涙があふれても 金曜日




「西園寺さまの別荘に、お供いたします」

 祐巳が告げると、祥子さまはすごく真剣な顔をして小さく頷いた。
 由乃さんの言う通り、みすみす罠にかかりにいく必要なんてない。でも、祥子さまはもちろん、祐巳
にだってやましいことなんて何もない。だったら堂々としていたらいい。

 祥子さまと一緒になら、祐巳はどこへだって行ける。迷いなんてなかった。
 不意に祥子さまが窓辺を見た。茜色に染まった空が広間の大きな窓に映って、真っ赤な夕日が部屋中
を照らしていた。夕焼け色の日差しに照らし出された祥子さまの横顔は壮絶に美しく、静かで。それな
のに赤く透けるその姿には、闘志がみなぎっているみたいだった。


 祥子さまは今、何を思っているのだろう。

 眩しい赤に目を細めながら、視線を祥子さまから窓の外へ移すと、茜色に飲み込まれそうな細い青色
の空が小さく見えた。

 もう一度、祥子さまに視線を戻すと、やっぱり祥子さまは静かに空を眺めていて。美しいお顔はつい
数瞬前と変わらないのに、祥子さままで茜色に飲み込まれてしまいそうな位儚く見えた。


「お姉さま」

 なんだか切なくなって、祐巳は窓辺をみつめる祥子さまの腕に寄り添った。

「大丈夫よ・・・怖くなんてないわ。祐巳は私が守るから」

 本当は、不安に押しつぶされて泣きそうなのは祥子さまの方かも知れないのに。祥子さまの声は震え
てなんかいなかった。

 まっすぐに前をみつめている祥子さまの瞳はどこまでも澄んでいて。
 祐巳も、祥子さまのこの瞳に涙が溢れることがないように守ってあげたいと、祈るような気持ちでそ
の腕を抱きしめた。



                             *     *     *


 夕食の後、祥子さまはいつものように読書をするのかと思いきや、本棚の前でどの本を選ぼうかと悩
んでいる祐巳の背後に歩み寄ると、当たり前のように抱きしめてきた。


「お、お姉さま!?」

 じゃれるように抱きしめてくるから、なんだか聖さまにおもちゃにされていた頃を思い出した。

「?」

 祥子さまは。祐巳のおなかの辺りで手を組むと、そのままワルツを踊るみたいに祐巳を抱きしめたま
ま小さくゆっくりと揺れる。なんだか揺りかごに揺られているみたいだ。


「・・・祐巳が好き」

「!」

 唐突な、本当に突然の祥子さまの告白に囁かれた耳元からさあっと頬まで赤く染まっていくのがわかる。

「な・・・な・・・」

「大好きなの」

 祐巳の耳たぶに唇を触れさせながら、祥子さまはもう一度囁いた。そのまま祐巳の後れ毛を唇で挟ん
で耳にかける。


(うわわわわ!?)

 もしかして別荘についてから初じゃないだろうかという位の、祥子さまの熱烈な愛情表現に心臓がど
きどきどころかはち切れて壊れそうなくらいに激しく早鐘を打つ。だけど、祥子さまはそれ以上のこと
はしてこない、ただ優しく祐巳を抱きしめて、祐巳の体温を確かめるみたいに首筋に頬擦りした。


(・・・・・・もしかして、祥子さま・・・甘えてる?)

 姉妹になってからはもちろん、恋人同士になってからだって、祥子さまがこんな風に祐巳に甘えてく
れることなんて滅多にない。滅多にないからこそ貴重な時間なのに、どきどきするばっかりで何も考え
られなくなる。


『祐巳を抱くわ、きっと』

 頭の中で、祥子さまの言葉がリフレインされる。それに連鎖反応するみたいに、祐巳の中でいつもの
感情が浮かび上がろうとする。


―――祥子さまに抱かれたとしたら、・・・・・・

 いつもなら、その後に続く言葉は一つなのに、なぜだか今日はそこで詰まった。

「・・・祐巳は何も言ってくれないの?」

「へ?」

 不満そうな声が聞こえて横を向いたら、思いっきり拗ねた表情の祥子さまの顔が間近にあった。

「えっと・・・」

 可愛い。とりあえず、今のこの状況なんか脇に置いておいても問題にならないくらい可愛い。いや、
脇に置いたりしたらだめなんだけど。


「祐巳は、同じようには思ってくれてないのね」

「そ、そんなことないです!」

 顔と同じように拗ねた声でそう言う祥子さまに、もう条件反射のように否定する。こんなにどきどき
して、真っ赤になっているって自分でもわかるくらいに顔が熱いのに。祐巳が祥子さまを好きなことな
んて誰が見たってわかるはずだ。


