涙があふれても 日曜日1




 祥子さまはその日もいつもと同じように、一度声をかけたくらいでは起きてくれなくて、祐巳が無理
矢理毛布を引き剥がすという強硬手段にでるとようやく、渋々といった感じで支度を始めた。それなの
に、やっとという感じで二人が席に着くと出来立てのご飯が運ばれてきて、さすが祥子さまと18年の
付き合いをされているだけはあるなぁと、いつものようにキヨさんを尊敬のまなざしでみつめたりした。


 朝食後、洗面を終えて広間へ戻ると、正面の大きな窓が開け放たれてレースのカーテンがふわふわと
揺れていた。


「お姉さま?」

 キヨさんは台所でお菓子を作っていて、源助さんはご近所に買い物へ行っているからテラスで何かし
ているとしたらそれはお姉さま以外にはいなかった。


「ああ、祐巳」

 それほど大きくない呼びかけだったけれど祥子さまには届いていたらしく、レースの向こう側から、
なんだか楽しそうな表情の祥子さまが現れた。


「こっちへいらっしゃい」

 手招きをされて窓辺に近寄り覗き込むと、やわらかい風合いの大きなシートがテラス一面に敷かれて
いた。


「これは?」

「風も気持ちいいし、そんなに暑くもないから。今日はごろごろして過ごすんでしょう?」

「はいっ」

 うれしい。祥子さま、ちゃんと覚えていてくれたんだ。もちろん昨日のことだから当たり前かもしれ
ないけれど、お姉さまとお昼寝したいと言った祐巳に「それは素敵なことね」と返してくれた祥子さま
の言葉が心からのものだったんだって思うとそれだけで幸せな気持ちになれる。

 祥子さまは昨日までと同じように自分の読みたい本を何冊か書棚から持ってきて、木陰を選んでころ
んと寝転がった。祐巳がすぐ傍に腰を下ろすと、手を伸ばして祐巳の膝に触れてから、同じ場所に頬を
摺り寄せる。

 祥子さまは。
 時折本を読みながら片手で祐巳の手を握ったり、読みかけのページを開いたまま胸の上において祐巳
の腕に額をちょこんと乗せて、祐巳が傍にいるのを確認するとまた自分の世界へ戻っていく。それはこ
の別荘へきてからの日常の風景だったけれど、祐巳はもうそれを寂しいなんて思わなかった。

 この場所は祥子さまにとって心安らぐ子ども部屋で、そこに招きいれられた自分もきっとお姉さまの
心安らぐ場所なのだろうと自惚れてもいいって思えるようになっていたから。

 祥子さまの眼差しや、その腕はいつだって仲間や、友人や、そして未来へ向かってまっすぐと伸ばさ
れていて、でもその片手はしっかりと祐巳を抱きしめてくれているから。だったら自分は、いつだって
祥子さまの傍に寄り添っていよう。祥子さまが不安や戸惑いに揺れている時、そっとその手を握りしめ
られる位に、喜びや温もりに満たされている時、一緒に笑い合える位に、一番近くに立っていようって
心から思った。


 だから、何もせず、ただ大切な人と一緒に過ごす時間がこんなにも愛しいものだって祐巳に教えてく
れたのは、間違いなく祥子さまだった。



                           *     *     *


「お嬢さま方、お留守番をお願いしてもよろしいでしょうか?」

 手作りのコーヒーゼリーを二人しておいしくいただき終わったところで、キヨさんは二人に申し訳な
さそうにそう尋ねてきた。


「昼食にはパンケーキを召し上がっていただこうと思っていたのに、蜂蜜を切らしてしまって・・・」

 そんなに落ち込まなくてもと言いたくなる位にキヨさんは残念そうにそう漏らした。祥子さまの別荘
にお邪魔している身の祐巳としてはそれに文句を言う筋合いではないし、何よりキヨさんの作ってくれ
るご飯はとってもおいしくて。蜂蜜が足りないくらいまったく気にならないのだけれど。


「構わないわ、留守番くらい。お買い物だけではなく、少し気分転換に散歩でもしてきたらいいわ」

 この一週間働き詰めだものねと付け加えて祥子さまは微笑んだ。確かに。小笠原家の人々が滞在して
いない間はどんなお仕事をされているのかはわからないけれど、キヨさんや源助さんは毎日祐巳たちに
とても良くしてくださっていて、その細かい心配りはさすがプロとしか言いようのないほどなのだ。だ
けどやっぱりそれでは神経の疲労の度合いもいつもとは違うはずで、できる時にはゆっくりしてほしい。
もちろんお買い物だってお仕事だけれど、高校生にもなればお留守番くらいはできるから。


「では、お言葉に甘えて」

 正午前までには戻ってきますねと言い残して、キヨさんは別荘を後にした。白い麦藁帽子を被り、レ
トロなデザインの日傘をさして。ちょっと弓子さんが持っていたものと似ているなって思いながら祐巳
はその後姿を見送った。


