涙があふれても 月曜日




 身体は休息を求めているのに、眠れない。

 その理由なんてわかりきっている。そして早く眠らないといけないことも。だけど頭はそれを拒
否しているみたいに、祐巳を眠りの国から遠ざけていた。

 時計は既に0時をまわって久しい。祐巳はベッドの中で何度目かわからない寝返りを打った。

(早く眠らなきゃ・・・だって明日には・・・)

 明日には、お姉さまが待っているのだ。正確にはもう明日ではなく今日なのだけれど。
 祥子さまと、避暑地の別荘へ行く。それも、一週間も。その日を指折り数える日々はただただ楽
しみで、早くその日が来ればいいのにと待ち遠しかったけれど、いよいよそれが現実のものになる
のかと思うと、なんだか緊張する。


 祥子さまと一緒に、何をしよう。


 祥子さまと一緒に、何処へ行こう。

 祥子さまと、何を話そう。

 できるなら、ずっとずっと笑顔でいて欲しいな。

 気がつけばそんなことばかり考えている自分がいて。言葉の通り、寝ても覚めても祥子さまのこ
とばっかりだ。そんな風に考えていると、頭の中には祥子さまの美しい微笑がしっかりと映し出さ
れたりなんかして、胸がきゅんとなって枕を抱きしめた。

 ああ、どうせなら今も隣に祥子さまがいてくれたらいいのに。そんな状況になった日には余計眠
れなさそうな気もするけれど、なんてそこまで考えてはたと思いついた。


(も、もしかして、明日には本当に祥子さまが隣で眠ってたりなんかして・・・)

 自分の妄想に訂正を入れる暇もなく祐巳は小さく「きゃ―」なんて叫んでみる。そのままごろご
ろとベッドの上で一人身悶えてから天井を見上げるけれど、生憎ここには祐巳に突っ込みを入れて
くれる由乃さんも聖さまもいないのだ。祐巳は我に返ることもなくほうっとため息をついて、眠れ
ないけど目を閉じる。

 明日には、祥子さまと一緒に過ごすたくさんの時間が待っている。お話をしたり、散歩をしたり、
できれば抱きしめてもらったり、少しだけでもキスして欲しい。その上一緒に眠れたら、どんなに
幸せなんだろう。


 早く眠らなければと目を閉じても、その瞼の裏にはめくるめく妄想、もとい想像が膨らんで、や
っぱり祐巳はそれからしばらく眠れなかったのだった。


*     *     *


 その日の夜遅くまでゲームをして盛り上がっていた祐巳たちが解散したのは、夜中の十二時半を
過ぎていた。後はお風呂に入って寝るだけなのだけれど、祐巳はどうしても素直にそうすることが
出来ない。いや、お風呂に入らずこうしていつまでも部屋の真ん中に突っ立っていたらただの不審
者なのでそんなことはしない。ただ、このまま眠りたくないのだ。


(だって・・・)

 だって、お姉さまと離れてしまうから。お部屋が別々なのだから当たり前なのだけれど、明日に
なったらまた会えるけれど、祐巳は納得できない。

 理由は一つ。
 この旅行は、祥子さまと恋人同士になっての初めてのお出かけだから。せっかく恋しい相手と旅
行に来ているのだから一時でも離れたくないって思うのは当然のことでしょう。祐巳は昨日からそ
んなことばっかり考えて夜も眠れなかったのに、祥子さまときたらいつもとまったく変わらないス
トイックな態度で。そりゃ二人きりになった途端でれでれする祥子さまなんて想像出来ないけれど、
もう少しこう、甘い雰囲気とか何とかないものなのか。お部屋のことにしたって、「一緒の部屋で
もいいのに」とそれとなくは言ったけれど、お姉さまは一人の時間を楽しみたい様子で。こんなこ
となら照れ隠しに曖昧な言い方をせず「一緒の部屋がいい」と言えばよかったのか、はたまた、祥
子さまがゆっくりと休暇が取れるようにここは退くべきかなんて思考のどつぼにはまってしまいそ
うだ。


「祐巳」

 コンコンとドアを軽く叩く音がして、祥子さまが祐巳を呼ぶ声がした。

「あ、はいっ」

 祐巳が慌ててドアに駆け寄り勢いよく扉を開けると、少し驚いた顔をした祥子さまがそこに立っ
ていた。


「そんなに慌てなくていいのよ」

「ご、ごめんなさい」

 優しく微笑みながら祥子さまはそう言って祐巳の頬に触れてくれた。お風呂上りのその手はいつ
ものひんやりとした感触じゃなくて、じんわりと暖かい。避暑地だけあって夜ともなるとここは涼
しいというよりむしろ肌寒いくらいだから、頬に触れてくれる祥子さまの手はまるで祐巳を温めて
くれているかのように感じられて、思わずうっとりと目を瞑ってしまった。祐巳の小さな手よりも
少しだけ大きくて指の長い手。いつも祐巳を安心させてくれる大好きな祥子さまの手。目を瞑った
ままその手の感触に浸っていると、先程までの釈然としない思いが一瞬だけ流されそうになる。


