を確認してみると、はるかの方が今日は遅
い帰宅になるらしい。


「でも心配だな。一人で歩いて帰らすの・・・」

 シロップが付いた親指を口に含みながら、横に座る彼女にちらりと視線を送る。け
れど、みちるは心外だとでも言うように肩眉を上げた。


「子どもじゃないから大丈夫です」

 言葉と裏腹に、ぷいっと横を向く仕草が子どもっぽくて、はるかの胸を鷲づかみに
した。ああ、だから。こんな可愛いのに独り歩きなんてさせられないよ。そろそろ
自覚してくれたらいいのに。


「はるかこそ、疲れているのに運転して帰るのは心配だわ」

 思わずオオカミさんになりそうなはるかの前で、みちるは思い直したかのようにこ
ちらへ向き直って口元に手を当てた。少しだけ困ったような顔されると、尚更歯止め
が利かなくなりそうで、はるかは思わず口走っていた。


「僕はへーき。それに、走る以外はお世話してくれる子いっぱいいるみたいだから」

 早口で言い切った後に、はっと気付いたけれど後の祭り。はるかの言葉に、みちる
がきょとんと眼を丸くする。いやいやこれは言葉のあやで、だからってその子たちを
食い散らかしていくとか、そう言う意味じゃないんですよ。時々そういう病気を発症
するけど、未遂に終わってるし。と慌てて弁明しようとはるかが口を開きかけると、
目の前の彼女はくすくすとおかしそうに笑った。


「そうね。それなら安心だわ」

(・・・・・・)

 彼女の穏やか過ぎる反応に、拍子抜けしていくのが自分でもわかる。

 別に怒ってほしいわけじゃないんだけど。おっとりと微笑まれると、その愛くるし
さに胸が高鳴るのとは別に、苛立つような昂ぶりが沸き上がる。頭は一つのことしか
考えられないのに。


「他のことは心配じゃないんだ」

「え?」

 急にトーンを下げたはるかの声に、みちるが不思議そうに顔を上げた。

「・・・差し入れ、部活してる時はいいから」

 やめて、待って、自分。

「記録会が終わるまでは、必要な時に連絡くれればそれでいいから」

 無理だよ、何日あると思ってるの、その日まで。そんなに禁欲したら疲労で倒れち
ゃうじゃないか。心はいつも通り、みちるに触りたくて、会いたくてしかたがないこ
とわかっているのに。


「別に、僕がどこで何してても、誰を構っていようが、あんまり関係ないみたいだし」

 何で勝手にしゃべっちゃうのかな、この口はっ。

 ―――ねえ。僕のこと、好き?

 だからって、ここまで幼稚に徹しなくてもいいと思う。思うのに、覆水は盆に返ら
ない。


 頬っぺたを少し強張らせてはるかの言葉を聞いていたみちるは、一瞬だけ怒ったよ
うに眉をひそめて、次に瞳を揺らして、けれどすぐにキッとこちらを見据えて言った。


「わかったわ」

 嫌。そんなものわかりのいいのは嫌。縋りつきそうな気持ちとは裏腹に、前言を撤
回することもできずに不貞腐れるはるかの前で、彼女は立ち上がると振り返りもせず
に歩きだした。


(な、何でだあああ!?)

 彼女の行動にではなく、自分に対してそう問いかけて、思ってもないことをべらべ
らと垂れ流す口を押さえつけるしかなかった。



                              


(・・・・・・もうヤダ)

 グラウンド周りをひたすら走り続けて悲鳴を上げる身体をアスファルトに横たえて、
はるかはそっと涙を呑んだ。


 体力にはそれなりに自信がある。今日みたいに行き過ぎた走り込みで、一瞬疲労を
感じたとしても、こんな風に転がっておけばすぐに回復することだって、自分でわか
っている。だから、泣きごとを漏らしたいのはトレーニングのせいじゃない。


(・・・何日してないんだろ)

 それどころか触ってないし、会ってない。原因は喧嘩。理由ははるかが不貞腐れて
いたから。


(もう駄目だ・・・)

