恋におちたら 8




「はい、おかわりどうぞ・・・緑茶だけど」

「ありがとう」

 令からカップを受け取ると、祥子はすぐに口をつけた。無性に喉が渇いて仕方がなかっ
たのだ。


 由乃ちゃんが帰った後の薔薇の館には、先程までの静寂が戻っていた。由乃ちゃんは最
上級生相手であろうが関係なく、言いたいことを言って、したいようにする。先程もいき
なり祥子に噛み付いてきたかと思えば、急に冷静さを取り戻したかのように「用事を思い
出しました」等と言って、その前までの自分の言動など忘れたかのような涼しい顔をして、
薔薇の館を後にしたのだった。それも言ってみればいつものことで、相手が令ではなく祥
子だったに過ぎない。何よりも、由乃ちゃんのそういうところは嫌いではなかった。


 ただ、今日の由乃ちゃんの発言は、少しばかり胸に突き刺さった。罵詈雑言なら適当に
流してしまえば問題はないが、的確に核心をつかれたことに少なからず動揺してしまった。


「・・・祥子はさ」

 テーブルの角を挟む形で向かい合った令が、ぽつりと呟いた。

「祐巳ちゃんが好きなんだね」

 唐突な言葉に驚いて視線を上げると、令が静かな表情でこちらをみつめていた。

「妹としてじゃなく、祐巳ちゃんが好きなんだね」

 視線を逸らさずに、まっすぐに投げかけられた言葉は、きれいに決まった面のようだっ
た。


「どうして・・・」

 どうして知っているのか、なんて言うつもりはない。ただ、言葉が出てこない。

「違うの?」

 それなのに、令は沈黙を許してはくれなかった。

「それとも、自分が結婚するまでの、使い捨ての代用品?」

「違うわ!」

 辛辣な言葉に、椅子を蹴り上げるようにして立ち上がったけれど。
 ああ、その通りだと、胸の中で呟く自分が確かにいて。何も言い返せなかった。

「・・・いいえ、違わないわ・・・もう、妹としてだけなんて見られないのに・・・欺い
て、代用品にしようとしているわ」


 それだけ言い切ると、一度は立ち上がった椅子に再び、祥子は力なく座り込んだ。

 祐巳が好き。誰よりも。

 もうその気持ちを、隠すことも、消し去ることもできないのに。抱きしめようとするた
びに、自分へのどうしようもない嫌悪がこみ上げて、身動きが取れなくなる。

 ため息を吐き出した口元へ手を遣ると、暑苦しいくらいに手のひらが汗ばんでいるのが
わかったけれど。伺った視線の先、辛辣な言葉とは裏腹に、慈悲深い表情を浮かべた令が
じっと祥子の言葉を待っているのがわかって、黙り込むことは許されない気がした。


「祐巳のことを、抱きしめたいと思えば思うほど・・・」

 目の奥が熱くなっていく気がして、口元にあった指先を目元に押し当てると、本当に涙
が溢れてしまいそうだ。


「祐巳とお母さまが重なるわ」

 『やっぱり二人きりだと寂しいわね』

 そう言ったお母さまの顔には、いつもと変わらず微笑が零されていたけれど。

「そうして気付くの、私は祐巳にも優さんにも、父や祖父と同じことをしようとしている
のだと」


 祐巳が好き、そう心に浮かぶたびに。思い出すのはいつだって、あの梅雨の日に自分を
抱きしめてくれた祐巳の温もりと眩いばかりの笑顔。


 その笑顔を曇らせてまで、気持ちを押し付けるなんてできない。

 優しい温もりに、ただ甘えるだけなんて、できるわけがない。

 愛して欲しいなんて言えない。

「だから、私は・・・、例え祐巳と私の気持ちが別物だとしても・・・祐巳に対しては誠
実でなければならないのよ・・・」


 それは、令への説明というよりは、自分自身のための懺悔のようだったけれど。言い終
わった後に見上げた令は、苦笑いのような、だけど優しい微笑を浮かべて、やっぱりこち
らをみつめてくれていた。


「じゃあ、今回ばかりは由乃の暴走も、間違いじゃなかったのかもね」

「え?」

「あなた優等生のくせに、下手くそね。大切な人を大切にすることが」

 悪戯っぽく笑いながら、令が言う。

「今あなたが言ったことは、あなた自身の問題だもの。肝心の祐巳ちゃんとどうしたいか
って言うのがまるっきりない」


 柔らかい声は、それでも圧倒的な強さで祥子の胸を突き抜けた。

 どうしたいのか?

 祐巳と、二人でどうしたいのか。

 みつめた先の令の眼差しは、優しくて、厳しくて。無意識のうちに「資格がない」こと
を言い訳にして、自信のなさを取り繕おうとしていたことすら見透かされていそうだった。


「祐巳ちゃんを見てみなよ。いつだって、祐巳ちゃんは祥子から目を逸らしたりしない。
泣いても、笑っても、まっすぐ祥子のことをみつめているでしょう」


 重ねられていく言葉は、過剰でも、過少でもない。

『私もお姉さまのことが大好きです』

 あの梅雨の日に、そう言って笑ってくれた祐巳の瞳は、祥子だけを映していた。

 いつだって、祥子の前に立つ祐巳は、澄んだ瞳でこちらをみつめていて。

 だから、私は―――。

「結局、あなたは祐巳ちゃんをどう思っているの」

 真剣な眼差しの令から、もう目を逸らすこともできない。
 唇を開くと、その気持ちの持つ暖かさに自然に頬が緩んで、視界が輝くように揺れた。

 たった一言のその言葉は。

 正午の眩い日差しが窓から惜しみなく注がれ、微かな風がレースのカーテンを揺らしな
がらそよぐ部屋の中に、透き通るように響いたのだった。




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