それはとても、胸がいっぱいな瞬間 4



 昔からよく熱を出す子どもだった。と思う。人より体力はあるくせに、突然発熱す
ることがある。知恵熱ってやつだろうか。


『夕方には戻るわ』

 そう言って、彼女は部屋を後にした。件の雑誌の取材だ。彼女が額に乗せてくれた
氷嚢を持ち上げながらため息が出る。


 レース中はもちろん。表彰台に上っている時も。シャンパンやらビールやらをチー
ムメイトとかけ合っている時だって、はるかはいたって健康体だった。明日からはし
ばらくのオフだから。みちるの送迎をしてもいい。夕食を作って出迎えるのだって悪
くない。上機嫌でそんなことを考えて部屋の扉を開けたのに。


 いつもより長めにバスタブに浸かっていたのが良くなかったのだろうか。熱っぽい
と気になったのはベッドに入る前。はるかよりも遅れてシーツへ潜り込んだみちるが、
ぴったりとくっつくと同時に驚いたような声を上げた。


『熱があるのではないの?』

 頑なに否定するはるかを押さえつけるようにして、みちるが体温計を口へ突っ込ん
だ。十秒程ではじき出された結果に、二人とも黙りこむしかなかった。
39.3℃。

(・・・・・・したかったのに)

 デジタルの数字を呆然と眺めながらそんなことしか思いつかない辺り、発熱以外に
は特に問題がなさそうな気もするんだけど。おかげさまではるかは昨夜から今の今ま
で必要最小限以外に立ち歩くことすら禁止されていたのだ。


(静かだな・・・)

 天井をぼんやりと視界に映しながら耳をすませると、どこかから彼女の足音が聞こ
えてくるような気がしたけれど、時計の針は正午過ぎをさしている。夕方には程遠い。


 きっと、彼女が出かける前に、散々甘やかされたせいだ。こんな心もとなくなって
しまうのは。


(帰ってくるのかな・・・)

 思い浮かべた自分の言葉を、馬鹿みたいだと切り捨てることもできなくて、シーツ
を頭からかぶる。


 そこから微かにみちるの匂いがすると、目の奥が熱くなっていくみたいだった。


                             


(・・・気持ちいいな)

 汗ばんだ額や頬に冷たくて柔らかい感覚が押し当てられるように感じて、はるかは
うっすらと目を開いた。


「・・・起こしてしまったかしら」

 徐々にはっきりと彩られていく視界の中に、彼女がいた。

「みちる・・・」

 喉に微かな痛みを覚えながら名前を呼ぶと少しだけ掠れていたけれど、みちるはは
るかの声を聞くと瞳を緩ませて応えてくれた。それから顎から喉にかけても、濡れた
タオルが押し当てられる。


「ごめん・・・迎えに行けなくて・・・」

 起き上がろうとする身体を手のひらでそっと制して、みちるはこちらを覗き込んだ。

「そんなこと気にしなくてもいいわよ。熱があるのに。今までの分の疲れが出ちゃっ
たんでしょう」


 そう言ってまた、彼女は手にしたタオルをはるかの額に押し当てた。優しく、優し
く、肌に浮き出た汗を拭いながら、みちるが愛おしそうに眺めてくれるから、熱のせ
いだけではなく弱ってしまいそうだ。


 はるかに体温計を差し出すと、みちるはこちらへ背を向けてベッド脇に置いたチェ
ストへと屈む。洗面器にタオルを浸して濯ぐ音が静かに響く。


「・・・・・・でも、不便だろ」

「?」

 その姿をじっと眺めているはずなのに、時折霞んで見えてしまうのは、熱のせいな
のだろうか、それともこみ上げてきた熱さのせいなのだろうか。わからないまま、は
るかは呟くように言った。


「・・・だから、少しは解消、してあげようと思って・・・」

「なぁに、それ?」

 振り返りながら、みちるが笑った。その笑顔と同じように優しい声がする。柔らか
く絞ったタオルがまた素肌へ押し当てられて、はるかは冷たい心地よさに目を閉じる。


 頬から顎へ、繰り返し押し当てて、耳元を撫でる。丁寧にそこを拭うと、ほつれて
しまったおくれ毛を、みちるの指が摘んで耳へ掛けた。その指先が目元を撫でる。だ
けど熱のせいか、それが遠く感じられて、はるかは慌ててその手をつかんだ。


「・・・・・・無理してまで、僕と一緒にいなくてもいいよ。・・・しなきゃいけな
いことなんて、もうないんだし」


 白い指に鼻先を擦りつけながら、声になったのはその仕草と正反対の言葉で、馬鹿
みたいだ。だけど、滲んでしまった目元を見られるのは嫌で、顔を上げることもでき
ない。


 擦りよせたのとは反対の手が、はるかの髪を撫でた。

「それは、はるかがそうしたいと言うこと?」

 はるかがみちるの手の甲に頬を擦る音と、みちるの手のひらがはるかの髪の毛を撫
でる音。それらにまぎれてしまいそうな声で、彼女が言う。


「・・・・・・みちるがそうしたいんだと思って」

 言いわけみたいに応える自分の声は、トンネルの中にいるようにくぐもって響いて
いた。


 みちるが黙り込んでしまったのがわかったから、はるかも何も言えなくなる。不規
則に鼻がスンと鳴ってしまうのを隠したくて仕方がないのに。


「つまりあなたは私がこの前言った「不便」という言葉を相当根に持っているのね」

 顔を上げることも憚られて、じっと沈黙に耐えていたら、拗ねたような声が聞こえ
た。けれど、その声の響きにはるかは思わず唇を尖らせてしまう。


「・・・違うし」

 拗ねた時のみちるの顔を思い浮かべると、頬が緩みそうになる。可愛い表情にいつ
だって抱きしめてあげたくなる。だけど、その声が構成する文章の意味に、はるかは
不貞腐れてしまいそうだった。


