恋におちたら 6




「ごきげんよう、祥子」

 生徒たちが行きかう昇降口で、令に会った。

「・・・・・・ごきげんよう」

 革靴を靴箱に入れて扉を閉めてから、振り返りながらそう言うと、令はぽかんと口を開
けて固まってしまった。


「どうしたの、祥子」

「?」

 令の言動はまったく要領を得ない。前髪をかき上げながら次の返答を待っていると、令
はますます怪訝そうに眉を顰めた。


「あなた、顔が真っ青よ?」


                                


 何てこと。

 そう思っている間にも、時間は刻々と流れてすぐにその時はきてしまった。

「では、3班の人」

 古文の先生が祐巳たちの方を向いてそう言った。

(今日が発表だった・・・!)

 いや、課題はしている。班の人たちと打ち合わせもしているし、抜かりはないはずなの
だ。だけど、心構えと言うか、そういうものがまったく出来ていなかった。

 それなのに、始まってみればグループ発表とは、個人的な発表をするよりもずっと気が
楽なもので。祐巳たちのグループは百人一首を五人で口語訳にしてそれを模造紙に書き写
したものを発表するといったごくごく普通のものだ。口語訳の方も百首全てを読み上げる
わけではなく、模造紙に書いてある自分の担当箇所について、詠み人とその背景を簡単に
説明するというもので、あらかじめ割り当てられた自分の担当箇所を読み上げてしまえば、
半分は終了したも同然なのだった。だから、完全に気を抜いていた、そうとしか言いよう
のないタイミングで、先生が祐巳の方へ向いた。


「では、福沢さん」

「は、ひゃい!?」

 『何か質問があればどうぞ』という司会者の声の後には、大体に緩い空気の沈黙が待っ
ているもので、その後に先生の感想をいただければ課題は全て終了するはずだったのだが。
何の気まぐれなのか、先生は楽しそうに祐巳を指名した。


「皆さんとても丁寧に口語訳が出来ていて素晴らしい。せっかくだから、どれか一つ訳し
たものを読み上げてもらいたいと思ってね。福沢さんの訳した参議等をお願いするよ」


 「私はこの歌がとても好きなんだよ」と笑う先生に、こめかみにたらりと汗が流れたけ
れど。


(参議等って・・・)

 手元にある発表用紙に視線を落としてそれを確認すると、どくんと心臓が鳴った。

あさぢふの をののしの原しのぶれど あまりてなどか 人の恋しき』

 何てこと。

 授業の前に呟いた言葉がそのまま頭に浮かんだけれど。その時よりも何倍も血の気が引
いていきそうだ。

 よりにもよって。そう、よりにもよって。今日、これを読ませなくたっていいじゃない
か。なんて、思わず古文の先生に心の中で八つ当たりだ。


「福沢さん?」

 指名したのに黙り込んでしまった祐巳の様子に先生は不思議そうに首を傾げた。

「あ、いいえ・・・」

 はっと我に返って視線だけで周りを見回すと、先生だけではなく、他の生徒たちまでも
不思議そうに祐巳を眺めている。離れた席にいる、由乃さんも。考えてみれば、この歌に
ついて少々思うところがあっても、それは個人的な問題なのだ。授業を受ける際には切り
離して考えないと。


「・・・この篠原の篠という字のように」

 前向きに思い直して、用紙の上の文字を目で追い、声にする。

 だけど、本当はカンニングペーパーなんて必要ないくらいに、その歌は祐巳の心に染み
こんでいた。

 蔦子さんが面白半分に訳していたものを丸写ししたわけではないけれど、結局そっくり
そのまま拝借する形になっていた口語訳は、蔦子さんとの会話も、その時の気持ちまでも
思い出させて。それから放課後の祥子さまとの一瞬の触れ合いまでも鮮烈に蘇らせた。


 白い指先。きれいな瞳。頬にあたる吐息。髪。祐巳を呼ぶ声。唇。

「あなたへの想いを隠してきましたが、もう耐えられそうにありません」

 最後まで読み上げえる前には、今朝の祥子さまの後姿まで浮かんできてしまった。

 吹き抜ける風と。凛とした声と。つややかな髪。

 祥子さまは、別に好きだと言ってくれたわけではないのに。祐巳が勝手に舞い上がって
いただけだ。あの、風のように。どんなにざわめき、舞い上がったとしても、祥子さまの
声だけで、それは一瞬にして静められる。