 主に欲望が。消化されなさ過ぎて、どこか心の大事な所が枯渇しそうである。悩め
る青少年、もしくは乙女なお年頃としては、多少スポーツに打ち込んだからって、滾
り過ぎた欲求が消えてなくなるわけじゃない。そう言うのを抑え込んで、より高い結
果に昇華させるトレーニングもあるみたいだけど、少なくともはるかにとっては逆効
果。やる気が下がり過ぎて底を打ってる。だからって摘み食いしたいかと問われれば、
それは違うとしか答えようがない。


(これがみちるだったらいいのに・・・)

 頭に巻き付けていたタオルに顔を埋めて汗を吸い取らせながら、柔らかな谷間を妄
想する。けれど、タオル地独特の感触がそれすらも阻んでうんざりしそう。みちるの
胸はこんなんじゃないし。もっと気持ちいいし。


「・・・あなた、天王さん?」

 ぶつぶつと一人むなしく涙をこらえていると、頭上から声を掛けられてはるかは顔
を上げた。


「・・・・・・そうだけど?」

 夕日に照らされて良く見えない顔、けれど見知ったものではなさそうだ。

「やっぱり。あなたが私の代わりに出場してくれるのよね。次の記録会」

(ああ・・・)

 立ち上がると、はるかよりも幾分か小さいその子は、こちらを見上げながら分かり
やすい自己紹介をしてくれた。


「忙しいって聞いてたんだけど?」

 見た所制服姿のままだから、トラックに足を踏み入れるつもりはないようだけど。

「そりゃね。でも、身体が空いている時は顔くらい出すわ。いつもと違う環境で息抜
きすることも大切でしょう?」


「・・・・・・」

 はるかの投げやりな言葉に怯むこともなくそう答える声の何と良く通ることか。考
えることも何もなく、本気でそう思っているのだろうことがよくわかる。


「それにしても、記録を見させてもらったけれど、あなた随分と速いのね。日によっ
ては私よりも」


 先ほどの言葉だけで、充分に会話をしたくなくなったはるかの前で、彼女はまだ淀
みなくしゃべり続けていた。あからさまに顔を背けているこちらの様子に気づくこと
もない。


「ねえ。記録会までなんて言わずに、このまま籍を置いておけばいいじゃない。私も
その方が張り合いがあって助かるわ」


 すごいな、と感心した。

 割とストライクゾーンの広いはるかに、会ってすぐ口を押さえつけてやりたくなる
ような気持ちにさせる女の子って、中々いないよ。


「私から部長に頼んであげてもいいわ」

「・・・いてもいいけど。そしたら、君の居場所なんてなくなるんじゃない?」

 だって、これから僕との差はもっと開いて行くだろうから。そう付け加えるのを控
えたのは、はるかなりの配慮だよ。


 可愛い女の子は大好き。思わず優しくしてあげたくなる。優しい子も、凛々しい子
も、強がりな子も。


 でも、こういうのは好きじゃない。自分にどれだけの価値があると思ってんだろ。
目を見開いて立ち尽くしたその子を見下ろしながら、はるかは薄く笑った。


 別に、自分のしていることを棚に上げて他人様を嘲笑うつもりなんてない。きっと
はるかにはそんな資格すらない。


 だけど。ほら。はるかにだって好き嫌いくらいあるよ。食べ物だけじゃなくて。

『私にできることをしたいって思ったから』

『わかったわ』

 自分の為にだけでなく、心を動かされる子の方が好みなだけ。結果自分のことで精
一杯になったとしても、当たり前な顔しない子の方が好き。


「まあ、君にはどうでもいいことだよね」

 今までそんな言葉を目の前で吐き出されたことなんてないのだろうその子は、はる
かが視線を外してからも、そこにじっと佇んでいた。はるかが踵を返して歩き始めて
からも。


「・・・・・・」

 アスファルトの上を歩きながら、不意に彼女の顔が思い浮かんではるかは溜息を吐
きだす。会いたくて恋しいのは今更だから不思議でも何でもない。だけど、今彼女を
思い出したのはそのせいだけじゃない。


