Rainbow fish 1



「ねえ、みちる・・・」

 言いかけたはるかの声に応えて、彼女が顔を上げた。

 投げ出されたはるかの脚の間で、膝を崩して座るみちると向かい合って、彼女の柔
らかな手を取る。額と額をくっつけたら、みちるがそっと指先を握り返してくれた。


「なぁに?」

 囁く彼女の声が頬に触れて、跳ね返って、はるかの肌の上を零れ落ちて行く。ふわ
ふわでくすぐったい。まるで、はるかの素肌に降り注ぐ、昨夜の彼女の髪の毛のように。


 言い淀みそうになって鼻筋に口付けたら、笑い声がまた、肌を掠めるように滑って
いく。気持ち良すぎて喘ぎ声出ちゃいそうなんですけど。


 それをぐっと押し殺して。一緒に言いかけた言葉も飲み下して。はるかは一つ、た
め息をついた。


「・・・・・・何でもない」

 くすくすと笑いながら、みちるはおかしそうにもう一度首を傾げたけれど、それが
反ってはるかの羞恥心を刺激して、口を噤ませた。


 だって。恥ずかしいじゃないか。そんなこと聞くの。

 気取られるのが嫌で、抱き寄せて唇を塞いだら、みちるは驚いたように息をのんで、
はるかの背中のあたりのシャツの布地をギュッとつかんだ。


 ―――ねえ。僕のこと、好き?

 みちるの指先よりもずっと強く、彼女の背中を抱きしめたら、伝わるのかな。


                            


「パス。そういうの好きじゃない」

 平に頭を下げる上級生に向かって、はるかはそう言い放った。ご丁寧に手を払う仕
草まで付けたげるよ。


「天王。そこを何とか」

「い・や」

 「い」の所で顔を背けて、「や」の所で視線を天井に向ける最上級の対応。彼に気
持ちが伝わりますように。


「もう後はお前に頼るしかないんだ」

(うっせーなー・・・ダボが・・・)

 みちるの前で使ったら二、三日は口をきいてくれなくなりそうな単語を心の中で吐
き出して、はるかは眉をひそめた。面倒くさい。鬱陶しい。ついでに暑苦しい。


(せめてこれが女の子だったらなー)

 陸上部のマネージャーの顔を思い浮かべてみるけれど、多分その願いはかなえられ
ないだろう。これは男女混合陸上部の主将である彼なりの誠意の示し方なのだ。


 しかし、いくら心をつくしたものであったとしても、最初から要求を受け入れるつ
もりのないはるかにとって、それはまったくもって意味をなさないと言うことにさっ
さと気が付く方がお利口さんだと思う。そうじゃなくても、みちるを待っている間の
そわそわと落ち着かない放課後。はっきり言って目の前をうろつかれること自体が煩
わしいのに。


『地区予選前の記録会に、短距離走者として出場してほしい』

 いきなり登場してそんなこと口走られたら、はるかでなくても足蹴りにしたくなる
と思うよ、キミ。


「大体、一回助っ人が出た位で、何か意味があるの?」

 むしろ、反則よりだと思う。今のはるかの口のきき方と同様に。

 だって。それって、要は地区予選に出場する選手を品定めするための催しでしょ。
そんなのに部外者が出たって、全く次につながらないじゃない。


「いや。実際の所、うちの部も人数が少なくて・・・」

 言いづらそうに一度だけ視線を床に落としてから彼がそう吐きだす。少しばかり同
情しなくもないけれど。そもそも陸上競技って人数が揃ってなきゃ出場できないよう
な種目ばっかりだったっけ?少なくともはるかは一人で好きに走ってた気がするけど。


「だからな」

 記憶をたどりながら訝しげな表情を浮かべ始めたはるかに、背の高い彼が腰を低く
してじれったそうに説明する。


 要するに、陸上部はインターハイの時期にだけ活動しているわけではないと、そう
言いたいらしい。


 都道府県大会や地区ブロック記録会、その他横文字を冠した各種大会なんかが毎月
のように行われているわけで。それらを通過することで、晴れ舞台のインターハイめ
がけて士気を高めて行くみたい。そう言われたらそうだったのかな。でもチューガク
セーとじゃ勝手が違うか。


 だから次の地区大会もその通過点の一つ。その更に前段階として今回の記録会が設
定されているらしいけど。


 記録会に選手が出場していない種目のある団体は、その種目についての予選参加を
認めないって。


「それなら結局は予選だって出られないんじゃないの?」

 まあ人がいないのなら出場させようもないしな。案外妥当なんじゃない?その判断は。

「その・・・。今回出られないだけで、短距離の選手はうちにもいるんだ。ただそい
つはフィジカルの生徒だから、忙しくって・・・」


「・・・・・・」

 そこまで聞いたところで、先ほどの同情心が一回り大きくなった気がして、はるか
は低く唸った。


(さーっすが)

