涙があふれても 火曜日




 祥子さまに住所を書いてもらったはがきの文面をもう一度確認すると、祐巳はそれをダイニング
テーブルの端にそっと置いた。明日、忘れないように源助さんにお願いしないといけないから、お
部屋に持って帰るよりはここに置いておいた方がいい。

 今日は朝から、普段どおりに過ごしている祥子さまの横で祐巳も読書をしたり、一人でお庭を散
歩したりしながら静かに過ごした。本当は祥子さまと一緒にどこかへお出かけしたかったけれど、
休日をゆっくり過ごしている祥子さまのお邪魔をするのもはばかられてそんなこと言い出せなかっ
た。それに祥子さまは祐巳を邪険にしたりしない代わりにあまり気に掛けるようなこともしなかっ
た。時折本を持っていない方の手で隣に座る祐巳の袖を握ったり、何かを探しに立ち上がった時に
祐巳の肩に軽く手を触れさせたりして、一瞬の微かな触れ合いをしてはすぐに自分の世界へ戻って
いった。


「お嬢さま方、お茶が入りましたよ」

 祥子さまが和訳をしていた英字の分厚い本を閉じたのと同時にキヨさんがニコニコと笑いながら
紅茶とクッキーを持って広間へ入ってきた。


「ありがとう、キヨ」

「ありがとうございます、キヨさん」

 紅茶のいい香りとクッキーの甘い香りがふんわりと届いてきて、思わずにっこりと笑ってしまう。
夜にお菓子を食べたりしたら、太っちゃうし、にきびだって出来ちゃうかもしれないけれど、目の
前に甘いお菓子なんて出されたら、その誘惑に勝てる女の子なんていないのだ。


「宿題、終わりそうですか?」

「ええ、この本の分は終わりそうね」

 キヨさんが二人にカップを配りながら聞くと、祥子さまはさらりとそう答えた。
 何ですと?祐巳は紅茶の入ったカップに伸ばしかけた手を止めて思わず祥子さまをみつめた。あ
の短い時間の間にこの分厚い本を英訳しちゃったのだろうか。そういえば、その存在自体忘れかけ
てしまっていたけれど、祥子さまは脇に置いた辞書を一度も開いていない。祐巳はといえば朝から
読んでいる『こころ』をまだ半分も読了していないというのに。改めて祥子さまとの差を感じてな
んだか少し落ち込んだ。いや、祥子さまと自分を比べること自体がそもそも間違っているのだけれ
ど。


「それに、この本全部を和訳するわけではないの。授業で終わらなかった部分だけをするのよ」

 一人落ち込んでいる祐巳を見かねたのか祥子さまがさりげなくそう言ってくれた。どうやらまた
顔に出てしまったようだ。でも、お姉さまに気を掛けてもらえたことがうれしくて、祥子さまと目
があった途端に祐巳のご機嫌は直ってしまった。なんて単純。


「だからもう休むわ。キヨもさがっていいわよ」

「かしこまりました、お休みなさいませお嬢さま方」

 キヨさんは軽く頭を下げると、広間へ来たときと同じようにニコニコと自室へ帰っていった。
 祥子さまはその様子を見届けると、勉強道具一式をまとめてテーブルの端に移動させて、軽く伸
びをしてから紅茶を口に運んだ。


「おいしいわね」

「はいっ」

 ご飯やお茶の時間は祥子さまと楽しくおしゃべりをしながら過ごしたけれど、それ以外はあまり
会話もなく静かで、なんとなく寂しく過ごしていた祐巳は、話し掛けて貰えただけでうれしくては
しゃいでしまう。


「祐巳はどれがいい?」

 祥子さまは小花柄のナプキンの上にかわいらしく並べられたクッキーの上で指をくるくると回し
ながらそう尋ねてくる。プレーンな四角いクッキーに、白いラングードシャ。マーブル模様にアプ
リコット飾り、アーモンド。宝石箱に並べられた色とりどりのアクセサリーみたいなたくさんの種
類のクッキーたちは見ているだけで祐巳を幸せな気分にさせる。うーん、でもこんなに食べたらや
っぱり太っちゃうかも。そうでなくてもキヨさんの作ってくれるご飯はとってもおいしくてついつ
い食べ過ぎちゃうから、祐巳はこの一週間楽しく過ごした後で体重計に乗るのが恐怖なのに。