 きっと、みちるなら、こんな風に誰かをなじったりなんてしない。

『・・・ごめんなさいね』

 それがどんなに気に入らない相手だとしても。受け入れられない人間だとしても。
いたぶって突き放すような真似を、彼女は許せない。理想や願望を押し付けてるわけ
じゃないよ。ただ、喧嘩の後の、みちるの顔を思い出して、気が付いただけ。


 悔しそうに唇を噛みしめて、悲しそうに俯いて。けれど最後に凛と顔をあげて、彼
女は「わかったわ」と一言言った。


 悔しくて唇を噛みしめて、それだけじゃ治まらなくなる。きっと相手が黙りこむま
で、牙をむかなきゃ気が済まない。そんなはるかには、間違いなく彼女のようには生
きられない。


 でも、だから、みちるが好きだ。

 そう思うと、背中の遥か後ろで佇んだままのあの子の姿に、少しだけ胸が痛んだ。


                              


 開脚したそれぞれの足の爪先目がけて上半身を倒す。二、三度それを繰り返してか
ら、はるかは降り注ぐ日差しのまぶしさに気が付いて顔を上げた。なんて晴天。あっ
ぱれな記録会日和。


『記録会が終わるまでは、必要な時に連絡くれればそれでいいから』

 その要請通り、みちるは一度も連絡を寄こさなかった。もしかしなくとも、必要そ
うなことがあっても切り捨てられていた可能性が高い。その上、広すぎる校内ですれ
違うこと等皆無。あまりの禁欲加減に、もう少しで無我の境地が開けそうである。こ
れはあれか、煩悩を捨て去る修行なのか。


(・・・終わったからって、連絡くれたりとかは・・・ないよな)

 そもそも喧嘩してるからこうなってるわけだし。というかはるかが一方的に不貞腐
れた結果。この記録会が終わってしまえば、元通りでれでれと抱っこさせてもらえる
わけじゃないことはわかっているつもり。


(・・・・・・許してくれるかな・・・)

 集合のホイッスルに呼ばれたはるかは立ち上がりながら、スンっと鼻を鳴らした。
涙が出ちゃう。


「今日の記録会が、次の地区予選の下地になる。今回出場しない奴も、他校の選手の
動きをしっかり見ておくように」


 主将の彼がはきはきとそう告げるのを眺めていると、はるかは思いっきり毒づきた
い気持ちでいっぱいになった。


(元はと言えばお前のせいだっ)

 自分の幼稚さを棚に上げて睨みつけてみるけれど、その気持ちが伝わることもなさ
そうだ。第一、彼が頼みこんできているさなかに、こじれちゃったわけじゃない。た
だ単に。


 ―――ねえ。僕のこと、好き?

 本当はわかっていて。でも、そう聞きたくて。できなくて拗ねてる自分が悪いだけだ。

 俯きそうになっていると、開会式の開始を告げる放送が聞こえてくる。

 会いたいな。

 選手たちが移動を始める中、力なく歩きながらそんなことを想う。

 記録会が終わったら。なんて、始まってもいないざわめきの中で思いつく。

 格好悪いけど、素直になれないかもしれないけど。一番にみちるに会いにいこう。

 整列する人並みの中でそう決意して、顔を上げると真正面のアリーナが見える。休
日だけど、高校生の、しかも大きな大会とかでもない、競技会を見に来るのは、同じ
学校の生徒や、熱心なチューガクセー、それから、選手のご家族がちらほら。決して
人でいっぱいではない観客席の中に、見知った顔なんてない。


 ほんの少し、愛しい笑顔を期待していた自分に、思わず苦笑した。

「・・・・・・え?」

 けれど、未練がましく漂っていたはるかの視界に、小さく映った人影に、目を見張った。

 観客席の設けられたスペースから階段で下りると、そこには広く芝生が広がってい
る。周囲より一段低く作られているトラックとそこを隔てているのは、段差と、鉄製
の低い手すりだけだ。その向こう側に、その女の子は立っていた。


「・・・・・・みちる?」


                            


