恋におちたら 5




「ごきげんよう」

 雑踏の中で、それでも祥子さまの声は凛と響いて、まっすぐに祐巳の耳へ届く。

「ごきげんよう、お姉さま」

 朝の駅なんて、立っているのもやっとと言うほどに人で溢れかえっているのに、どうい
うわけか、そこに祥子さまがいると遠目からでも上手にみつけることができた。


 どうしてかなんてわからない。ただ、気がつくと目線が祥子さまを探している。人ごみ
の中でただ一人、祥子さまだけを追いかけたその先に、不思議とその人が立っている。


 こういうのを奇跡って呼ぶのだろうか。

「行きましょう」

 人ごみの中ではぐれてしまわないように、祥子さまがそっと祐巳の手を握ってくれた。
きっとバス停まで、この手を離さないでいてくれるのだろう。

 でも。
 こんなふうに握られたら、手のひらの汗がばれてしまいそうだ。

「は、はい」

 優しく微笑む祥子さまに、いつもと同じようにドキドキして。それから昨日のことを思
い出して、いつも以上にどきどきした。


 祥子さまの横顔は、いつもと変わらず涼しげなままなのに。

 バス停までの道のりは、うれしくて短くて。ドキドキして遠かった。

「祐巳、こっち」

 バスの車内に入ってからも、朝の混雑は続いていて。流されるままに後部座席付近の通
路まで来ると、祥子さまがそう言って手を繋いだままの祐巳を引き寄せてくれた。


「毎日のことだけれど、すごい人ね」

「本当に」

 前を向いても横を向いても誰かと至近距離でみつめ合ってしまいそうなくらいだ。電車
と違うのはそのほとんどがリリアンの生徒であるというところだろうか。結局どちらを向
くこともできず祐巳は下を向くことにした。


「今日もいい天気になりそうね」

 頭の上から祥子さまの声が聞こえてくる。

「そうですね」

 きれいな声に顔を上げようとしたけれど、押されるように寄り添いあった距離で祥子さ
まの唇が視界に飛び込んできて、祐巳は慌てて視線を元に戻した。


「えっと・・・あ、暑くなりそうです、よね・・・」

「そうね」

 ごにょごにょと祐巳が呟くと、祥子さまは別段その事を気に留めていない様子でそう答
えてくれたけれど。熱くなった頬のまま、もう祥子さまの方を見上げることもできなくな
ってしまった。


 たくさんの人たちを乗せて、バスが緩やかに発車する。

 走り始めたバスと同じように、心音が徐々に早くなっていくのを感じながら目を閉じる
と、瞼の裏に、一瞬目にしただけなのにしっかりと焼き付けられてしまった、祥子さまの
つややかな唇が浮かんできた。


 キス、しようとしたんだっけ。昨日。

(うわ・・・)

 別に忘れていたわけではなかったけれど。あえて今ここでその事を改めて思い出さなく
てもいいのに。そう後悔しても、思い出してしまってからではもう遅い。さっきまでより
ももっと強く早くリズムを打ち始めた鼓動に重なるように、昨日の光景が頭の中で何度も
何度も行ったり来たりを繰り返す。


 白い指先。きれいな瞳。頬にあたる吐息。髪。祐巳を呼ぶ声。唇。

(うわぁ、うわわわ・・・)

 自分で思い出しておきながら、恥ずかしさがこみ上げてきてぎゅっと手に力を入れると、
祥子さまと手を繋いだままだったことに気がついて目を見開いてしまった。

 きっとあの時、由乃さんと令さまが来ていなければ、躊躇うことなく唇を触れ合わせて
いたに違いない。そして、それは全然嫌なことではなかった。


 強く握った手はそのまま固まってしまったけれど、祥子さまは振り払ったりなんてしな
かった。それどころか、汗ばんでいく祐巳の手を先程よりも強い力で握り返してくれた。


 頬が熱くて。呼吸がもどかしくて。祥子さまと繋いだままの手が痛いくらいに痺れてい
く。胸がはぜるように苦しくて、渦巻いて溶けてしまいそうなくらいに焼ける。それなの
に、それはまったく嫌な感覚ではない。