「好きなのから、食べたらいいのよ」

 祐巳のそんな悩みを知ってかしらずか祥子さまは楽しそうに微笑む。

「どれもおいしそうだから、決められないですよ」

「あら、では全部食べてしまえばいいじゃないの」

 それぞれ二枚ずつあるから気にしなくてもいいのに、なんて言いながら祥子さまはラングードシ
ャクッキーをつまむと一口齧った。


(ひーん、それをすると太っちゃうんですってば)

 祥子さまみたいな完璧プロポーションの人ならたかだか一日位甘いものをたくさん食べてしまっ
たからといってそんなこと気にもならないのだろうけれど。祐巳のような普通の子だぬきには日々
の努力が求められるのだ。でも、食べたい。とりあえず祥子さまと同じラングードシャクッキーを
選んで口に運びながら祐巳はもそもそと言った。


「だって、こんなに食べたら太っちゃいます・・・」

 そう言いつつもう一口ぱくり。おいしい。軽い食感の後口の中に広がる甘い甘い味に祐巳は誰に
向けるでもなく極上の笑みを浮かべた。


「そんな顔しながら言っても、説得力ないわよ」

 くすくすと笑いながら、祥子さまが祐巳の頬を撫でる。

「だって、おいしいんですもん」

「だから欲しいだけ食べなさいといっているでしょう」

 祥子さまはからかう様な口調でそう言うと、祐巳がつまんでいたクッキーを取り上げて祐巳の口
の中へ放り込んだ。甘い味がまた口の中に広がったけれど、今度はそれに幸せを感じる前に、クッ
キーを食べさせてくれた祥子さまの指先が祐巳の唇にほんの少しだけ触れたことにどきどきして頬
が熱くなった。


「お、お姉さま・・・っ」

「そんなに気になるのなら、半分こにしましょうか」

 真っ赤になった祐巳の顔を抗議の表情と勘違いしたのか、祥子さまはきょとんと小首をかしげた。

(も、もうっ。そんなかわいい顔してもだめです!)

 心の中でそう抗議するけれど、完全にノックアウトさせられてしまっている祐巳ではそれを声に
することがもはや出来ない。それなのに、祥子さまはますます祐巳をどきどきさせることをしちゃ
うのだ。天使のような笑顔で。


「はい、祐巳」

 祥子さまはアプリコットがちょこんと乗っかっているお花形のかわいらしいクッキーをつまんで
祐巳の口元へ運んだ。


「え?」

「あーん」

「ふええ!?」

 あーんって、幼児言葉で言うところのお口を開けましょうって意味なんだろうけれど。よもや祥
子さまからそんな言葉を聞く日がこようとは。いや、そうではなく祥子さまがそう言っている相手
は祐巳で。つまり食べさせてあげると言っているのだろうけれど、そう言っている祥子さまも「あ
ーん」って感じで小さく口を開けているものだから、祐巳の方こそ祥子さまに食べさせてあげたく
なってしまった。かわいすぎます、祥子さま。


「祐巳。あーん、して?」

 K.O負け。いや不戦敗だ。おねだりするみたいに祥子さまに小首をかしげてもう一度そう言われ
てしまっては祐巳に抗う術はない。


「あ・・・あーんっ」

 真っ赤になった顔が恥ずかしすぎて、ぎゅっと目を瞑って小さく口を「あ」の形に開けると祥子
さまは満足そうな笑い声を漏らしてから祐巳の口にクッキーを差し出した。


 ぱくり。

 半分だけをくわえる様な形でクッキーは祐巳の口に納まった。もごもごと口を動かしつつ、確か
祥子さまは半分こにしようと言ったのではなかったっけと考えていたらクッキーとは別の甘い匂い
がふわりと鼻先を掠めた。