「祐巳、あなたもお風呂に入っていらっしゃい」

「あ、ああ・・・っ、はい・・・っ」

 いけない、いけない。祥子さまの手にメロメロになってどこか遠いところへ行ってしまうところ
だった。


「なんだか申し訳ないわ。お客さまより先にお湯に入るなんて」

「いいえっ。構いません」

 ゲームが終わった後、祥子さまは祐巳に先にお風呂へ行くように勧めてくれたけれど、眠たいの
は祥子さまも一緒だろうと思い、公平にじゃんけんで順番を決めることにしたのだ。結果は、祥子
さまの勝ちだった。まぁ、こういうものは大体言いだしっぺが負けるものと相場は決まっている。
それに祥子さまより先に入るなんて恐れ多くて落ち着かなかっただろうから結果オーライだった。


「じゃあ、ごゆっくり」

「はい、ありがとうございます!」

 祥子さまが天使の微笑でそう言うものだから、つられて良い子のお手本のようなお返事をしたの
はいいけれど、なんだかこのままでは会話が終了してしまう予感。いや、会話というより本日の祥
子さまと一緒にいられる時間自体が終了しそうだ。


「では、おやすみ祐巳」

 案の定、祥子さまはそういって祐巳の頬に「おやすみ」のキスをくれるとそのままお部屋に帰ろ
うとする。頬へのキスと、その際鼻先を掠めた祥子さまの甘い匂いに思わずポーっとなってしまっ
たけれど、このままでは本当に一週間祥子さまと別々の部屋で過ごさないといけなくなってしまう。
それは嫌だ。


「あ、待って、待ってください。お姉さま!」

 思わず乱暴とも言えるような強さで祥子さまの腕を取ると、一瞬祥子さまの身体が強張る。

「わわわ・・・ごめんなさ・・・」

 怪訝そうな表情をして祥子さまが振り返るから、自分のしてしまったことに今更ながら後悔して
掴んだ腕をそうした時と同じように、弾けるようにして放した。


「どうしたの?」

 ガウンの袖を直しながら祥子さまは訝しんだ様子で小首をかしげた。ああ、ついさっきまで滾る
思いが溢れていたのに、いざ祥子さまを目の前にすると膨らんだ風船がしぼんでいくみたいに戦意
喪失してしまう。一緒の部屋にしてください、なんてそんなお願いあまりにも恐れ多い気がしてた
まらなくなってしまった。


「祐巳?」

 でも、祥子さまの声はその表情とは裏腹にとても優しくて、怒っているんじゃないってことがわ
かって祐巳は少しだけほっとした。


「あ、あの・・・」

 その声にそっと後押しされるように、祐巳は口を開いた。

「その・・・まだ、お姉さまと・・・」

「なぁに?」

 まごつきながら逡巡している祐巳の手を握ってくれる祥子さまの手はとっても柔らかくて。いっ
そのこと声に出さなくてもこの指先から祐巳の気持ちが伝わってくれればいいのにと思ってしまう。
でも、今までの祥子さまの様子では、言わなければきっと祐巳の考えていることなんて思いもよら
ないのだろう。言いたいことがあるならきちんと言いなさいって前にも言われたことだしと、自分
で自分を無理やり納得させて祐巳は祥子さまをみつめた。


「お姉さまと、一緒にいたいです・・・その、ずっと・・・」

 祐巳が何とか搾り出すように言った声はそれでもきちんと聞こえたみたいだけれど、祥子さまは
きょとんとした顔で目を丸くしていた。


(うわわ、だ、だめ・・・?)

 祐巳の願いはそれだけなのだけれど、如何せん言葉が足りなさ過ぎたようだ。こんな唐突な言葉
では、夜眠る前にもう少しだけ甘えているだけのように思われてしまう。いや、実際そうなのだけ
れど。


「私もよ」

 ほら、やっぱり。祥子さまは、うれしそうに笑ってそう言うと祐巳を優しく抱きしめてくれた。
それはそれでうれしいのだけれど、やっぱり祐巳が今日一緒のお部屋で眠りたいと思っていること
なんて伝わっていない。きっと祐巳がおやすみ前に恋人気分で甘えているだけだと思われているに
違いない。


「あ、あの・・・そうではなくて、いえ、そうなんですが・・・」

「?」

 不可解な文法でしゃべり始めた祐巳に祥子さまはますます怪訝そうな顔をする。このままでは、
焦れた祥子さまがプチヒステリーを発動させかねない。ええい、儘よ。


「や、やっぱり私っお、お姉さまと一緒のお部屋がいいんです・・・!」

 言った。言い切った。なんだか意味不明な達成感が祐巳を包んだ。でも、そんな勢い込んだ祐巳
とは対照的に祥子さまからはつれないお言葉。


「どうして?」

 どうしてって!?意地悪しているんですか?お姉さま!?って叫びそうになってしまった。
 好きだから。だから一緒にいたい。それだけなのに、祥子さまはそう思ってはくれないのかな。
自分のわがままで祥子さまを困らせているってわかっているのに、そんな風に思いつくとなんだか
涙が零れそうだ。そんな祐巳に追い討ちを掛けるかのように祥子さまはぽつりと呟いた。