 ああ、そうか。

 信号に引っかかったのだろうか、バスがゆっくりと速度を落としていく。

 それと一緒に身体中を駆け巡っていた昨日の光景が揺らめきながら流れていき、波の引
いた胸の底に、見失いそうになっていた気持ちをみつけてしまった。


 祥子さまとキスしたかった。

 祥子さまのきれいな瞳にドキドキして。優しい声にドキドキして。みつめ合ったまま何
も考えられなくなっていたけれど。


 祥子さまの唇が近づいてきたから、受け入れようとしたわけじゃない。
 キスをするのが嫌ではないから、目を閉じたわけじゃない。

 本当は、ずっと。祥子さまとキスしたかった。

 手を繋いだままもう一度目を閉じると、停車しかけていたバスがまた加速し始めるのを
感じた。


 繋いだ先の手から、祥子さまの柔らかな体温が伝わってきて。すぐ側では、穏やかに繰
り返される呼吸が感じられる。

 閉じられた瞼の裏には、いつしか焼き付けられた唇の残像に変わって、祥子さまの美し
い横顔が浮かんできて、なぜだか涙腺が緩んでいきそうになったけれど。

「どうして」なんてもう考える余裕もない。
 側にいる時も、離れている時も。脳裏に浮かんでくるのはただ、祥子さま。

 ―――私はこんなにも、この人のことが好きなのか。―――

 そう呟く代わりに、吐き出したため息はどこまでも深い。それなのに胸を詰まらせるよ
うなこの気持ちまで吐き出されることなんてなかった。

 それでも、甘いような苦いような感覚にもう一度深呼吸をしようとしたところで、バス
が不意に揺れて、身体が小さく傾いだ。


「うわっ」

 急ブレーキ。そう思った時には、既に修正不可能なほど足元が崩れ落ちそうになってい
たが、傾いだ身体は倒れることはなかった。


「・・・大丈夫?」

 ふんわりと柔らかい衝撃の次に祥子さまの声がして。

「えっ?」

 慌てて顔を上げると目の前に祥子さまがいた。

「あ、あっ・・・だ、大丈夫・・・です」

 つまるところ、ふんわりと柔らかいこの感触は祥子さまのもので。恐れ多くも祥子さま
に抱きとめてもらっているのだと理解するまでにそう時間はかからなかった。


「あの・・・っ」

 だけど、理解してしまうと表面的には落ち着きを取り戻していた心拍数がまた跳ね上が
ってしまった。


「ご、ご、ごめんなさい、お姉さま。あの、すぐに・・・っ」

 すぐに退けますから、そうじたばたともがくけれど、人ごみは祐巳と祥子さまをぴった
りとくっつけたままでその形を落ち着けてしまっていて、そこから一歩も動けそうにない。


「じっとしていなさい・・・・・すぐに着くわ」

「あ・・・」

 パニックを起こした子狸の肩を諌めるように一度ぎゅっと押さえつけてから、祥子さま
はそう言った。


「はい・・・」

 お姉さまにそう言われてしまってはこちらとしてはそれに従わざるを得ない。

 どっ、どっ、どっ・・・。

 耳の奥で、跳ね上がりきって行き場をなくした心音が暴れまわっている。
 先程自分を庇おうとして前に突き出す形になっていた手を下ろすことも叶わなくて。だ
けど、抱き合うような形で密着した祥子さまの身体に手を触れさせることもできなくて、
結局、口元できゅっと手のひらを握り締めて、赤くなった顔を隠した。

 でも。

 どんなに顔を隠しても、こんなにくっついていたら、全身のドキドキは伝わってしまい
そうだった。



                                


「散々だったわね」

 バスを降りると開口一番祥子さまは苦笑しながらそう言って、ため息をついた。微かに
髪を揺らす風が心地よい。


「この時間は混みますね」

 朝拝の二十分前に到着するこのバスは生徒たちの利用率が高いのだ。山百合会の活動の
関係で多少のずれはあるけれど、何もなければ祐巳も祥子さまもこの時間帯のバスに乗る。

だから言ってみればこれはいつものことで、ため息交じりの祥子さまの言葉も不満の声と
言うよりは「仕方がないわね」という気持ちの表れなのだった。


「でも、お姉さまと一緒に登校できるから、混んでいてもうれしいです」

 歩きながら、言った後で照れてしまって、はにかんだけれど。祐巳のそれもいつもの感
想に過ぎない一言だったのに。


「・・・・・・」

 祥子さまは一瞬目を見開いて、それから困ったような表情のまま曖昧に微笑んだ。

「?」

 いつもとは違う反応に首を傾げると、祥子さまは「そうね」とそっけなく呟いてから目
も合わさずにそのまま校門を潜り抜けた。


「お姉さま?」

 不思議に思ってそう呼びかけた祐巳の声は、髪をなぶり二人の間を吹き抜けていく風に
かき消されてしまった。


 初夏の瑞々しい風の音が、さわさわと耳に付く。

 隣に追いつくと、祥子さまがちらりとこちらを窺った様子だったけれど、祐巳が顔を上
げた時には既に視線を前へ戻していた。


(考え事、かな・・・)

