涙があふれても 日曜日2




 扉を開けて祐巳がそこに立っていることを確認した祥子さまは一瞬目を見開いて、次に泣きそうな顔
をした。それからその顔を隠すように横に向けたけれど、すぐにまた祐巳に向き直って、やっぱり堪え
きれなくなったみたいに一筋涙を流してから微笑んだ。


 昼の庭でみつめあった時から、祐巳の心は決まっていた。
 祥子さまと一緒に夜を過ごそうって、そうしたいと心から思った。
 そう決めたのに、いや、決めたからこそなのかもしれないけれど、お昼から祐巳はまともに祥子さま
の顔が見られなくて、一日の大半を高鳴る胸を押さえながら過ごしたのだ。

 だから、扉をノックしてから祥子さまが出てきてくれるまでの数秒間がまるで永遠に続く沈黙のよう
に感じた。


『ここで待っていて』

 触れ合った唇と舌がどちらのものなのかわからなくなる位の、いっぱいのキスの後、祥子さまはそう
言って部屋を後にした。きっとお風呂に行っているんだろう、なんて祐巳は考えなくてもわかりきって
いることを思いながら、腰掛けたベッドのシーツを指先で弄くった。

 だって、そうでもして気を紛らわせなければ、悶えてしまいそうだ。そうでなければ意味なく叫びだ
すか。どちらにしても平静を保っていられない。そわそわと。そう、そわそわと。そう言い表す以外に
ない位、祐巳は落ち着かない気持ちでいっぱいになっていた。


 これから祥子さまとしようとしていることは、きっと特別なことじゃなくて。

 大好きな人と過ごす、幸せな時間のはずで。

 それなのに、ぜんぜん平気なんかじゃない。

 昼の庭で祥子さまが欲しいって、祐巳の全部をあげたいって強く願った気持ちに、一片の偽りもない。
だけど、大好きな人に自分の全部を明け渡すことは、祐巳をまるで何も身に着けずに戦場へ赴くような
心許ない気持ちにさせる。祥子さまは祐巳を傷つけたり、嫌がるようなことは絶対にしないってわかっ
ているのに。誰かの、ううん例え大好きな人の前であってもそんな無防備な状態を曝すなんて、考える
だけで怖い。


 怖い、とても。

 無防備な自分も、それからその先に待っている何かも。何もかも。
 祥子さまを抱きしめたい、キスしたい、もっと強く抱き合いたい。そう激しく昂ぶる祥子さまを求め
る気持ちは祐巳の中でどんどん膨れ上がって、今にも弾けてしまいそうなのに。いざ、そんな状況にな
った途端、こんなにもうろたえてしまう。

 怖いことなんて何もないのに、祥子さまにされて嫌なことなんて何もないはずなのに、怖いなんて思
っている自分が信じられない。そしてそれを祥子さまに知られてしまうことは、とてつもなく失礼なこ
とのような気がした。

 ぐるぐるぐるぐる。たたみ掛ける様な焦燥感と、それを打ち消そうとする気持ちが際限なく繰り返さ
れて、鈍痛が胸から全身へと広がっていくみたいだ。そうやって解れては絡まる思考の中で立ちすくむ
ように考え込んでいると、突然、音もなく扉が開いた。だからかもしれない、扉の向こうから祥子さま
がゆっくりとこちらへ向かってくるのに、気がつくまでにしばらく時間がかかったのは。


「祐巳」

 ぼんやりと向けた視線の先には祥子さまが映っていて。徐々に大きくなってくる姿がまるでスローモ
ーションのように見えた。


「待たせてごめんなさい」

 気がついたら祥子さまは祐巳の目の前にいて、小さなその声がそれでも静かな部屋にやけに響いて聞
こえてからやっと、祐巳は我に返った。


「え・・・あ・・・」

 視界の真ん中に、今度ははっきりと祥子さまのきれいな瞳が映った。微笑んでいたり、怒っていたり、
泣いていたり、慰めてくれていたり。いつも祐巳に語りかけてくれる瞳は、いつもと同じようにきれい
で、それなのに静かで、少しだけ切なく潤んでいて。閉じられていく睫をみつめながら、涙が零れてし
まうんじゃないだろうかと思った。

 唇が触れ合うだけの一瞬のキスの後、瞼を上げた祥子さまの瞳はやっぱり涙が溢れてしまいそうなく
らいに潤んでいた。


「・・・おねえさま・・・」

 何か言わないとまたあの思考の糸に絡めとられてしまいそうで、すがるように祥子さまを呼ぶ。それ
なのに耳に聞こえてくる上擦った自分の声が、自分のものではないみたいに聞こえて、余計に早鐘が強
くなってしまう。

 祥子さまは。指先で祐巳の頬に触れて、ゆっくりゆっくり撫で下ろしていく。まるで大切なガラス細
工に触れるみたいに優しく緩やかな動きなのに、それだけで胸の締め付けがきつくなる。頬から唇へ、
おとがいを伝って、首筋に。そこまできてから、指先は離されて、次に手のひらが静かに肩に置かれた。

 祐巳の肩に手を置いたまま、祥子さまは祐巳の隣に腰掛けた。

 祥子さまは無言のままで。祐巳は固まったままで。

 肩に置かれた手が背中に回されるのを感じながら、視界が腕から肩へ、それから胸に移る。鼻先にふ
んわりとシャンプーの匂いや、ボディソープの匂い、それから祥子さまの匂いがして、全身に柔らかい
温もりが広がって、抱きしめられているのだとわかった。