 この春からはるかの通う無限学園は、胡散臭くてきな臭くて怪しさ満点のゴースト
スポット。この学校のいいところは天才ばっかり集めてる所。小学生でももうちっと
オブラートに包んで言うぞ。それぞれの学科に有名どころの指導者各種。三年生にな
る頃にはさらに細かくコースを振り分けられて、その道のプロ、むしろそこんとこす
っとばかして神を目指すのである。はるかもどこかしらに振り分けられるはずだけど。
受験は中学の皆と同じように受けたから一般入学組で普通科。おかげさまで、今のと
ころそんなプロフェッショナルに突き進まなくて済んでいる。


 で。筋肉系が件のフィジカルクラス。ここは他のクラスと違って、ほとんどが推薦
入学。いわゆる特待生さんがフロアのほとんどを占めている。チューガクセーの時期、
果てはそれよりちっちゃな頃から開花したような子ばっかりを引き抜いてお席に座ら
せているのだ。


 だから、普通はそこの学校で専攻分野の部活動なりクラブなりに入って、仲間と苦
楽を共にしながら更に鍛錬を積む所を、それぞれが個別の指導者について日々特訓に
勤しんでいるわけ。目の前の彼は、この口ぶりから察するに、根っからのフィジカル
さんじゃないのだろう。


「・・・地区予選には出てくれるみたいだから」

(そんな奴入部させなきゃいいじゃん)

 別に生徒がプライベートでコーチについてたからって差し障りなんてない。個人で
高みを目指して活動するのも。でもそれなら、わざわざ協調性が求められるクラブ活
動なんかに参加しなきゃいいのに。それともそーゆー所に籍を置いとくことが重要な
のかな。限りなく真っ黒に近いグレーな学校なのに、その辺の枠だけ他の学校と一緒
なのね。


「ふぅん」

 彼の苦悩を聞き終えて、同情心を一通り膨らませて一周してから、はるかは冷静に
吐き捨てた。


「だったら、尚更僕には関係ない」

 なんで、そんな内輪のガタに付き合わされなきゃなんないの。その上そいつらの中
の誰一人として縁もゆかりもないのに。かろうじて、はるかが昔、陸上をしていたこ
とだけで、何とかほっそい糸が繋がってたらいいかもねーみたいな立ち位置なのに。
馬鹿馬鹿しいしか言葉がないよ。


 はるかの言葉に、彼はなおも食い下がるように眉を下げた。

「頼むよ、天王・・・」

 頼むな、見ず知らずのキミ。

(まあ、欠場するのは女の子なんだろうけど・・・)

 一瞬脳裏でそんなことを考えたけれど、他人にイケシャアシャアと尻拭いさせるよ
うな女なんて好みじゃないし、と思いなおす。はるかにだって食べ物の好き嫌いくら
いあるよ。


「悪いけど」

 短く告げてから、その場に居続けること自体が面倒くさくなってはるかは席を立つ。
それと同時に軽やかな足音が聞こえてきて、はるかの視界から完全に彼が消えた。


「はるか?」

 教室の窓から、透き通るような声がまっすぐに飛んでくる。

「みちる」

 窓の向こうに現れた人影を確認するよりも前に、はるかは椅子も直さずそちらへ向
かって歩き始めていた。


「ごめんなさい、待たせてしまって・・・」

 勢いよく引き戸を開けはなったはるかの姿に、一瞬だけ肩を揺らせて彼女がそう
言った。後ろの高い位置でまとめた髪も一緒に揺れている。


「うん。すっごく待ち遠しかった」

 本当はその勢いのまま抱き寄せてしまいたかったけれど、せっかくの感動の再会を、
怒られて台無しにしたくなくて、はるかは扉に手をついて身体をストップさせる。


「だから自分で会いに行っちゃおうかなって思ってたとこ」

 抱っこはできないけど。髪とか頬っぺたとか撫でるだけでも怒られちゃうかもしれ
ないけど。これ以上我慢したら多分身体に悪いだろうから、はるかは思いっきり身体
を寄せて囁いた。


「もう、独り占めしてもいい?」

 目の前で、みちるの頬が色付いていくのを、はるかはじっと眺めていた。大きな瞳
を瞬かせて、けれどすぐに眉をあげてこちらを軽く睨みつける仕草に、いても立って
もいられなくなりそう。自分のほっぺを右手でぎゅっと押さえつけたけど、どんなに
力を込めても緩んでしまうのを止められない。お持ち帰り決定。お泊まり確定。とり
あえずどこか人気のない場所へ移動しなきゃ。


 目の前に差し出されたおいしそーなみちるの姿に、はるかは舞い上がったまま幸せ
な空の彼方へ到達しようとしていた。だが、しかし。


「なあ、天王」

 肩に手を置いて首筋に唇を寄せようとするはるかの頭をみちるが小突いたタイミン
グで、視界から消えていた彼の声が後ろから投げつけられた。二回小突かれた気分だ。


「本当に頼むよ。今回だけだ」

 まだいたの、キミ。そんな気持ちを込めてみつめてみるけれど、彼の縋るような視
線が緩まることはなかった。目の前で繰り広げられるはるかの戯れに、まったく動じ
ないその姿勢は中々のものである。


「だから・・・」

 とにもかくにも、彼ははるかから了解の返事を受け取るまで、その場を動くどころ
か、はるかの視界から消えるつもりはないらしい。


(・・・大変なのはわかるんだけど)