「半分は、私のね」

「!?」

 突然目の前に現れた微笑に目を白黒させている祐巳になんてお構いなしに、祥子さまはそういう
と更に顔を寄せてきた。


 ぱくり。

「〜〜〜〜〜〜〜〜〜!?」

 それは一瞬の出来事だったけど。祐巳のくわえていたクッキーの片側をかじった祥子さまの唇が
くすぐるみたいに祐巳の唇に触れたから。祐巳はびっくりして口の中のクッキーを咀嚼せずにその
まま飲み込んでしまった。


「ちょ・・・っ、大丈夫?」

 予想もしていなかった祥子さまの大胆な行動に、クッキーを喉に詰まらせてごほごほとむせてい
る祐巳の背中を、そうさせた張本人の祥子さまが優しく撫でた。


「だ、だいじょぶで、す・・・」

 本当はむせている事よりも祥子さまのせいで上がっている心拍数の方が大丈夫ではないけれど、
心配そうな表情で祥子さまが覗き込んでくるから祐巳は笑顔で答えて見せる。


「よかった」

 ほっと息をつくと、祥子さまは祐巳のことを大事なぬいぐるみを抱っこする子どもみたいにきゅ
っと抱きしめてくれたけど。


(だから、そういうことされると余計大丈夫じゃなくなるんですってば・・・っ)

 うれしすぎて、どきどきしすぎてこのままでは大好きな祥子さまの腕の中で失神してしまいそう
だ。だから祐巳は本当はうれしくてたまらないのに真っ赤になった頬を祥子さまの肩口にこすり付
けるようにしていやいやをしてしまう。


「・・・嫌だった?」

 祐巳の不可解な行動を拒絶と取ったらしく、祥子さまは急に自信がなくなったような声で尋ねて
きた。


「え?」

びっくりして顔を上げると、声と同様に自信なさげな表情の祥子さまがいた。

「い、いいえ!」

 祥子さまにそんな顔なんてさせたくなくて、それ以上に祥子さまにされて嫌なことなんてないっ
て伝えたくて、祐巳は思いっきり頭を横に振って見せた。


「嫌なことなんて、ないですっ・・・お姉さまがしてくださることで嫌なことなんて何もない・・・」


 しどろもどろになりながらも祐巳が必死で否定すると、祥子さまはほっとしたように軽く息をつ
いてからうれしそうに微笑んだ。

 よかった。
 祥子さまに悲しそうな顔なんてさせたくない。華やかな微笑をみつめながら祐巳もほっと息をつ
いた。


「うれしいわ」

 そう言ってもう一度、今度は優しく包み込むように祥子さまは祐巳を抱きしめてくれた。
 甘い匂いと、柔らかいぬくもりが祐巳の全身を包んで、まるで暖かなベッドの中にいるみたいだ。
祥子さまの匂いを胸いっぱいに感じながら、このまま眠ったら本当に気持ちいいだろうなって思っ
た。


(このまま、眠ったら・・・)

 そこまで考えたところで、これ以上考えたらだめだって自分で自分に言い聞かせたけれど、そん
なこと思っている時点でもう遅い。祥子さまに抱きしめられて眠るってことを考えた途端に、昨夜
の祥子さまの爆弾発言が前触れもなく祐巳の頭の中で盛大に弾けた。


『祐巳を抱くわ、きっと』

(うわ―――――――――!!!)