「・・・だめよ」

「・・・・・・っ」

 その冷たい言葉に溢れそうになっていた涙が一瞬だけ引っ込んで、すぐに一粒零れてしまった。

「ご、ごめんなさ・・・い」

 それだけ言うのがやっとだった。一粒零れた涙が二粒になり、そのままぽろぽろと溢れ出てきて
しまったから。

 わがままを言って困らせて、祥子さまにここまで言わせてしまうなんて。そう思うと情けなくな
って涙が止まりそうになかった。


「あの・・・お風呂、いってきます・・・わがまま言ってごめんなさいお姉さま・・・」

 泣き顔をこれ以上祥子さまに見せているわけにはいかないから、祐巳はごしごしと顔をこすると
祥子さまから離れようとした。でも。


「違うの、祐巳」

 強く腕を掴まれたと思ったら、次の瞬間祐巳は祥子さまの腕の中に抱き寄せられていた。

「お姉さま・・・?」

 突き放すような言葉とはまったく逆の優しい抱擁にますます祐巳は混乱した。祐巳は祥子さまが
好きで、だからずっと一緒にいたくて。でも、祥子さまは一緒のお部屋はだめだと言う。だけど、
抱きしめてくれる祥子さまの腕は祐巳への愛情に溢れていて。


「わがままとか、祐巳と一緒にいるのが嫌だとかそういうことではないの・・・」

 少しだけ焦っている様な上擦った声。見上げると祥子さまは確かに怒っていたり不快な表情では
なく、困ったような切ないような顔をしていた。どうして祥子さまがそんな表情をしているのか祐
巳にはまったくわからなくて、涙に濡れた頬をそのままに小首を傾げると祥子さまは小さくため息
をついた。


「私はね、石やら鉄やらで出来ているわけではないのよ」

「?」

 困ったような表情から、今度は唇を少し尖らせて拗ねたような表情で祥子さまが唐突にそんなこ
とを言った。


(えっと・・・?)

 確か先程までは一緒の部屋にするかどうかについて話をしていたはずなのに、祥子さまの話はま
ったく別のところへと飛んでいきそうなくらい要領を得ない。今度は祐巳が怪訝な表情を浮かべる
羽目になってしまった。


「・・・祐巳、私と一緒の部屋で寝るってどういう意味で言っているの?」

「?・・・えっと、その・・・一緒に、お姉さまと少しでも長く一緒にいたいから・・・です、け
ど・・・」


 どういう意味と言われても、ただ一緒にいたいだけなわけで。眠っていても側に祥子さまがいる
と思うだけで安心できるから、だから一緒のお部屋にしたいのだ。他に意味も理由もない。だけど、
祥子さまは祐巳のその言葉を聞くと眉を一層顰めてもう一度、今度は盛大にため息をついた。


「・・・だから、一緒の部屋ではだめだといっているのよ・・・」

「え?え?あの・・・?」

 もう、本当によくわからない。どんなにがんばって考えても平均点の祐巳の頭では祥子さまの考
えていることなんて断片的な言葉だけでは理解できない。そんな風に祐巳が目を回しかけたところ
で、何を思ったのか祥子さまが突然、祐巳の唇を塞いだ。


「!?」

 軽く触れてすぐに離れた唇は、すぐにまたきつく押し付けられた。噛み付くような乱暴なキスに
身体が強張る。唇と唇を触れ合わせるだけじゃないキスをするのは初めてではなかったけれど、こ
んなに前触れもなくされるのは初めてだった。


「・・・・・・・・・っ」

 長いながい口付けの後、祐巳をみつめた祥子さまの顔は今までに見た事もないような表情をして
いた。怒っているみたいに真剣な視線と涙が零れ落ちそうなくらいに潤んだ瞳。先程まで触れ合っ
ていた唇がうっすらと濡れていて、そこから漏れる吐息が熱くて、言いようがないくらいにどきど
きしてしまう。


「私、好きな人と一緒にいて澄ましていられる位に強くはないの」

「・・・あの・・・」

「祐巳の隣りで横になって、自分を抑えられる自信がないわ」

 そこまで言われて、やっと、本当にやっと祥子さまの言いたいことがわかった。わかってしまう
と急激に頭に血が上って、心臓が早鐘を打つ。

 頬が熱い。
 祥子さまは、祐巳と一緒にいるのが嫌なのではない、むしろその逆で。祐巳が漠然と一緒にいた
いと思っているよりももっと強く祐巳を求めている。だから、何も考えずに甘えてくる祐巳を突っ
ぱねたのだ。きっと。


「だから、祐巳が一緒の部屋にするというのならいつでも来たらいいわ・・・でも・・・」

 気まずい沈黙に俯いた祐巳をやんわりと抱きしめ直すと、祥子さまはまるでキスするみたいに祐
巳の耳に唇を近づけて囁いた。


「その時は、祐巳を抱くわ。きっと」



 

Tuesday

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