 彼女の前で、馬鹿みたいに息が上がってる。肩が上下しそうなくらい。

「来てくれたんだ」

 駆け寄りたい気持ちでいっぱいのくせに、式が終わってからしばらくは、人ごみに
流されるままのろのろと歩いていた。


 けれど、それぞれの集団が決められた場所へ移動する為か、人の波はすぐに引いて
行く。一人、他の誰とも目的地の違うはるかは、そこから吐き出されると、躊躇いな
がら顔を上げた。


 先ほど整列していた時よりも、少しだけ近くなった距離で、確かに彼女と目があっ
たような気がすると、もたついている時間も惜しくなって、地面を蹴り上げていた。


「会いに来てはいけないのは、記録会まで、でしょう?」

 肩で息をするはるかが珍しいのか、おかしそうに笑って告げながら、彼女は口元を
指先で押さえた。


 銀色の手すり越しに、指先が唇から離れていくのを、ぼんやりと、だけどじっとみ
つめていた。こんな間近で向かい合うなんて、久しぶりな気がして、目が離せなくなる。


 眉をほんの少し下げて、困ったような、切ないような、少しだけ拗ねているような。
全部が混ざり合った瞳を緩ませて、みちるが微笑む。


「・・・・・・そう、だったっけ・・・?・・・」

 目の前で、手すりに置かれた彼女の手の甲に触れたくなったけれど、声が裏返らな
いように力んでいたら、他のことにまで気が回らない。


 会いに来ないでなんて言ってないよ。

 自分からそっぽ向いといて、そう弁解したくて堪らなくなる。

 会いたかった。

 素直にそう言えたなら、みちるは微笑みを深くしてくれるだろうか。それとも、身
勝手な言い分に、眉をひそめてしまうだろうか。


 どんな反応が返ってきてもいいから、抱きしめたいって思うのは、やっぱりはるか
のわがままなんだろうな。


 だけどそのどれも言えなくて、情けなく俯いたはるかの斜め上から、ため息のよう
な声が零れ落ちてきた。それは笑い声に似てた。


「向こうの端から、ここまで走ってくるのよね」

 不思議に思って顔を上げると、みちるはスタートラインのある方へ顔を向けて、ひ
とり言のように呟く。


「・・・君がそこに立ってたら、皆一目散に駆けてくると思うよ」

 その場所に立って、遠く見えるだろう彼女の姿を想像して、はるかは目を細めた。
柔らかな髪を、風になびかせて立っている、まるで勝利の女神みたいじゃないか。


「それは楽しみね。誰が最初に駆けて来てくれるのか」

 視線をこちらへ戻しながらそう告げる彼女は、微笑んだままだったけれど。先ほど
までの柔らかなものよりも少しだけ、悪戯っぽいものに変わっていた。


「心配しなくても」

 時折頬を撫でていくような風の感覚がくすぐったすぎて、振り払うように前髪を掻
きあげてから、今度ははるかが視線を横へ向けた。


「僕が一番にさらいに来る」

 そう言う種目じゃなかったような気もするけど。言った後に気が付いたけれど、駆
け抜けた先にご褒美が待ってるのも、たまにはいいでしょ、と無理やり自分を納得さ
せる。だけど後から後から、じわじわと耳元が熱くなっていくものだから、もう一度
彼女の方を振り向くことはできなくて、爪先を反対へ向けた。


「はるか」

 それなのに、歩きだすよりも前の背中に向かって投げかけられた彼女の声が、いつ
もと同じように艶やかに耳へ響くから。全身が気持ちを追い越して振り返った。


 鉄柵に手をついたまま、彼女がほんの少し背伸びする。こちらへ向かって。

 揺れる髪が。長い睫が。緩やかに弧を描いた唇が。振り返ったはるかの方へ、ゆっ
くりと近づいてくる。


 ―――ねえ。僕のこと、好き?

 彼女の巻き毛が頬をくすぐると、唇に一瞬だけ熱が灯って、くすぐったい感覚と一
緒に離れて行く。


「待っているわ」

 目を見開いたまま見返すと、はにかんだ瞳と同じように、鈴の音のような声で彼女
はそう囁いたのだった。




                            END



 しょげて行くはるかさんを見ながら、みちるさんはうずうずにやにやしていたに違いないと(殴)
 次は花火で妄想♪(お待たせしてます(平伏))



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