 元々あまり話題を探そうとしない祥子さまだけど、こんな風に急に黙り込むのは不機嫌
な時か考え事をしている時。でも、不機嫌という表情ではないから。祥子さまに合わせる
形で祐巳もただ黙って隣を歩くことにした。祥子さまと繋いでいない右手が妙にそわそわ
と落ち着かない。


 青々とした枝葉を強く、弱く、揺らしながら、風が頬を撫でていく。

 考え中って書いた立て札が祥子さまの横に出ていればいいのに。なんて考えたこともあ
ったかな。静かな横顔を眺めながらそんなことを思い出したけれど。


 今は、何を考えているのか教えて欲しいと思った。

 隠し事をしている、とか。妹の自分にも言えないようなことを考えているのだろうか、
とか。そんな気持ちからじゃなく、祥子さまが何を考え、誰を想っているのか、ただ知り
たいと思ってしまった。なんて欲張りなんだろう。

 ふと、祥子さまが立ち止まるから、横へ向けていた視線を前へ戻すといつの間にかマリ
ア様のお庭に到着していた。


(今日も一日正しく過ごせますように)

 静かに手を組む祥子さまに合わせて、祐巳もいつものように慈しみ深い微笑を浮かべた
マリア様にお祈りをする。

 お祈りを終え、頭を上げてもう一度見上げると、入道雲を背負った真っ青な空をバック
に微笑むマリア様いて、とっても晴れやかな気持ちになったけれど。その気持ちのまま隣
を窺うと、祥子さまは未だ手を組んで頭を垂れていた。


 さわさわと枝葉が揺れて。祥子さまのみどりの黒髪もその音に合わせてさらさらと揺れ
る。ただ黙って静かにお祈りをする祥子さまは、まるで一枚の絵画のように美しくて。い
つまでも眺めてしまいそうだった。


 祥子さまは、何を祈っているのだろうか。

「お姉さ・・・」

 唐突に、祥子さまの髪を撫でていた風が空へと突き抜けていくかのように舞い上がって。
思わず祥子さまに呼びかけそうになった祐巳の声ごと、二人の髪を散々に揺り上げた。


「祐巳」

 舞い上がる風に髪を押さえていると、お祈りを終えたらしい祥子さまがこちらを向いた。
ざわざわと耳につくような風の中でも、祥子さまの凛とした声はかき消されることなく、
祐巳に届く。


「え?」

 風になぶられた髪が、祐巳と祥子さまの間で揺れて。その間から祥子さまの唇がゆっく
りと開かれるのが見える。


「昨日は、ごめんなさいね」

 祥子さまがそう告げるのと同時に、一層強く風が髪をかき上げた。

 『昨日はごめんなさいね』

 祥子さまは何を言っているのだろう。
 声が届かなかったわけではない。何を指しているのかわからないわけでもない。

 激しい風が吹き抜けた二人の間に、沈黙だけが残されて。

 返す言葉を探して言いよどんでいる祐巳から絡めていた視線を外すと、祥子さまはまた
前を向いて、振り返りもせずに言葉を重ねた。


「・・・どうかしていたわ・・・・・・あんなこと」

 吐き捨てるようにそう言うと、祥子さまは祐巳を待つこともなく歩き出した。

「・・・お姉さま・・・?」

 先程までのざわめきが幻だったかのように、穏やかな風がまた、祐巳の頬を優しく撫で
る。

 目の前で起こった光景が、自分を置き去りにして移り変わろうとしているのに。祐巳は
ただ、去り行く祥子さまの後姿を呆然とみつめるしかできなかった。


 初夏の瑞々しい風の音が、さわさわと耳に付く。

 どうして目を合わせてくれないのですか。
 そんな心の呟きまで、さらって流してしまうかのように。

 初夏の瑞々しい風の音が、いつまでも耳に残って消えない。



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