涙があふれても 木曜日




 もう二度と祥子さまを置いて出かけたりなんてしない。

 二人歩く霧の中、そう思って強く強く、祥子さまの腕を抱きしめたけれど、優しい祥子さまは逆に祐
巳を安心させるみたいにその手を取ってくれた。源助さんのバイクがお家に入っていくのが見えたから
早く返らないと朝食が冷めてしまうって、頭ではわかっているのに、祐巳はそこから動けなくなってし
まった。


「やっぱり、怖いの?」

 側にいるから大丈夫よ、そう言いながら祐巳を抱きしめてくれる祥子さまの腕は強く、しなやかで、
それでもやっぱり細くて華奢な女の子の腕だった。


―――悪戯好きの妖精は、一人でいる人ばかりを狙うから。

 祥子さまは何度、この林を一人で訪れたのだろうか。真っ白な世界で一人、どんな時間を過ごしてい
たのだろう。


「ごめんなさい、お姉さま」

「?」

 祐巳は小さく横に首を振ってから、搾り出すようにそう言った。
 安らげるこの子ども部屋を祥子さま一人訪れていたのなら、きっといつまでもここにいても苦になん
てならない。だけど、そこに祐巳を招き入れてくれたのだ。大切な宝物みたいに。それは祥子さまがど
れだけ祐巳のことを大切に思ってくれているのか、今更ながらに思い知らされることだった。


「・・・お姉さまがいらっしゃるのに、私一人で出かけたりして・・・」

 本当は、申し訳ない気持ちはそんな言葉じゃ表せないくらいなのに、声になって出てくるのはそれだ
けだ。


 祥子さまを、守ってあげたい。

 祥子さまを、包んであげたい。

 不安や、孤独や、祥子さまに降りかかる全てのことから。胸の奥から懇々と湧き上がる清流のように
そんな気持ちが溢れてくる。それなのに、祥子さまは。


「ばかね、そんなことでいじけていたの?」

「え・・・?」

 白くぼやける視界の先、それでも祥子さまの笑顔は眩しい位にはっきりと見えた。

「いいのよ。例えどこかへ行ったとしても、祐巳は私の元へ帰ってきてくれるのだから」

 照れたように微笑む祥子さまに、また胸が熱くなる。それから熱くなった胸に祥子さまの言葉が魔法
のように染み込んでくる。

 そうか、祐巳は祥子さまの元へ帰るのか。例えどこかへ行ったとしても。傷ついた時もうれしい時も、
祐巳は祥子さまの元へ帰ってきていいのか。


「はい、お姉さま・・・」

 白くぼやけていた視界が、今度は揺れるように溶けてきて、涙が溢れそうだ。
 ここは、祥子さまにとって安らげる子ども部屋で。でも、祐巳にとって祥子さまこそ心から安らげる
場所だった。

 それなら、ここに招き入れられた自分も、祥子さまにとって安らげる場所になれるのだろうか。
 誰に聞くこともできないような疑問が頭に浮かんで、切なくなって祥子さまを見上げたら、安心させ
るように静かに唇を寄せてくれた。

 シャワーの飛沫のような霧の中で、触れ合った唇はしっとり濡れていて、それなのにどこまでも暖か
くて。そんなことできるはずもないのに、祥子さまと二人この霧の中に閉じ込められてしまえば良いの
にと思ってしまった。



                           *     *     *


 瞼を閉じたまま、がんばれがんばれって自分にエールを送ったけれど、やっぱり辛くなってちょっと
だけ涙が滲んだ。目を開くとそのまま溢れてしまいそうだったから、誰に見られているわけでもないの
に祐巳はそのままでいることにした。

 昨日、祥子さまに髪を撫でられながらぼんやりと自分たちのことに思いをめぐらせていたけれど、今
日のようなことがあると、二人の周りには無数の人間がいることを改めて実感させられる。


 この世界は、たくさんの人であふれている。

 これから、一体どれくらいの人とすれ違うんだろう。

 その中で、どれだけの人とわかりあうことができるんだろう。

 そんな、普段なら考えもしないようなことを思うくらいに、それは新鮮で、だけど当たり前のことだ
った。

 そしてまた、思考の渦に巻き込まれる。

 ―――祥子さまに抱かれたとしたら、祥子さまはもっと祐巳のことを見てくれるのだろうか。

 自分の中の汚らしい感情を振り払おうとすればするほど、その気持ちは強くなっていくみたいだ。
 だけど。
 祐巳に優しく触れてくれる祥子さまを感じていると、それでいいのだろうかという考えも当然のよう
に湧いてくる。

 抱かれるということはそういう行為そのものを指していて、それ以上でも以下でもない祥子さまのま
っすぐな気持ちなのかもしれない。でも、それでいいのって、心の中で繰り返している自分がいて。祥
子さまの優しい腕に守られて、愛されて、それ以上の幸せなんてないはずなのに、それだけで良いのだ
ろうかって思ってしまう。