 彼には彼の専門種目があるはずで、そこに出場できないわけでもないだろうに。部
をまとめる役目を任されてしまったと言うだけで、こんな可愛げのない後輩に頭を下
げ続けなきゃいけない苦労はいかばかりかと思う。が。


(それこそ僕に関係ないじゃないか・・・)

 良心が痛みそうになって、はるかは慌てて自分の思考を訂正する。

「お話の途中だったみたいね」

「違・・・」

 辟易とし始めたはるかが口を噤んで出来た合間に、そっとみちるの声が挟まれて驚
愕する。


(こいつが一方的に話してるだけだよっ)

 そんな現状を、何とかお姫様のお気に召す言葉に変えてから伝えようと考えている
間にも、みちるはふわりと微笑んではるかに提案する。


「ね、終わるまで待っているから、慌てなくていいわ」

「いや、だからね、みちる・・・」

「?」

 不思議そうに首を傾げたみちるに、きらきらお目目でみつめられて、はるかはがっ
くりと肩を落とした。いつもなら、こんな可愛い仕草をみせられたら、コンマ一秒で
押し倒してるはずなのに。思えば思う程、何の恨みもないけれど、目の前の哀れな彼
にイライラが募っていく。


「・・・・・・」

 でも、いくら苛立つ相手だからって、怒鳴り付けて、喚き散らして、踵を返すなん
て頭悪そうな真似は格好悪くてしたくないし。かといって、すぐ真後ろでみちるが見
ているのに、そこに何もないように無視して帰ることもできそうにない。こちらへ必
死に頭を下げている相手に対してそんなことをした日には、耳やら肩やらを思いっき
り引っ張られて、彼の目の前に差し出されるに決まっている。手段なんて選んでいら
れない使命や戦いに明け暮れていても、普段の彼女は誠実さに欠ける行為が好きでは
ないのだ。・・・の割に、はるかに対してはいじわる極まりない日もあるけど。どう
にもこうにも、この場を収束させない限り、はるかの退路は開かれないようだ。


「天王・・・」

 もう一度、彼が口を開く。落ちて行く陽に照らされて真っ赤に染まっていく空が、
彼の後ろにある窓から見える。その仰々しさに、はるかはほんの少しだけ眉をひそめ
ると、重たくなりそうな気持ちごとため息を吐きだした。


「お断りします」

 先ほどまでの口調を切り替えたのは、何も後ろのみちるが怖いからだけじゃない。
かけ合いのような雰囲気では伝わるものも伝わらないでしょ。こういう時には特に。
さらに言えば、体育会系だろうに、部の為とはいえ、思う所をぐっとこらえて、ふて
ぶてしいはるか相手に頭を下げ続けていた彼に対する、ほんの少しの敬意の表れ。


「すみませんが。陸上をしていたのは昔の話ですから。その頃と同じように体を鍛え
ているわけじゃないし」


 もちろん、望む応えなんて返してあげられるわけじゃないけど。

「今は他にするべきことが見つかったから。それ構うだけで精一杯なんで」

 はるかなりに、そこへ気持ちが向かない理由を述べた。

「するべきことって?」

 それ以上に伝える必要はないと判断して踵を返すと、縋りつくようなものではない、
純粋に不思議そうな彼の声が投げ掛けられて、はるかは顔だけで振り返った。


「自分にしかできないこと、かな」

 瞬間、すぐ側に立つみちるが微かに表情を曇らせたのが見えた。


                             


「よかったの?」

 エレベーターに乗り込みながら、こちらを見上げて彼女が言った。

「うん」

 どことなくこちらを窺うようなみちるとは対照的に、答えるはるかの声はエレベー
ターの箱の中でこだわりなく響いた。


「ちょっと、ずるい断り方だったかな」

 左手で壁に手をついて、みちるの肩越しに伸ばした右手で目的階の表示されたボタ
ンを押した。あ、何かこの隅っこに閉じ込める感じっていいかも。


「でも、嘘ではないもの」

 だけど、はるかの腕と角っこの壁に挟まれたままのみちるは、それにも気付かない
様子でぽつりと漏らす。ほんの少し俯き加減なせいで、髪を上げて白く輝くようなう
なじがはっきりと見えて、はるかの方もため息が漏れてしまいそうだ。


「・・・・・・半分位しか本当のこと言ってないけどね」

 そこへ吸い寄せられていくみたいに傾いでいく身体を、壁についた両手で支えなが
らそう告げると、声の触れた白いそこが微かに揺れる。


「半分?」

 くすぐったいのか肩をすくめた彼女は身を捩るようにしてこちらへ振り返ったけれ
ど、思いの外近くにあるはるかの顔に驚いたのか、もう一度震えるように肩を上下さ
せた。


「そう、半分」

 それに構わず、惹かれるまま鼻先をすりよせる。

「・・・あんなに頑なになるなんて。残りの半分は、どんな理由なのかしら」

 みちるの声が、唇に当たって溶けていく。

 腕の中に閉じ込めたままの彼女の手のひらが背中に添わされると、それさえも飲み
込むようにきつく口付けた。




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