 昨日、祥子さまにそう言われた直後はその衝撃的な言葉に半ば呆然として、おやすみなさいの挨
拶をした後、真っ赤になりすぎた祐巳は気絶するみたいに眠ってしまって、そのことについて深く
考えずに済んだのだけれど。

 よく考えたら、いや、よく考えなくても、自分たちは恋人同士で、愛を交し合うことは自然の成
り行きと言えなくもない。それに祐巳だって、そういうことをまったく考えたことがないわけでも
ないのだ。ただ、それは想像の中の話であって、具体的にいつ、どうするかなんてことまでは考え
たことがない。漠然と、そう何となくそういう日が来ることを夢見ていたというだけの話なのだ。

 もうそれ以上想像できなくて、頭の中のもやもやを追い払うかのように大きく顔を上げたら祥子
さまと目が合って。余計に恥ずかしくなって、思いっきり目をそらしてしまったら、祥子さまが吹
き出した。


「え、え・・・?」

 そんなにおかしかったかな、なんて自分の不自然極まりない行動を棚に上げて様子を窺うと、や
っぱり祥子さまはおかしそうに目を細めて、口元に手をあてていた。


「そんなに緊張しなくても」

「ち、ちがいます・・・っ」

「そう?でも、顔が赤いわ」

 言いながら祥子さまは祐巳の頬に手をあててくれるけれど、そんなことをされたら余計に意識し
て仕方がない。祐巳のそんな様子をからかう様に、祥子さまは悪戯っぽく微笑んでから耳元で囁い
た。


「何も、とって食べたりなんてしないわ」

「ふえ!?」

 そう言われた瞬間、顔がやけどしたみたいに瞬時に熱くなった。顔から火が出るってこういうこ
とだ。もうどうしたらいいかわからなくなって、祐巳が目を回しかけたところで、そうさせた張本
人の祥子さまがおっとりと言った。


「もう、寝ましょうか」

「んな・・・!?」

 まさに渡りに船って感じなんだけれど、まるで言い逃げみたいじゃないの。じゃなきゃ勝ち逃げ。
 茫然自失となっている祐巳をよそに祥子さまは言葉通り机の上を片付け始めた。食器と食べ残し
たクッキーを簡単に片してから、そろえてあった勉強道具を手に取る。


「ほら祐巳、部屋に帰りましょう」

 ぽかんと口を開けて突っ立っている祐巳の手を取ると、祥子さまは何事もなかったかのように歩
き始めた。


(え、えっと・・・)

 相変わらずのクールな祥子さまの態度に少しだけほっとして、だけど繋いでくれている手の感触
が優しくて、このまま眠ることをちょっとだけ残念に思ってしまった。


「おやすみ」

「おやすみなさい・・・」

 昨日と同じように祥子さまは、部屋の扉の前で祐巳の頬に軽く触れさせるだけのキスをくれた。
唇が離れた時、一瞬だけ祥子さまの瞳が寂しそうに揺れているように見えて、なんだか切なくなった。

 祥子さまにそんな顔をさせたのは、間違いなく自分で。
 祥子さまに触れられるのが嫌なわけじゃないけれど、意識しすぎてしまうと結局、あんな風にじ
たばたしてしまう。あれじゃ、嫌がっているととられたって仕方がないのだ。からかうような言葉
も、クールな態度も、祥子さまの傷ついた心の裏返しなのかもしれない。そう思うと、気のせいじ
ゃないくらい胸が痛くなってしまった。

 何か言わなきゃ。そう思って見上げた視線の先には、先程の寂しそうなものではない、優しい微
笑を頬に零した祥子さまがいた。

 祥子さまは、祐巳と目が合うと更に微笑を深くして、それから祐巳の頬を優しく撫でるとそのま
ま踵をかえして自室へと帰っていった。


「・・・・・・」

 触れられた頬がとっても熱くて。その事を意識すると今日、祥子さまが触れてくれた場所が全部
熱くなっていくのを感じる。手も腕も肩も、背中も、唇も。吐息が触れただけの耳元でさえ、どき
どきしている心臓の音に合わせるみたいに、その全部が熱く脈打つ。

 自分の身体はこんなにも祥子さまに触れられて喜んでいる。そう思わせるには充分すぎる位にそ
の高鳴りは、全身を何度も何度も際限なく駆け巡る。

 世の中のカップルさんたちはなんでそういうこと平気でできるんだろう。
 熱に浮かされたように火照る身体を自分で抱きしめながら、祐巳は本気でそんなことを考えていた。

 今日は、眠れそうにない。




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