「お姉さま、これからどうしましょうか?」

 太陽がだんだんと高くなってきて、日差しもそれなりに強くなってきていたけれど、背の高い木々に
囲まれたお庭はちょうど良いくらいの気温で、いつまでもごろごろしていたくなる。


「あら、今日は何もしないんでしょう?だったら、ごろごろの続きをしましょう?」

 祐巳の気持ちを見透かしたみたいな言葉に一も二もなく頷くと、祥子さまは腰掛けていた窓辺から立
ち上がり先ほどまで寝そべっていた場所へ戻ると、再度横になった。


「それに、なんだか眠くなったみたい」

 お腹がいっぱいになったからかしらねと呟きながら小さくあくびをする姿はなんだか子猫みたいだ。

「でしたら、お休みになってください」

 祐巳も先ほどと同じように祥子さまの傍らへ戻り腰を下ろした。

「その間、祐巳は何をするの?」

 祐巳の膝をからかうように指先でなでながら、祥子さまは首をかしげた。

「特に何もないですけど・・・それも楽しいですよ、きっと」

 祥子さまを眺めながらただ穏やかに過ごすのだ。幸せな時間の予感に胸が温かくなる。

「そう?」

 言いながら、本当に眠たいのか祥子さまの瞼はゆっくりと閉じていく。

「お姉さま、よかったらこちらでお休みになってください」

 最後の方はなんだか声が裏返ってしまったけれど、祐巳はそう言って自分の膝の上をはたいてみせた。
どうせなら、一番近くで眺めていたいもの。


「いいの?」

 祥子さまは先ほどまでの眠たそうな様子からは一転して、目を輝かせた。

(わわ、可愛い・・・)

 そんなに喜ばれるほど大層な寝心地ではないと思うけれど、祥子さまがうれしそうに頬を擦り寄せて
きたから、これでよかったのかなと納得する。

 祥子さまは祐巳の膝の上に頭を乗せると、祐巳のお腹の方へ顔を向けて柔らかく手足を曲げて赤ちゃ
んみたいにくの字の格好になった。そういえば朝起こす時もいつもこの格好だなと思い出して、思わず
目を細めてしまう。


「祐巳」

 目を閉じたまま祥子さまは確認するみたいに祐巳の名前を呼ぶ。だから祐巳は答える代わりに、そっ
と祥子さまの緑の黒髪を撫でた。さらさらとすべる感覚が気持ちよくて、確かめるようにゆっくり、何
度も撫でる。祥子さまもよくこんな風に祐巳の髪を撫でてくれる。優しく撫でられるとうれしくて気持
ちよくって、ついうっとりと目を閉じてしまっていたけれど、こうやって祥子さまの髪を撫でるのも気
持ち良い。そうすることで暖かい気持ちが募っていくようだった。

 祥子さまは祐巳に髪の毛を撫でられると、少しだけ目を開いてくすぐったそうに肩をすくめたけれど
すぐに気持ちよさそうにまた目を瞑って祐巳のお腹に鼻先を擦りつけた。小さな子どもみたいな仕草に、
胸に募った愛しさが溢れ出るみたいに泣きたくなった。


 祥子さまが愛おしい。

 指先で額を撫でてから、ゆっくりと頬を伝い、唇に触れさせると祐巳の中で大きく一度、抗いきれな
いような感情の波が立ち起こって。不安や焦りや、嫉妬や羨望すらその波に飲み込まれて、すべてが引
いた後にはその気持ちしか残らなかった。


 だから、これはきっと理屈じゃない。

 祥子さまとの絆を確かめるとか、他の人とは違うという証がほしいだとか。そんな気持ち、もう心の
どこにも見つけられない。


 ただただ、祥子さまの全部が欲しい。

 何もかも、祐巳の全部を祥子さまにあげたい。

 喜びも痛みも、優しさも切なさも、湧き上がる感情のその全てを、愛しい人と分かち合えたなら、そ
れはどんなに幸福なことなのだろう。


「お姉さま・・・」

 囁いてからそっと唇を寄せると、祥子さまも頭を少し上げて応えてくれた。水中に差し込み揺れる光
のような木漏れ日が、祥子さまの頬に、唇に、鼻先に零れ落ちる。触れさせては離れていく唇の感触に、
呼吸が乱れるように感じて目を閉じたけれど、風に揺られる枝葉のざわめきが瞼の裏の、光の残像を一
層濃くして、早鐘を打ち始めた鼓動に拍車をかけた。
 深くて長い口付けの後、みつめあった祥子さまの瞳には、ほとばしる激情の焔がうねりを上げながら
渦巻いているみたいに見えて。きっと、自分も同じ光を湛えているのだろうと思うと、胸が激しくかき
乱された。


 鼻先が触れ合うくらいに近くみつめあいながら、どちらともなく零したため息はどこまでも深く、眩
暈がするくらいに甘かった。




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