それはとても、胸がいっぱいな瞬間 3



『迎えに来て、はるか』

 レース前の時期に、彼女が携帯に連絡を入れることすら珍しいのに。不安げな声で
そんなことを頼むだなんてかなり希少ではなかろうか。


(今すぐ会いたいとか?)

 そういえば、最近はお互い特に忙しくて、部屋に帰れば後は寝るだけって事の方が
多かったし、とバイクで風を切りながらはるかは頬を緩めた。遅く帰ってくるのはほ
とんどはるかの方で。どんなに遅くてもみちるは起きて待っていてくれるんだけど。
いざシャワーを浴びて寝室へ行くと、ベッドには可愛い可愛い眠り姫、なんてシチュ
エーションが連日連夜。疲れているのはみちるも一緒なのだ。そーゆーことする体力
は残ってるのにと叫び出したい気持ちを握りつぶして、おやすみのキスだけで我慢す
る。かなり紳士的だと思う。慎ましやかだと思う。誰か褒めてくれ。


 だけど浮足立ったはるかを待っていたのは、そんな甘い一時じゃなかった。

「多分、研究所が破壊された際に残ってしまったものが憑依したのだと思うわ」

 花柄のワンピースに身を包んだ可愛らしい姿からは想像できないくらいに、スタジ
オの椅子に腰かけてそう言う彼女の声は冷静だ。


「何でその時に連絡しないんだ」

 ブラインドを閉めた窓際のコンクリートへ作り付けられている机にもたれたはるか
は腕を組んだままみちるを見据えた。


「かなり弱っている様子だったから、一人で対処できると判断したの。事実簡単に憑
依も解けたし。それに、あなたサーキットへいる時には、連絡しても気がつかないで
しょう?」


「そりゃ、そうだけど・・・」

 脚を組みなおす仕草を眺めながら、はるかは憮然とする。簡単にと言った彼女の左
腕には包帯が巻かれていた。重厚なものではない。絆創膏では間に合わないから、ガ
ーゼを当ててそれを固定しているのだろう。けれど、問題なのは傷の大小ではない。


「あの子たちにも連絡をしておいた方が良いかしら・・・」

 左腕に突き刺さるはるかの視線から逃れるように彼女は立ちあがって、バッグやケ
ースを置いている、壁際のボードへと向かった。


「・・・それがいいね。放っといていいものじゃないだろうし」

 彼女に合わせるようにはるかも立ち上がった。胸がむかむかする。

 多分、それは彼女が言うように、戦いの残骸にすぎないのだろう。サーキットの轟
音にかき消されてしまうような微弱なものでしかない。新たな危機が迫っているのな
ら、はるかにも感じ取れるはずだ。


 それなのに、焦燥感が身体の中で渦巻いて行く。

 こちらへ背を向けて帰り支度をしている彼女の元へ向かいながら、それはどんどん
大きくなっていく。


「・・・それなのに、なんですぐに連絡しなかったのかな。みちるは」

「だから、・・・」

 先ほどと同じようになじるはるかの声に振り返ったみちるの言葉が途切れた。はる
かが唇を塞いだからだ。だって、どうせさっきと同じこと言い聞かせようとするだけ
だ、きっと。そんなの聞きたくない。


 彼女の後ろの壁に手をつくと、二人の距離がくっつきそうなくらいに近くなる。

「傷なんて作っていいと思ってるの」

 壁際に閉じ込められたみちるが、目を見開いて息をのむ。

「みちるは僕のものだろ。指先一つでも、勝手に傷つけたら許さない」

「・・・そんなこと」

 言い返そうとする唇を噛みつくようにしてまた塞ぐ。力任せに抱き寄せたくなった
けれど、腕の傷を痛めてしまいそうで、壁についた手をきつく握りしめた。


「だから、みちる、今日は優しくしてほしくないんだよね?」

 よろめくように低いボードへ腰を落としたみちるを見下ろすと、焦燥感は突き上げ
るような衝動に形を変える。


「え?」

「僕のもの壊そうとしたんだから、怒られるの、覚悟の上でしょ?」

「何言っているの」

 目線に合わせて腰をかがめると、気圧されたみたいに彼女は後ずさったけれど。真
後ろに壁があるんだから、逃げられるわけないじゃない。すぐに背中が壁についてし
まうと、追い詰められた小動物みたいにみちるは肩を震わせた。


「・・・おしおきする。二度とこういうことしないように」

 その仕草を眺めながら告げる自分の声が冷たく笑っている。

「自分が誰のものかわかるまで、許してあげない」

「・・・なに、いっているの・・・?」

 状況が把握できないのか、彼女は同じ質問を繰り返した。それを聞き流して、ワン
ピースの腰を後ろで縛っているリボンを解くと、みちるが慌ててはるかの肩を押す。


「待って、・・・もうすぐ、次にこの部屋を使う方が来るのよ」

 その声は、最初にこの部屋を訪れた時のように冷静なものではなかったけれど、諌
めるような言葉に、余計に苛立ちが募ってしまう。


「・・・使用中とでも紙張ってこようか?」

「ふざけないで・・・迷惑がかかるでしょう?わからないの」

「みちるこそ、今自分がどういう立場なのか忘れてない?」

 乱暴にならないように、はるかにしては慎重に注意を払って、彼女の上半身を横向
かせる。背中の細かな釦を外しながら、露わになっていく素肌に口付けると、みちる
が小さな声で「はるか」と言った。


「・・・言ったろ、わかるまで許さないって」

 小さく震えているような呼び声が可愛くて、優しくしてあげたいのに、答えるはる
かの声は意地悪く尖ったままだ。


 顔を上げると、みちるが肩越しにこちらをみつめている。目を合わせるなんてでき
なくなってその肩を引き寄せた。もう一度真正面で向き合う形になると、視線をそら
せたまま細い首筋に口付ける。


 使命が終わっちゃったら、みちるは離れていくのかな。

 考えなきゃいいのに、また、その言葉が頭に浮かんで大きく膨れ上がる。

 普段の彼女は、不意にはるかを呼び出したりするようなことなんてない。それなの
に、例え僅かでも戦いの匂いが漂っていれば、さも当たり前のような表情で呼びつけ
る。そのことにどこか安堵感を覚える自分が嫌で仕方ない。


 呼びつけても、はるかを気遣った跡があちこちに残っている、そしてそれをできる
だけ見せようとしない彼女の優しさに、不安になって堪らない。


 肩口を引き下ろしてワンピースを抜きとっていたら、みちるがそっとはるかの髪を
撫でた。

 でも、そんなのじゃ物足りないんだ。


 もっと、縛り付けてよ。

 離れたりなんてできないくらいに。



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