「祐巳」

 耳にかかる声とともに吐き出されたため息は。昼の庭でみつめあった時と同じくらいに長くて、深く
て、少しだけ震えていて。まるで一小節のビブラートみたいだと思った。

 ため息のあと、祥子さままで固まったみたいに祐巳を抱きしめたままで、それでも自分を抱きしめる
腕の強さを思うと、どれだけ祥子さまが祐巳を求めているのか痛いくらいに知らしめられる。


 祥子さま、祥子さま、祥子さま。

 祐巳はもうまるで呪文みたいに、祥子さまの名前だけを頭の中で唱え続けるしかなくて、二人して、
ずっと固まっていたってどうしようもないのに、このまま時間が止まってしまったらいいのにとさえ思
った。

 そうやって抱き合ったままどれくらいの時間がたったのか、祥子さまがポツリと呟いた。

「・・・・・・だから」

「え?」

「・・・はじめて、だから・・・だから・・・」

 震えた声に顔を上げると、祥子さまは続けて蚊の鳴くような声で搾り出すようにそう言った。
 声と同じように祥子さまの睫も震えていて、切なそうに潤んだ目元は少しだけ滲んでいて、薄暗い部
屋の中なのにその顔が耳まで赤く染まっているのに今初めて気がついた。


「お姉さま・・・」

 祥子さまのそんな様子を見て、本当はそんな場合じゃないかもしれないのに、この部屋にきてから初
めてほっと息をつくことができた。


 そのまま、全身の力が抜けた。

 怖い、とても。

 それを祥子さまに気づかれるのは、もっと怖い。

 そう思っていたのに。抗えない激情への不安に苛まれていたのは自分だけじゃないんだって、祥子さ
まも同じなんだって、そう思ったらさっきまでの怖さが幾分か薄れた。

 西園寺さまのお家から怒って帰ってきた時、祥子さまは激情に突き動かされるみたいに祐巳に触れて
きたけれど。あれはやっぱり怒りや、焦りの感情の方が強かったのだろうか。

 だって、大切な人を目の前にして、その人の目だけをまっすぐにみつめた途端、こんなにも人は弱く
なる。愛しい人を大切にしたくて、こんなにも臆病になる。


「・・・大丈夫、です」

 本当は、ちっとも大丈夫じゃないけれど。
 だけどそんな不安を打ち消すくらいに、祥子さまを愛しいと思う気持ちが溢れてくる。
 さっきまで緊張と狼狽でどきどきしていた胸が、そんなことなんて忘れてしまったみたいに祥子さま
にどきどきしている。


 祥子さまが好きだ。

 心の中にはもうそれしかない。
 自分の目の前にいる愛しい人を、この胸に溢れるいっぱいの優しい気持ちで包んであげたい。不安と
か、切なさとか、大好きって言う気持ちとか、祥子さまの気持ちの全部を受け止めたい。

 きっとそれは、祥子さまとじゃなきゃできない。祥子さまとしかしたくない。

「本当に?」

 祐巳の世界で一番愛しい人は、祐巳の目の前で未だに不安そうな顔をしていて。その表情は、口に出
して説明しなくてもわかるくらいに、祐巳のことをどれだけ大切に思ってくれているのかを教えてくれる。


「はい・・・それに」

 自分をみつめてくれる祥子さまを同じようにみつめかえしながら、漠然とした気持ちが確信へと変わ
っていくのを感じる。


 祐巳も、祥子さまが大好きだから。

 その気持ちを伝える言葉を、頭の中で必死に選んで、考えて、やっぱりまとまらなくて。でも、知ら
ん顔なんてしたくなかったから。祐巳は、祥子さまがはじめの夜に言ってくれた言葉への疑問を素直に
口にすることにした。


「抱くとか、抱かれるとかじゃなくて・・・」

 祥子さまがそう言ってくれた時、びっくりして、それから恥ずかしくて固まってしまったけれど、う
れしかった。


 だけど、性の悦びを分かち合うってことを言葉にしたら確かにその通りなのかもしれないけれど。

 でも、祐巳も祥子さまも女の子だから。

 祥子さまに愛されるだけじゃなくて。

 祐巳が守られるだけじゃなくて。

 胸に溢れる大好きなお互いへの気持ちの全部を分かち合いたいから、そうじゃないんだって言葉にし
てから、今はっきりとわかった。


「私・・・お姉さまと、愛し合いたい」

 触れ合って、愛し合って、心も身体も祥子さまでいっぱいにしたい。祥子さまにも祐巳をいっぱい感
じて欲しい。強く強くそう願いながら、縋るようにもう一度はっきりと祥子さまをみつめると、その表
情から、みるみる不安の色が消えていくのがわかった。


 まっすぐに祐巳をみつめてくれる祥子さまの顔は。
 いつもと同じようにきれいで、澄み切っていて。祐巳の大好きな祥子さまの顔だった。

「・・・ありがとう」

 昂ぶる感情は沸騰しそうなほどに熱いのに、みつめあって交わしたキスはどこまでも穏やかで優しく
て微笑に溢れていた。




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