Past is 3



「籠りっ放しって良くないと思うなぁ」

 水の中にいる時のように、遠くから反響するような声が聞こえてきて、はるかは手
を止めた。それから、ほんの少し身体をずらしてマシンから顔を覗かせる。


「仕方ないだろ。そう言う性質なの。知らなかったっけ?」

「知ってる。放っておいたらずーっと好き勝手してるもんね」

 最近見知ったその女の子は整備士だった。紅一点とまではいかないけれど、油や機
械の匂いが充満する中で、その存在はやはり目を引く。


「でも、“ばっか”食いは良くないって言うじゃない」

「それは君の話だろ。成果の出ないダイエッ、痛」

 だからといって、その立ち居振る舞いは必ずしもこちらが期待するようなものでは
ないらしい。硬いスニーカーで思いっきり蹴られた。手加減しろよ。


「はるかは、一つのことしか考えたくない人なんでしょう」

 腰をおろしながらこちらを覗きこむと、高い位置で結わえている髪が彼女の頬にか
かるのが見えた。


「そう見える?」

「見えるよ」

 簡単に答えられて少し戸惑う。別にそんなつもりじゃない。本当に、気分の乗るま
まここに入り浸っているだけなのに。


「いい所だと思ってたんだけど」

 寝そべったはるかと、屈みこんだ彼女の視線がひどく近い位置で重なるから、はる
かはごく自然に微笑みを零してしまった。


「一つのことしか考えられないのと、考えたくないのとじゃあ、全然違うでしょ」

 まるで言葉遊びみたいだ。ひらがな二文字違うだけじゃないかと、微笑みは大きく
なって笑い声まで吹き出てしまった。けれどはるかのそういった態度が気に入らなか
ったのだろう、彼女はむっとした様子で眉を顰めると、吐き捨てるように言った。


「そんなんでマシン占領されたら迷惑」

 こっちの事情なんてあんたに関係ないだろ。そんなことより円滑な作業を目指した
整備区域の細分化と複数による分担とか、もっと事務的に話した方がよっぽど話は早
いじゃない。そう矢継ぎ早に言い上げてやってもよかったけれど、近すぎる距離が他
の遊びを思い起こさせてくれた。


「・・・じゃあ、他にも目移りさせてくれる?」

 手を伸ばすと、簡単に頬に触れた。

 一つのことしか考えたくない。正解じゃないけど、全く外れってわけじゃない。

 みちるのことを、考えたくないんだ。

 ぼんやりとみつめると、彼女はもう一度不愉快そうにはるかの額を小突いた。


                               


「鳴っているわよ」

 ドレスのような正装は見慣れているけれども、スーツなんて珍しいな。そんなこと
をつらつらと考えながら、はるかは視線を流した。


「聞こえているの?はるか」

 答えないはるかに、みちるはおっとりと重ねて言う。その間にも手早く髪を結いあ
げて、テーブルに置いた鏡を覗きこんでいた。


「メールだから、放っといていいよ」

 カウンター越しに視線も上げずにそれだけ答えた。はるかは只今朝食作成中でそれ
どころではない。しぼりたてグレープフルーツジュース、以上。手の甲を伝う果汁を
舌先で舐め上げてからちらりと盗み見ると、彼女も視線を鏡へと向けたまま「そうな
の」と答えたところだった。それから。


「最近多いわね」

 ただ単に、彼女は感想を述べたに過ぎないのだろう。他の意図を持って言っている
わけじゃない。それなのに、俯いたまま呟く声に、期待して馬鹿みたいだ。


 君だって、待ってる奴が腐るほどいるだろ。

 どこで何をするのか知らない彼女に、そう投げつけてやったらどんな顔をするのだ
ろうか。


 その姿を想像しようとしても頭に何も浮かんでこないから、はるかは黙ったまま、
グラスを片手に、静かになった携帯電話を取り上げた。


 背中から、ため息のような笑い声が聞こえて、思わず眉を顰める。けれど液晶を覗
きこんだら、先日はるかを好き勝手蹴りあげたり小突いたりしやがった女の子からの
素敵なメッセージが届いていてはるかはふき出した。曰く。


『いつまでサボってんの!早く来なさい!』

 結構的確に、はるかの性質を分析していたらしい彼女は、だからこそ一々はるかの
様子が気になるのだろうか。


 一つのことしか考えたくないはるかは、だからってその対象がいつも定まっている
かと言えばそうじゃない。


 全く仕事熱心な様子に感銘を受けたはるかは、返信もせずにさっさと手にしていた
携帯を折りたたんだ。それから手近にあったジャケットを掴むと、振り返りもせずに
部屋の扉に手をかけた。


 背中のもっと後ろで身繕いをしている彼女が、どんな表情を浮かべているのか気に
なったけれど、きっといつもと変わらない。そう納得して、扉を閉めた。




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