 でも、ちょっと意外だった。祥子さまでもそういうこと思うんだって。
 普段はほったらかしとまではいかなくても、祥子さまはそういうことを口にしたり態度に出したりし
ないのに。ああでも、時々すごくわかりやすいくらいに妬きもちを妬いてくれることもあるか。


「じゃあ、きちんと言って頂戴」

「え?」

 思わず緩みそうになった頬を押さえていたら、相変わらずちょっとだけ眉を顰めたままの祥子さまが
せがむようにそう言った。


「・・・嫌?」

 さっきまで怒ったような顔だったのに、今度はなんだか悲しそうな顔。思いっきり頭を振って否定し
ながら、やっぱり頬が緩みそうになる。祥子さまに悲しそうな顔をさせておいて、なんだかうれしいだ
なんて。なんて罰当たりなんだ。だけど、それ以上不謹慎なことを考えていられなくなってしまった。
気がついたら、祥子さまがもともと近くにあった顔を更に近づけてみつめてきたからだ。


「好き、です」

 至近距離でみつめられて、片言の日本語を話す外国人みたいになってしまった。なんで祥子さまみた
いに自然に甘く囁けないんだろう。だけど、祥子さまはその言葉を聴くと、華がほころぶみたいに満面
の笑みを浮かべてぎゅっと祐巳を抱きしめた。それなのに。


「・・・聞こえない」

「な!?」

 嘘!絶対今のは嘘だ。あんな反応をしておいて聞こえなかっただなんて。

「う、う・・・」

(お姉さまの嘘つき!)

 そう抗議しようにも、祥子さまの美しい顔が間近に迫っていて、きれいな瞳が期待しているみたいに
祐巳を覗き込むから。


「・・・・・・すき」

 『嘘つき』って言うつもりだったのに、口が勝手にそう動く。

「・・・大好き、お姉さま・・・」

 きっと、全然別の言葉を言ったとしても「好き」って言っている以外には聞こえないような自分の声
を聞きながら、唇が柔らかく塞がれるのを感じた。


「・・・ん・・・」

 後ろから抱きすくめられながらするキスは、祐巳のほうから祥子さまを抱きしめられないことがとっ
てももどかしくて。抱きしめ返す代わりに祥子さまの手を両手でぎゅっと握る。


「・・・それなら、私は何も怖くないわ」

 キスの余韻でくったりと背中をその胸に預けていたら、祥子さまが不意にそう呟いた。
 その声を聞きながら、やっぱり甘えてくれていたのかなって思った。

 きっと、祥子さまは今、闘っているんだ。
 不安や焦りや、憤りと。

 だけど、大切な人がいるだけで強くなれるから。迷っても、悩んでも、自分を見ていてくれる人がい
るだけで何度でも立ち上がることができる。

 抱きしめられながら、祥子さまにとって自分は今そういう存在なんだって自惚れてもいい気がした。
 祐巳も、祥子さまがいるだけで、いつもの何十倍も強くなれるのだから。例え打ちのめされたって、
何度でも立ち直れるのだ、絶対に。

 そう思いながらふと祐巳に元気をくれる祥子さまのキスを思い出して。祐巳のほうから目の前の祥子
さまの耳にキスをしたら、祥子さまは弾けるように顔を上げて、なぜかつんと横を向いた。

 口付けられた祥子さまの耳は真っ赤になっていて。それを隠すみたいに祐巳の肩口に押し付けながら、
祥子さまは小さく「ばか」と呟いた。


―――祥子さまに抱かれたとしたら、何か変わってしまうのかな

 変わってしまったのは自分の心の呟きだと、気づかないまま祐巳はぼんやりとそう思ったのだった。



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