 風が止んだ後に残ったのは、みどりの黒髪が滑らかに揺れる背中だけだった。

「どうしてこんなにも、あなたが恋しいのでしょう」

 それなのに。

 こんなにも、祥子さまが恋しい。

 ぱちぱちぱち・・・。

 ふいに拍手の音がして、出所を探すとにこにこ顔の先生の手元だった。

「とても上手に訳せていたよ、情感もこもっていて素敵だ」

 ああ、そっか。課題の発表なんだ、これは。今思い出したかのように祐巳はしばらく呆
然としてしまったけれど。先生に続いて生徒たちからも暖かな拍手が送られてくる。褒め
てもらえたことがちょっぴり照れくさくて、とてもうれしくて。それから「がんばりまし
たね」という先生の声に涙が少しだけ滲んだ。


 隠してきた想いを、独り言のように呟いているだけで、その人が振り向いてくれたわけ
ではないのに。


 そんなことを思ってしまったから。

 席に帰りながら俯いて涙が滲んでしまった目元をそっと拭ったけれど、きっと他の生徒
には照れ隠しに見えているはずだ。

 だけど。

 一瞬だけ、視界の端に映った由乃さんは怪訝そうに眉を顰めていた。





「どうしちゃったの、祐巳さん」

 授業が終わるやいなや、祐巳は由乃さんに連行されてしまった。結構な勢いで祐巳の腕
を引っつかむと、教室を抜け廊下の端まで脇目もふらずに歩く。そして人のあまり通らな
い、中庭を見下ろせる出窓の前で立ち止まったかと思ったら、いきなりそう切り出したの
だった。


「どうしたって・・・」

「祥子さま?また何かされたの!?」


 祐巳が聞き返す前に、何を想像したのか怒った猫みたいに毛を逆立てそうな勢いで由乃
さんが詰め寄ってきた。どうやら既に由乃さんの中では、祐巳と祥子さまとの間に何かあ
ったという結論に達しているらしい。それにしても「また」とか「何かされた」とか、上
級生相手でも由乃さんは手厳しい。


「えっと、どうして祥子さまと何かあったと思うの?」

 はぐらかすつもりはないけれど、何か誤解があるのなら解いておかないと。

「昨日までは普通だったのに。放課後、私と令ちゃんが薔薇の館に着いてから、二人とも
なんだかよそよそしくしていたわ。その上、今日はずっと浮かない顔をして・・・祥子さ
まと何かあったとしか思えないじゃない」


 さすがは名探偵由乃さん。きちんとそういうところは見ているらしい。まぁ、何かあっ
たとカウントするのなら、その前だけど。それは悲しくなるようなことではなかったし。
だから問題があるなら、それは祐巳の祥子さまへの向き合い方そのものなのだ。


「大丈夫だよ」

 取りあえずはこの戦闘状態を解いていただきたい、そう思って発した一言がまずかった
らしい。


「嘘。この間も同じようなことを言っていたけど、祐巳さんは泣いていたじゃない」

 由乃さんはますます眉を吊り上げてしまった。

「私はああいうのは、もう嫌なの。結局はこの間のこともうまく収まったけど。祐巳さん
が祥子さまのことで傷ついたり、泣いたりするのは、もう嫌なの」


 もう嫌なの。由乃さんはかみ締めるようにそう言って、手元に持っていった親指の爪を
噛んだ。

 そういえば、梅雨の間はずいぶんと由乃さんに心配をかけたんだっけ。祐巳のことなの
に自分のことのように怒って、それを全身で表現している由乃さんに、思わず微笑んでし
まった。相手が怒っていると、こちらは妙に落ち着いた気持ちになるものだ。


「何もされてないよ、というか何もない」

 だから、祐巳は取り乱すことなく、今の状況を簡潔に述べることが出来た。

「・・・・・・本当に?」

 由乃さんはまだ疑っているような眼差しで祐巳を覗き込んだけれど。

 何もない。

 それが全てだった。

 祐巳は祥子さまが好きで。

 好きで。

 好き。

「本当・・・・・・ただ、私が祥子さまを好きなだけ」

 だから、祥子さまの立ち居振る舞いに一喜一憂してしまうのだ。祥子さまは、別に好き
だと言ってくれたわけではないのに。


 白い指先。きれいな瞳。頬にあたる吐息。髪。祐巳を呼ぶ声。唇。

 あれは、泣いている「妹」を慰めようとしてくれただけかもしれないのに。

「祐巳さん・・・」

 心配そうにこちらをみつめてくれる由乃さんに、それ以上は何を言ったらいいかもわか
らなくて、微笑んで見せた。ちょっと間抜けな感じだったかもしれないけど。


 ただ、好きすぎて、時々苦しくなってしまうだけだよって、心の中で呟いて。




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