涙があふれても 水曜日




 例えば、そういうことをしたら。祥子さまともっと仲良くなれるのかな。


 相変わらずの朝からの読書と、かなりの寝不足のせいで祐巳はなんだか鬱々としていた。読書が
嫌いなわけではないけれど、せっかく祥子さまと一緒の空間にいるのにお互いに無言でページを繰
り続けるなんて、まるで拷問だ。仕方なくページの上の活字をただ眼で追うけれど、内容なんてあ
まり頭に入らない。おまけに少しだけ頭に入ってくるその本の内容は、更に祐巳を滅入らせる位に
鬱蒼としているからたまったものじゃない。恋と友情と裏切りと、それをこんなにも重たい空気で
延々と続けられるのは、
17歳の女の子には刺激が強すぎるんじゃないだろうか。
 気分を切り替えようとしても、本の内容から離れて思考を始めようものなら祥子さまのことしか
頭に浮かばなくて、どうしようもない。

 昨日の夜も、結局何かまとまったことを考えるわけでもないのに、祥子さまのことばかり考えて
予想通り眠れなかった。祥子さまとどうしたいとか、何をして欲しいとかそういうことを考えたと
いうわけではなくて、祥子さまの微笑や、匂いや、暖かい指先や、そういった光景や感触を全身が
思い出して眠れなかったのだ。それなのに今、目の前にいる祥子さまはまったくそんな素振りすら
見せない。祐巳の半分でも良いから、どきどきしてくれたらいいのに・・・。そこまで考えたとこ
ろで、本当に気分が滅入ってきて、胸の中の重たい空気を吐き出すように、大きなため息をついた
ら祥子さまに気づかれてしまった。


「どうしたの」

 祐巳をこんな気持ちにさせているのは祥子さまなのに、そんなこと思いもよらないように不思議
そうに尋ねてくる。


「いえ、内容がちょっと」

 そう答えて祥子さまの方を窺うけれど、祥子さまは別段それ以上のことは聞いてこない。「そう
?」なんて言いながら、また自分の読書を再開する。それから思い出したように「疲れたなら、少
し休むといいわ」って祐巳の方も見ないでそう付け加える。

 祥子さまは学校にいる時とまったく変わらない、普通の態度で。きっとこの別荘にいる間もこの
ままなんだろうなって、昨日までの様子を見てうすうすは気付いていたけれど。

『好きな人と一緒にいて、澄ましていられるくらいには強くないの』


 あんなどきどきさせるような言葉を浴びせておいて、こんなにもそっけなくされるとついついい
けない考えが頭の中をよぎる。


 祥子さまは本当に祐巳のこと、好きなのかな。

 構ってもらえなくて、拗ねているだけだって自分でもわかっている。だけど、祐巳ばっかり祥子
さまのことを考えているような気持ちになる。こんな、静かな時間は。

 寂しいなら、読書を一時休憩して、祥子さまの側に行けばよいのかもしれない。そっと寄り添っ
て、その手に触れるだけでも安心できるだろうに。でも、もし邪険に扱われたらと思うと怖くてこ
こから動けない。黙ってそっと祥子さまをみつめるしかできない。

 少し俯き加減で読書を続ける祥子さまの頬に、伏目がちに降ろされた長い睫が影を落とす。時折
はらりとさらさらの黒い髪が肩から落ちるから、呼吸をしているんだってやっとわかるくらい、祥
子さまは微動だにしない。祐巳はおろか、外の世界から切り離された祥子さまはそのことがまるで
当然のように、自分の世界に入って他には目も向けない。そんな祥子さまの側に行ったところで祐
巳が入り込む余地なんてまったくないような気がした。

 だから、突然の来客を知らせるキヨさんの声にびっくりしたけれど、正直安心した。
 だって、それ以上祥子さまをみつめていたら、人として褒められないような考えに囚われてしま
いそうだったから。


 祥子さまに抱かれたとしたら、祥子さまはもっと祐巳のことを見てくれるのだろうか。

 なんていやらしいんだろうって、自分で自分を罵倒したけれど。不意に心に浮かんだ言葉は、も
しかしたら祐巳の本心だったのかもしれない。


*     *     *


 祥子さまの手が、祐巳の髪の上を優しく滑る。「よしよし」でも「いい子いい子」でもない不思
議な心地の祥子さまの撫で方は、それでも祐巳を安らかな気持ちにしてくれる。そのままなんだか
甘えたくなって、祥子さまの肩に触れたまま瞼を擦りつけるようにしたら、祥子さまは柔らかく祐
巳を抱きしめてくれた。

 それに応えるように祥子さまの背中に手を回したら、胸から全身に向かって漣が立つように感じた。
 祐麒と街へ行って、それからお家へ帰ってきて、それまでの間にたくさんの人にあった。その人
たちに接して楽しかったり、ちょっと心許ない気持ちになったりしても、こんなにも祐巳の心を震
わせるのは祥子さまだけだった。


「・・・明日はどこかへ出かけましょうか」

 祥子さまは、ひとしきり祐巳を宥めるように抱きしめてくれた後、耳元で優しく囁いた。

「え?・・・でも」

 うれしいけれど、祥子さまは人ごみは苦手だって言っていた。だからきっと、ぐずっている祐巳
をあやすみたいにそう言ってくれているんだってすぐにわかった。わかった途端に恥ずかしさで居
た堪れなくなる。祥子さまにお呼ばれしてこの別荘にお邪魔しているのに、祥子さまに気を使わせ
てこんなことを言わせるなんて、どれだけ図々しいんだって。


「い、いいです・・・お姉さまと一緒にいられるから、お家がいいです・・・っ」

 とてもじゃないけど、祥子さまをまっすぐにみられなくて、祐巳はくっついていた身体を少し離
すと、俯いて首を横に振った。


「祐巳を連れて行きたい所があるの」

 祥子さまは祐巳の不審な行動を咎めたりなんてしなかった。祐巳の様子におかしそうに笑ってか
ら、言い聞かせるように優しくそう言ってくれた。


「祐巳と一緒に行きたいのよ」

 言いながら祐巳の頬に触れてくれる祥子さまの指先から優しい気持ちが祐巳の胸めがけて流れ込
んでくる。

 構ってもらえなくて拗ねていた自分が馬鹿みたいだ。祥子さまはこんなにも祐巳を大切にしてく
れているのに。祐巳が想うほどに祥子さまは自分のことを考えてくれていないなんて、どうしてそ
んなこと思ったんだろう。


「はい・・・っ、はい、お姉さま」

 今度はうれしくなって、祐巳はもう一度祥子さまの胸に飛び込んで、力いっぱい抱きついた。

「重いわよ」

 そんなことを言いながらも、祥子さまは祐巳を振りほどいたりしない。飼い主にじゃれる子犬み
たいに抱きついてはなれない祐巳をぎゅっと抱きしめてくれた。

 うれしくて、しあわせで。だから、考えるのを忘れてしまっていたのかもしれない。

 祐巳と離れている間、祥子さまは何を思っていたんだろうって。



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