それはとても、胸がいっぱいな瞬間 2



 世界が守られて、使命は終わった。言葉にしたら、意外に短くまとまるものだなと
思った。それとも、感傷に浸っちゃいたくなるのは、自分だけなのだろうか。前に進
むって本当はもっと簡単なことなのかな。例えば、壊れたマンションの再建工事は既
に始められていて、その代わりの部屋で普通に生活できている今みたいに。


 だけど、そんなことじゃないんだ。不意に不安で仕方がなくなってしまうのは。

「今日は出かけるの?」

「午後から予定があるけど。みちるは?」

 リビングでごろごろしていたら、寝室から出てきたみちるがそう言った。ちなみに
その前にはバスルームを結構な時間占拠していた。身繕いばっちりの彼女も出かける
つもりなのだろう。手にはヴァイオリンケース。


「私はもう少ししたらスタジオへ行くわ」

 この部屋には、以前彼女が住んでいた部屋のような防音室がない。だから、彼女は
毎日のように、練習のためにそこへ通っているのだ。


 マンションの管理会社や、それぞれの家が早急に用意してくれた部屋を使うことも
なく、はるかはみちると一緒に別の部屋を借りた。


『どうせだから一緒に住もうよ』

 言った直後に、かなり軽い口調だから本気にしてもらえないかもと、青ざめたはる
かの前で、みちるはそれとは対照的に頬を上気させた。


『本当?』

 そもそも自分たちの年齢で部屋を借りられるものなのか、とか。手続き上保護者の
同意が必要になった際に、自分たちの関係をどうやって説明するのか、なんて突っ込
みが頭を過るよりも前に、目の前のみちるの表情の先を見たくて、はるかは大きく頷
いていた。


 馬鹿みたいに何度も頷いているはるかの前で、みちるが花のように笑顔をほころば
せるから、胸が苦しくなるくらい愛しくなった。


「きっと、私の方がはるかより早く戻ってくるわね」

 ケースをそっとチェストの上へ置くと、彼女は早足でキッチンへと向かいながらそ
う言った。


「んー。多分・・・」

 カウンター越しに彼女の顔を眺めながら、はるかは思考を巡らせた。マシンの整備
や調整のために、はるかが出かけるのも毎日のことだけれど、彼女のように規則正し
く時間に沿って動いているわけではない。パドックで根詰めていることもあれば、モ
ータースに入り浸っていることだってある。トレーニングも、決まったメニューがあ
るにもかかわらず、いけないと思いつつ、気分が乗ればついつい過剰になってしまう。
だから帰宅する時間だってばらばら。午後から出かければ、日が沈んでいることに気
がつかないことだってある。


「じゃあ、・・・その・・・」

「?」

 朝食を作る際に下準備をしていたのだろう、手早くはるかの分の昼食を用意しなが
ら、みちるが言いかけた。


「ううん、何でもないの・・・」

 けれど、彼女にしては珍しく、口ごもったように言いかけた言葉を打ち消した。

「そう言うのって余計気になるじゃない」

 ソファから立ち上がってはるかが続きを促しても、みちるは視線をそらせて黙り込
んだままだ。ムキになってはるかもキッチンへと回ると、彼女は驚いたように目を見
開いたけれど。


「言いかけたの、教えてよ」

 手にしていたパステルカラーの食器を取り上げて、じっとみつめると、みちるは諦
めたようにため息をついて、だけど何だか落ち着きなく視線を泳がせてから、最後に
俯いて言った。


「・・・待っているわ、ね・・・」

 耐えきれなくなったのか、最後の「ね」の所でか細い声が裏返っていた。

「・・・・・・」

 見ているこっちにまでうつっちゃいそうなくらい、みちるの頬っぺたがどんどん赤
くなっていく。普段こういったことを言い慣れていないせいなんだろうけど。俯いた
まま自分の言葉に照れてしまったのか、口元に指先を添わせている。どうしたの、こ
の子。凶悪すぎるんですけど。文句なしのキュートな仕草にはるかは滅多打ちにされた。


 胸を鷲づかみにされちゃったような感覚に、ふらふらとつかまる場所を求めて、は
るかは思いっきり小さな身体を抱きしめる。


「は、はるか・・・っ、何?」

「もう、何で一々喜ばせるようなことするのかなー」

「???」

 唐突に抱き寄せられて肩をすくめるみちるの耳元に、キスするみたいに唇を近づけ
て囁いた。


「飛ばして帰ってきちゃう」

 みちるの手が、躊躇いがちにはるかの背中に添わされる。やんわりと抱き寄せられ
る感覚に満たされて目を閉じると、彼女がはるかの肩に頬を擦りよせた。その感覚が、
うれしくて、少し痛くなる。