 そうだよ。でも、それだけじゃないよ。わかんないでしょ、みちるには。

 言えない代わりに、彼女の指先をつかんでいた手にぎゅっと力を込めた。壊れちゃ
わないかな。そう心配してしまうくらい細い指先なのに。


「・・・不便でも無理しても、構わないもの。そんなこと。それでもあなたの側にい
たいと思うのは、私のわがままなのかしら」


 はるかにさせるままを見守っていた彼女が口を開く。どこか熱のこもったような声
と一緒に。


「そんな風に思ってるようには全然見えなかったな」

「どうして?」

 重ねて尋ねられると、はるかはまた口ごもった。それを反発と受け止めたのだろう、
みちるは少しだけ強い口調で言い募る。


「・・・そう。はるかは私のことを、期間を限定した使い捨てだと思っていた、もし
くはそう言ったことが平気で出来る人間だと認識していると言うことね」


「な、何でそうなるんだよ!?」

 慌てて顔をあげたら、当たり前だけれど間近にみちるの顔があった。

「・・・それなら、どうして・・・?」

 すぐ側でこちらをみつめている彼女の表情は、先ほどまでの声の持ち主だとはわか
らなくなりそうな程に色を失っていた。


 淡い色の唇が、微かに震えているのを見ると、それははるかのせいだとわかったけ
れど、優しい言葉なんて見つけられない。


「・・・だって、みちる。僕がいなくても平気な顔してるじゃないか」

 はるかの前で、みちるは戸惑ったり、笑ったり、色々な顔を見せてくれるけれど。
引き止められたようなことなんて一度だってない。


 それなのにどうして、そんな傷ついたような顔をするんだろう。

 色を失ったまま、みちるは項垂れて、俯いて。唇まで噤んでしまったのだろうか、
声が零されることもなかった。


 二人とも身動ぎすることもできなくて。部屋の中には沈黙の蚊帳が張られたみたい
だ。その外側から、時折窓ガラスを揺するような風の音がした。


 「ごめん」って一言言えば、この沈黙はなかったことになるのだろうか。

 思案しながら、けれどそれが何に対してのものなのか、わからないままでは口にす
ることもできない。


 言い淀んで躊躇う心に、身体がついてこないかのように、言葉を探した喉元が、息
をのんで音を零した。


 それが、静かな部屋の中でやけに大きく響いたせいだ。

 顔を上げた拍子に首元に落とされていた指先が、はるかの手の中で一度だけ、微か
に動いた。


「はるか、視力は良かったと思うけれど」

「はあ?」

 笑い声のような吐息の後で、みちるがそんなことを言った。まるで脈絡のないよう
な言葉に、思わずその顔を覗き込む。


 その声に似つかわしくないような、曇り顔。眉をひそめて、きれいな瞳を涙でいっ
ぱいにして。はるかと目が合うと、それが一瞬だけくしゃくしゃになる。


 でも、きれいだと思った。

 はるかが汗ばんだままの指先で目元を撫でると、苦笑いみたいにみちるは頬を緩ま
せる。


 泣き笑いみたいなその顔が、たまらなく可愛いと思った。

 きっと誰も、みちるのこんなきれいな顔を見たことなんてない。

「・・・大丈夫よ」

 みちるは慌てると、早口になる。

 照れると、落ち着いた声が裏返る。

 高く震えた語尾を聞きながら、そんなことを思い出した。

「・・・あなたが落ち込んでも、寝込んでも・・・その時は側にいて、私が守ってあ
げるわ」


 何言っちゃってんの、お姫様。それはこっちの台詞だろ。

 早口を無理やり押さえつけた途切れ途切れの声に、思わずそう言い返したくなった
けれど。


 きっと、熱のせいだ。

 喉が痛くて。胸が苦しくて。声がうまく出てこない。だから。

「・・・じゃあ、今は?」

 身体が弱ってて。仲良く一緒に、心まで泣き虫になってるよ。

 それなのに、思ってることと全く違う言葉が出てきちゃう。

 そんな時は、どうしてくれるの。

 掠れて甘ったれた声と同じような視線で見上げたら、みちるは困ったように唇を尖
らせて、肩をすくめた。


 それからすぐに、洗面器から水音が聞こえてくる。彼女が慌てて落としたタオルが
水面を叩いたからだ。


 けれどそれを取り上げて、絞る音は聞こえてこない。

 みちるの手は、腕は、はるかの身体を抱きしめていた。シーツごと、柔らかく、だ
けどはっきりと力強く、はるかを抱きしめてくれた。頭を抱え込んだ右手が、いつも
と同じようにはるかの髪を撫でた。


「ねえ。熱が下がっても、ずっとこうしててくれる?」

 まどろむようにねだったら、みちるは右手に丁寧に力を込めて。頷いて見せるみた
いに、何度もはるかの額に頬を擦り寄せた。




                             END



 言葉で言ってもらえないと不安になるはるかさんはきっとわんこな乙女。拗ねても吠えても、
それはみちるさんの手のひらの上だっ(刺)



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