恋におちたら 7




 蹴るように薔薇の館の玄関へ足を踏み入れると、由乃はそれだけで興奮状態に陥ってし
まった。いや、本当は教室を出る前から、冷静さなんてなかった。正確には、祐巳さんと
話をした休み時間から。沸騰した頭から湯気でも出るんじゃないかって言うくらいに大興
奮だ。


『大丈夫だよ』

 大体、あんな言い方をすること自体「何かあったよ」と言っているも同然なのに。どう
してこうも祐巳さんは、自分の気持ちの中でまで祥子さまを庇おうとするのだろう。だけ
ど、そう喚き散らそうにも、その相手の祐巳さんはタイミングよく日直さんで、甲斐甲斐
しく授業の後片付けをしているのだった。


 ガンガンガン!

 歩を進めるたびに階段が悲鳴を上げる。落ち着け自分。

 『何もされてないよ』

 ふと、祐巳さんの声が脳裏を掠めて。階段を上りきりビスケット扉のノブに手を回しか
けて止めた。


 自分は冷静ではない、気持ちが昂ぶっていてもそれくらいは理解できる。このまま扉を
開けて、その向こうに祥子さまがいれば、取っ組み合いになるかもしれない。リリアンで
取っ組み合いはまずい。いや、祥子さまはつかみ返したりしないか。お嬢さまですから。


 『何もない』

 扉の近くの壁に背中を預けて深呼吸をすると、もう一度、祐巳さんの穏やかな声が思い
出されて、血が上っていた頭が少しだけ涼しくなった。


 姉妹の形はそれぞれ違う。だから、姉妹のことは当人たちにしかわからない。そんなこ
とくらいわかっている。由乃だって、令ちゃんとのことを、誰かにとやかく言われるなん
て絶対嫌だ。令ちゃんと祥子さまは違う、そんなこと百も承知。


 だけど、祐巳さんだって由乃の大切な人だ。それなのに、「何もせずにただ見守る」な
んてもどかしいこと、由乃の性格上あり得ない。


「・・・・・・何だって言うのよ」

 思いっきり絡まった思考回路にまで腹が立つ。

 祐巳さんが大切。

 だったらこれ以上突っ込まなくてもいいじゃないか。

 『何もない』

 そう言った祐巳さんの気持ちを受け止めたらいいじゃないか。わかっているんだ、そん
なこと。

 だけど。

 ―――祥子さまも、祐巳さんの半分ぐらいは悩んだ方が良いんじゃないの。

 そんなことができるなら、最初っからこんなこと考えたりはしないのだ。
 それでも、考え付く限りの罵詈雑言を心の中で祥子さまに向かって喚いてから、「はぁ
っ」と思いっきりため息をついてノブに手を掛けると、先程よりちょっとは冷静なれた気
がした。



                               


「祐巳さんは日直の仕事があるので、今日は向こうで昼食を取るそうです」

 ビスケットの扉を開けると、そこにはやっぱり祥子さまがいた。ついでに令ちゃんも。
祥子さまは既に食事を済ませているのか、優雅な手つきでティーカップを口元に運んでい
た。それでもって由乃の言葉には。


「そう」

 手にした文庫本から視線を外すこともなくそう一言。まったくもってそっけない。まぁ、
この人はそういう人だ。いつもならそう納得できるのだけれど、今日はなんだか鼻に付く。
その上。


「構わないわ。取り急いでしなければならないことは、特にないのだから」

 カッチーン。

 何なんだこの人は。仮にも妹に会えないのだ、少しぐらい残念そうにするとかないのか。
百歩譲って、祥子さまがそういう人だとしても、一言「それは残念ね」くらいのことが言
えないわけ。隣でお弁当を頬張っている令ちゃんなんて、扉を開けて現れた由乃を満面の
笑顔で迎えてくれたというのに。


 何よりも、本当にそれだけで、祐巳さんが薔薇の館に来ていないとでも思っているのだ
ろうか。いや、日直の仕事が長引いているのは本当だけれども。


「冷たいですね、紅薔薇さまは」

「?」

 思わずそう口走ってしまった由乃を祥子さまが訝しげに振り返る。
 まずい。非常にまずい。
 祥子さまの隣で、ぽかんと口を開けて固まる令ちゃんなんて見なくても、自分がまずい
状態にあることはわかっている。頭のどこかでサイレンみたいな音が聞こえてくるような
気がする。だけど、口から出た言葉は元には戻らないし。一旦堰を切ってしまえば、濁流
のように言葉が流れ出てしまうのが、由乃の由乃たる所以なのだった。


「本当に、それだけで祐巳さんがここへ来ないとでも思っているんですか」

 それは、単なる由乃の思い込みかもしれないけれど。

「ちょっと、由乃?」

 あたふたと令ちゃんが立ち上がって、突っ立ったままの由乃の方へやってくるのが見え
るけど。


「令ちゃんは黙ってて」

 自分でも止められないものはどうしようもない。

 あの授業の時に、祐巳さんは泣いていた。みんなが気付かないくらいの、ほんのちょっ
と滲ませるだけのものだったけれど、間違いなく泣いていた。そしてその顔は、あの梅雨
の時と同じ寂しそうな表情で。


『何もないよ』

 祥子さまと何かあったのかと聞いた由乃の言葉の「何か」のところだけ、祐巳さんは訂
正したのだ。


『ただ、私が祥子さまを好きなだけ』

 あんなことを言われて、ほだされない人間なんているのだろうか。
 祐巳さんはあんなにも祥子さまの事を考えているのに。祥子さまどうしてこんなにも淡
々としているのだ。


「祐巳さんはいつだって祥子さまを見ているのに。いつもいつもどうして肝心なところで
突き放すんですか」


「由乃、止めなさい」

 珍しく厳しい口調で令ちゃんがそう言って肩を抑えたけれど、このままでは他のところ
で暴発しかねない。むしろ由乃本人ですらこの爆発は抑え切れそうにない。令ちゃんの手
を振り放すようにして、祥子さまに詰め寄る。


「祐巳さんは祥子さまの都合の良いお人形じゃないんで・・・っむぐ」

「だからよ」

 由乃がたまりかねた令ちゃんに口を抑えられたのと、今まで黙って由乃の言葉を聞いて
いた祥子さまがそう言ったのは同時だった。


「・・・・・・え?」

 祥子さまは静かな表情を一瞬たりとも歪ませることなく口を開いた。

「祐巳は生身の人間で、傷つきもするし、失望もする。普通の高校生の女の子よ」

 その表情を、何と言い表せば良いのだろう。

 怒っているような、悲しんでいるような。苛立ち、焦り。戸惑いと、優しさと、愛しさ
と。全てを綯い交ぜにして、祥子さまはただ静かな表情をしていた。


「だからこそ、私は甘えるわけにはいかない・・・由乃ちゃんの目に祐巳が傷ついている
ように映ったのなら、それが事実なのでしょう」


 祥子さまの言葉は、前向きにも、後ろ向きにも取れた。だけど。

「それでも、今の私たちにはそれが必要なのよ」

 そう言い切った祥子さまの顔は、壮絶に美しくて。そういえばものすごい美人だったと、
今思い出した。


「それって・・・」

 祥子さまも、きちんと祐巳さんの事を考えているってこと?
 今更ながらに、当たり前のことに思い至って。それ以上に、まっすぐな視線をこちらか
ら逸らすことなく堂々と由乃を見据える祥子さまの瞳に、さっきまでの苛立ちが消されて
いくかのように、由乃は口をつぐんだ。


 不覚にも、感動してしまったじゃないか。



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