 使命が終わっちゃったら、みちるは離れていくのかな。

 心の隅っこに、小さな不安が埋まっているのに気がついてる。

 だけど腕の中の体温に縋りつくように抱きしめていたら、今だけは忘れられる気が
してはるかはみちるを抱きしめる腕に力を込めた。



                             


 スケジュール帳は毎年新しいものを用意しているけど、大概自分で購入したもので
はない。貰い物の中で使い勝手のよさそうなものを適当に選んで使う。ただ、思い入
れがないからなのか、それを使い込むようなこともなかった。レースが近づいてきた
らそうも言っていられなくて、手元にあるものに必死で書き留めるけれど。一つの予
定が終わると、次の予定が入るまでになくしてしまって、適当なメモ帳に書き綴ると
いったことを繰り返しているような気がしないでもない。


「はるか、近くにレースがあるって言っていたわよね?」

 はるかの隣に腰かけたみちるが、手にしていたカレンダーにペンを走らせている。

「うん」

 ずさん極まりないはるかのスケジュール管理に痺れを切らしたみちるが、カレンダー
に予定を書き込むようになったのは、いつ頃からだろう。


 はるかの予定はオレンジ色。みちるの予定は青色。二人の予定は赤色で、一か月ご
とに紙面の分けられた壁掛けタイプのカレンダーにきっちりと書き込まれている。は
るかが次のレースの日にちを伝えると、みちるは丁寧にその日付の空欄へと書き込ん
でいく。ついでにその周辺で関連の予定もはるかに尋ねながら書き綴る。


「見に来てくれる?」

 印字されているような美しい文字を眺めながら、はるかからも尋ねてみる。ちなみ
にみちるが書いた予定の周辺に書き込まれている、ふざけた絵文字ははるか作である。


「・・・ごめんなさい。私もこの辺りで少しバタバタするから・・・」

 そう言って、今度は水色のペンで自分の予定を書き込んでいく。はるかのレースの
予定が書き込まれている日付の所にも。


 レッスンの時間やアトリエを訪ねる日にち。レースの二日前には演奏会。面識のあ
る企業のパーティーにお呼ばれしてる。それから。


「取材?」

 聞けばどこぞのファッション雑誌の名前が出てくる。元々みちるはあまりそう言った
ことが好きではない。けれど音楽活動への評価が高まるにつれ、彼女自身への注目も
大きくなった。メディアへの露出も少しずつ増えていた。


(・・・・・・やだな)

 正直な感想をぐっとこらえる。以前お世話になったスポンサーから頼まれて、と聞
かされると、みちるを責めるわけにもいかない。(おもしろくないけど)独占欲の塊
であることに違いはないけれど、いつもみちるを困らせたいわけでもないし。(全っ
然おもしろくないけど)


「変なのが寄ってこないように印つけといてもいい?」

「だめ」

 とりあえず、それだけ言って抱き寄せると、みちるはくすくすと笑った。

「・・・でも、お互い予定が多いわね。わかっていたけれど」

 書き終わったペンを机に置くと、みちるは予定の書き込まれた紙面を眺めながらそ
んなことを言った。


「そう?」

 きれいな文字で書きつづられているから雑然として見えることはないけれど、確か
にそれぞれの予定で紙面はいっぱいになっていた。赤色で書き込まれている所はほと
んどない。


「それぞれの部屋にいた時と同じ位しか顔を合わせていないような気がするもの。私
は練習するのにも家を空けてしまうし」


「・・・・・・」

 みちるの言葉を聞きながら、胸の奥の方がざわざわと騒ぎ出す。別段、彼女の口調
はいつもと変わらないものなのに。


「はるかの通っているモータースからも、以前の部屋と比べたら離れてしまったから
・・・」


「何が言いたいの?」

「?」

 柔らかな声を遮るように言った自分の声はひどく刺々しい。言われたみちるもその
ことに気がついたのだろう。不思議そうにこちらを見上げた。


「比べたら、今よりも前の方が良かったってこと?」 

「私は別に・・・ただ、不便ではないかしらと思っただけよ」

 突然噛みついてきたはるかに、みちるは戸惑ったように言い聞かせたけれど。その
こだわりのないような言葉にこそ、傷ついてしまいそうで黙り込んだ。


 夢を追いかけることも、誰かを愛することも。使命が終われば、それは手に入れら
れる未来だと思っていた。


 実際に、二人とも新たな高校への編入を検討するよりも前に、手放そうとしていた
将来の夢へ向かって走り出していた。


 でも、じゃあ。誰かを愛することは?

 使命が終わっちゃったら、みちるは離れていくのかな。

 はるかから、自由になって。

 そんなことを考え始めると、何かの拍子に溢れだしちゃいそうで、何も言えなくな
る。静かになった部屋の中で、みちるの手のひらが、そっとはるかの背中を撫でた。




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