 祥子さまに祐巳だけを見て欲しい。例え色とりどりのきれいなアゲハ蝶たちが、祥子さまの周りに溢
れていても。

 そう強く願う気持ちと。
 祥子さまに守られて周りに溢れかえるそのきらびやかなもの全てに、祐巳だけ知らん顔をしていても
いいのだろうか。

 漠然とした不安。
 相反するようなその感情は、それでもどちらも祥子さまに対する祐巳の想いに他ならなくて。
 そんな気持ちのまま祥子さまと一緒に夜を過ごすことは、とても不誠実なことのように思えた


                           *     *     *


 祥子さまが怒っている。声を張り上げて、地団駄を踏んで。それは、紛れもなく祐巳を大切に想って
くれていることの証明だった。

 京極さまの別荘で、意地悪なことを言われたのはきっと祐巳の方で、祥子さまはそれを耳にしたに過
ぎないのに。それだけのことで祥子さまはこんなにも怒っていた。


「大丈夫ですから」

 幾分かほころんだ祥子さまの拳を祐巳は小さな手のひらで包んで囁いた。
 辛いことも、悲しいことも、祥子さまと一緒なら幸せ。言いながら、本当にその通りだと言った祐巳
自身が改めてそう思った。


「大丈夫です」

 もう一度、今度は強くそう言って、包み込んだ祥子さまの指先に囁いた唇で触れた。

「祐巳・・・」

 硬く強張っている祥子さまの指、一本一本に啄ばむようにキスをする。怒りと不安でいっぱいになっ
た心が少しでも解れるように、願いを込めて何度も何度も繰り返す。


 祥子さまを、守ってあげたい。

 祥子さまを、包んであげたい。

 霧の中願った気持ちが、その時以上に強く祐巳の心に湧き上がっていた。でも、もうあの霧の中のよ
うに、二人だけの世界でそうしていたいと願う気持ちじゃない。

 こんなに狭い別荘地でさえ、そこにいるのは祥子さまと祐巳だけではない。二人の周りには、こんな
にもたくさんの人が行き交っている。祐巳には祥子さまがいて、祥子さまには祐巳がいて。だけど、二
人だけの世界で生きていくことなんてできはしないから。

 だからこそ、祥子さまが傷ついた時も、うれしいときも、必ず帰ってこられるそんな場所になりたい。
 だから、今は優しく包んであげたい。傷ついた気持ちを癒してあげたい。
 硬直していた手がほころぶように開かれて、祐巳はその手のひらに口付けた。そのまま親指の付け根
を啄ばむ。そこまでしてから、祥子さまの緊張は解けたのだろうか気になって少しだけ目線をあげると、
祥子さまの顔が間近にあって、思わず唇をその手から離した。


「あ、えっと・・・その」

 昂ぶった気持ちのまま夢中でしていたけれど、祥子さまと目が合った瞬間に我に返ってしまった。な
んだかとっても、恥ずかしいことをしてしまったのではないだろうか。何とか弁解しようと口を開きか
けると、そのまま塞がれた。


「・・・っん・・・ぅ・・・」

 祥子さまのキスは。祐巳の昂ぶっていた気持ちに勝るとも劣らないくらいに情熱的で、乱暴に感じら
れるくらい激しいもので。耐え切れなくなって、足の力が抜けてしまう。

 このままじゃ、後ろに倒れる。
 そう思った時には既に体は傾いていて、身体に受ける衝撃を想像して身構えたら、思っていたよりも
ずっと軽くて柔らかい衝撃が背中に訪れた。


(へ?)

 祥子さまとキスしたままだったから、口がふさがっていて声に出せなかったけれど、顔はしっかり間
抜け面だったと思う。

 ここは祥子さまのお部屋で。しかも、倒れこんだ先はご丁寧にもベッドの上、だったらしい。視界の
端に真っ白なシーツが映る。


(え、え、え・・・?)

 今、どういう状況なのか。軽い衝撃に見舞われた頭では理解するまでに時間がかかる。

「ふ・・・ぅ、ん・・・」

 キスしたままで。二人ともベッドの上にいて。触れ合ったままの唇はまったく離れそうもない。

「ん・・・ゃ・・・・・・ん」

 一瞬唇が離れたかと思ったら、また噛み付くみたいにして塞がれる。祥子さまの舌がまるで征服する
みたいに、再び口の中をまさぐってきてからやっと、もしかして・・・と思い至る。


(もしかして、もしかして・・・)

『祐巳を抱くわ、きっと』

(・・・・実行中!?!?)

