恋におちたら 4




「ごちそうさまでした」

 まだほとんど手をつけていない夕食を目の前にして、祥子はため息のようにそう告げた。
 特に体調が悪いわけでもなければ、時間がないわけでもない。ただ何となく、文字通り
食事が喉を通らない、それだけだ。

 でもそれは、不快な感じではない。 他の何もいらないくらいに胸がいっぱいで、でき
るならその余韻に今しばらく浸っていたい。


 どうしてこんな風になってしまったのか。考えなくてもわかりきっていることだった。

 喉元から競りあがってくるような熱く、甘い圧迫感に思わず口元へ手をやると、鮮烈に
昼間の光景が蘇ってきつく目を閉じるけれど。瞼の裏にまで染み付いた残像が身体中にそ
の時の感触を拡げて、自分でもわかるくらいに鼓動が早くなった。


 祐巳。

 早鐘を鎮めようと胸の中でそう呟くけれど、その言葉は呪文のように胸の中に拡がって
かえって祥子の動悸を激しくさせるばかりだ。


 祐巳の髪に、頬に、瞼に、触れさせた唇はいつまでも熱を持続させて余計に祥子を悩ま
せる。祐巳の唇を掠めて自分のところへ戻ってきた吐息さえも、狂おしいほどに胸をかき
乱す。応えるように瞳を閉じてくれた祐巳の顔が脳裏に浮かんでくると、居ても立っても
いられないくらいの歓喜が胸を突き上げる。


 祐巳が好き。

 どうしようもないくらいに、その想いは溢れかえって。猛り狂う衝動に何も考えられな
くなりそうだ。


 祐巳は別に好きだといってくれたわけでもないのに。

「まぁ、祥子さんったらまた好き嫌いをして」

 唐突に耳慣れた声が聞こえて、祥子は夢から覚めたようにはっと目を見開いた。

「・・・・・・誤解ですわお母さま。量が多すぎるんです」

 呆れ顔でこちらを眺めるお母さまに、ぶっきらぼうにそう返す。我に帰ってしまうと余
韻に浸っている自分というのは何とも恥ずかしい。取り繕うかのように手元の食器を片付
けようとしたら、それよりも早くお母さまが皿を取り上げてしまった。


「昨日は優さんがいたものね」

 食べ残しがのっている皿を器用にお盆の上へ載せながらお母さまがそんなことを呟いた
から。覚めやらぬ夢の余韻が一気に冷却されていくかのように、祥子の視線は固まってし
まった。


「やっぱり二人きりだと寂しいわね」

 きっとそれは、お母さまにとっては普段の会話と同じトーンだったに違いない。
 けれど固まった視線の先に映るお母さまの姿に、なぜだか祐巳が重なってみせた。

「・・・・・・」

 小柄なお母さまの俯き加減の横顔に、昼間の祐巳の泣き顔がだぶって。

『それが答えられるようになってから言ってくれ』

 優さんの厳しい声が、頭の中で警鐘のように鳴り響く。

 呆然と固まったままお母さまがキッチンへと去っていくのを見送りながら、ふと手のひ
らの痛みに視線を落とすと。


 赤々とした爪跡が四つ、汗ばんだそこへくっきりと残っていたのだった。



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