 確かにここは祥子さまのお部屋で、ここには祐巳から訪れたのだけれど。そんなまさか、そう否定し
ようにも、祐巳はただ祥子さまのキスになんとか応えることしかできなくて。だけど、祥子さまの柔ら
かな手が脇腹を撫で上げるようにして、薄手の白いブラウスを持ち上げていくのに気付いて、祐巳はと
うとう硬直してしまった。


 嫌だとか、したくないとか、そういうことじゃなくて。

 そんな状況考えていなかった、そう、つまりは心の準備ができていないのだ。
 あんなにいろいろ考えていたのに、唐突にこういう状態になるとさっぱりそういうことは飛んでいっ
てしまうものらしい。頭の中、真っ白だ。


「あ・・・・・・」

 祥子さまは。硬直してしまった祐巳に気付くと、びっくりしたみたいに目を見開いて。それから、弾
けるように覆いかぶさっていた身体を離した。


「あ、あの・・・」

「ごめんなさいっ」

 なんと言ったら良いものか、おろおろしながら祐巳が声をかけるのと同時に、祥子さまが同じように
おろおろしながらそう言った。


「え?あの、いえ・・・」

 確かにびっくりしたけれど、嫌だったわけじゃない。多分、あそこで祥子さまが我に返らなかったら
そのまま受け入れていた、と思う。それなのに、祥子さまは見ているこっちが居た堪れなくなるくらい、
申し訳なさそうに眉を顰めて、口元を手で覆っていた。


「・・・本当に、ごめんなさい」

 祥子さまは、もう一度消え入るような声で小さくそう言うと祐巳から顔を背けた。
 こういう時、本当ならどうするべきなのかまったくわからない。唐突にそういう行為に至った祥子さ
まを攻めるべきなのかもしれない。でも、あからさまに肩を落として、真っ赤な顔で小さくなっている
祥子さまをみたら、なんだか可愛らしくて、抱きしめてあげたくなった。


「・・・嫌じゃなかったです」

「え?」

 頭に浮かんだ言葉をそのまま口にしたら、祥子さまはまたびっくりしたように目を丸くして、はねる
ようにして振り返った。


「・・・その、驚きましたけど・・・祥子さまの気持ちが伝わってきて・・・あの、うれしかったです
・・・」


 怒った顔も、激しいキスも、全部祐巳への想いに溢れていた。それなのに嫌なことなんてあるだろうか。
 まだ不安そうな顔をしている祥子さまの背中に腕を回して、今度は祐巳から抱きしめた。そうしたら、
祥子さまへの愛しい気持ちがさっきよりももっと溢れてきて、祐巳のほうからキスをした。


「祐巳・・・」

「好きです・・・大好きです、お姉さま・・・」

 抱きしめたまま囁くと、祥子さまは安心したみたいに軽く息をついて、今度は優しく触れるだけのキ
スをくれた。


「・・・ありがとう・・・でも、今はやっぱり無理ね」

「え・・・?」

 祐巳の隣に横になった祥子さまは穏やかにそう言うと、そっと祐巳の前髪を梳いた。

「他の事を考えながら、なんて。そんなことできないわ」

 だから、やっぱりごめんなさいって続けてから、祥子さまは包み込む様に祐巳を抱きしめてくれた。
 優しく抱きしめられながら、祐巳は祥子さまの言いたいことがわかった気がした。
 きっと、今、祥子さまの心の中は、焦りや怒りや、憤りや、そんな整然としない感情でひしめいてい
る。祐巳が漠然とした気持ちのまま祥子さまと夜を共にすることに抵抗を感じたのと同じように、祥子
さまも感じているのだろう。

 それでも良かったのに、そう思いながら抱きしめた祥子さまの腰はとても細くて。小さな子どもにす
るみたいにいっぱい優しくしてあげくなった。


 結局、そのまま二人して触れ合うだけのキスをしながら、いつの間にかお昼寝をしてしまった。

 夢の中で、祐巳はマリア様のお庭を走っていた。真っ青な空の下、マリア様のお庭のはずなのにそこ
にはなぜかきれいな教会が立っていて、荘厳な鐘の音が何度も何度も鳴り響いていた。その教会をバッ
クに、真っ白なドレスを着た祥子さまの手をとって、同じく真っ白な蝶々のワンピースを着た祐巳が思
いっきり走っている。


 ああ、これってまるで花嫁を奪って逃げているみたいだ。

 それなのに、走る祐巳と祥子さまの脇にはたくさんの人がいて、追いかけてくる気配はない。笑顔で
手を振る人や、ライスシャワーを振りかけてくれる人、それからなんだか面白くなさそうな顔をした人
なんかが数え切れないくらい立っていて。逃げているはずの祐巳は、その人たちに向かって満面の笑顔
を向けるのだ。


 繋いだ手の先で、祥子さまも同じようにいっぱいの笑顔だったらいいなって思いながら。



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