恋に落ちたら 3




「う〜〜〜〜〜ん・・・」

 ざわざわと騒がしい休み時間の教室で、祐巳は机にノートと辞書を開いて頭を抱えてい
た。


「その顔いただき!」

「わっ」

 まぶしいフラッシュとともに現れた友人に、祐巳は一瞬驚いた顔をして、次にあきれた
顔をした。


「蔦子さん・・・」

「蕾の憂い顔、いいショットね」

 祐巳のため息なんて気にも留めない様子で、蔦子さんはにたりと笑った。憂い顔なんて、
祐巳は目下の敵、つまるところは課題に追われていて切羽詰っているだけなのだけれど。
そんな間抜け面撮って楽しいものだろうか。


「さしずめ、祐巳さんにそんな顔をさせているのはこれね」

「・・・あたり」

 蔦子さんがついと手を伸ばし机の上から一枚の紙をつまみあげた。

「へぇ、祐巳さんのところは百人一首から抜き出してするの?」

「うん」

 それは古文のグループ課題で、それぞれが好きな和歌なり短歌なりを複数集め、口語に
訳して発表するというものだけれど、熱烈に古文が好きではない者同士の集まりの祐巳た
ちのグループは適当に抜粋できるようにと百人一首を選んだのだ。


「で、これが祐巳さんの担当部分ってわけ?」

「そう、なんだけど」

 そこで祐巳は言いよどんでしまう。適当に抜粋したらしたで、それなりに問題がある。
好きでも嫌いでもないということは元からその和歌に興味もないわけで、いきなりよく知
りもしないものを担当させられたところで、前知識もない祐巳にはおぼろげには意味がわ
かっても、厳密に訳すというのは至難の業なのだ。もう担当が決まってから三日たってい
るのに、祐巳はまだほとんど訳せていない。だからこうやって貴重な休み時間まで使って
働いているのだけれども。


「あら、これなんて祐巳さんにぴったりじゃない」

 何を思ったのか、蔦子さんは紙の上を滑らせていた視線を一点で止めると顔を上げてま
たにやりと笑った。どうやら蔦子さんは古文が得意なようだ。


「どれ?」

 これなんて言われても、たくさんありすぎていちいちどのあたりにどの歌が載っていた
かまでは覚えていない。首を突き出すように覗き込んだら蔦子さんは目の前に表を向けて
その歌を指でなぞって見せた。


あさぢふの をののしの原しのぶれど あまりてなどか 人の恋しき

「?」

 頭の中でそれを復唱してみても一瞬見ただけではやっぱり意味なんてわからなくて、祐
巳が小首を傾げると蔦子さんは芝居がかった声で口語訳をしはじめた。


「この篠原の篠という字のようにあなたへの想いを隠してきましたが」

「えっ・・・」

 蔦子さんの声にどきりと心臓が音を立ててはねたのがわかった。

「もう隠せそうにありません」

 蔦子さんはただ和歌を訳しているだけなのに、その歌はまるで魔法のように祐巳の胸に
染み込んで、甘い疼きを伴って祐巳の想いに重なっていく。


「どうしてこんなにもあなたが恋しいのでしょう」

 胸から頬へ、頬から耳へ熱が伝わって、脈打ちながら全身が熱くなるみたいだ。

『どうしてこんなにもあなたが恋しいのでしょう』

 無意識に心の中で反芻した言葉に、胸がきゅうっと締め付けられて、なぜだか祥子さま
を思い出した。


「もろ、祥子さまへの気持ちって感じじゃない?」

 蔦子さんの冷やかすような声の調子に祐巳ははっと我に返った。見上げると、笑いをこ
らえ切れないって顔をしながらこっちを見ている蔦子さんと目が合った。


「もう!蔦子さんの意地悪!」

 言いながら頬を押さえると気のせいじゃないくらいに熱くなっていて、それこそ隠し切
れないくらいに祥子さまへの想いが溢れ出てきたみたいで居た堪れなくなった。だから、
本当は休み時間は長ければ長いほど好都合なはずなのに、今日だけは談笑を打ち切るチャ
イムの音にほっとしてしまった


                    *


「ごきげんよう・・・あら、祐巳一人?」

「え?あ!お、お姉さま!?」

「何をそんなに慌てているの?」

 祐巳の任務(課題)遂行の調子は相変わらずで、その上休み時間に蔦子さんに冷やかさ
れてからますます要領の悪さに磨きがかかっていた。だから、放課後の今になってもその
時から一文字も口語の文章としてできあがっていなくて、申し訳ないと思いつつも、放課
後の薔薇の館でこうして宿題を広げていたりする。それでもって古語辞典でも開こうかと
した時にビスケットの扉が突然開いたものだから素直に祐巳は驚いた。その上、そこから
現れたのが祥子さまだったものだから、思わず椅子から転がり落ちそうになってしまった。


「あら、宿題?」

「あ、ああっ、すぐに片付けます・・・!すみませんっ」

 ここは薔薇の館で、いって見れば職場と同じようなもの。そこで内職よろしく宿題をや
っているなんて潔癖症の祥子さまのお怒りに触れる可能性大だ。見つかってしまってから
では遅い気もするけれど、平然とそれを続ける度胸なんて祐巳にはない。しかし遅まきな
がらに慌てて片付け始めると、祥子さまはそんな祐巳の焦りを打ち消すようなことを言っ
た。


「あら、構わないわよ。誰も来ていないし」

「へ?」

「何なら見てあげましょうか?」

 「座りなさい」と続けながら祥子さまが祐巳の肩をやんわりと押しとどめる。それは何
気ない仕草なのに、祥子さまの手に触れられた途端、ぽっと火が灯るようにその肩が熱く
なった。


「・・・・・・」

 熱くなった肩がぴくりと跳ねたのを取り繕うように祥子さまを窺うと、間近にあるきれ
いな瞳と視線が合って、すぐに顔を背けてしまった。


 顔が熱い。耳が熱い。胸が熱い。

「古文の口語訳の宿題?」

 耳元近くで祥子さまが独り言みたいに呟いて、そのまま黙って広げられたプリント類に
目を通す。


 その間も、祥子さまの声と穏やかな吐息を感じている耳にぽっと火が灯る。

 耳から頬へ、肩から腕へ、小さな熱はゆっくりと全身に灯されて、身体中が導火線にな
ったみたいにじりじりとうるさいくらいの鼓動と共に、胸に向かって近づいてくる。


「『あさぢふの・・・』」

「え・・・っ?」

 祥子さまの声が聞こえた瞬間、左胸に一斉大きな火が灯されて。その火は全身に張り巡
らされた早鐘の導火線を焼き尽くし、燃え盛る松明のように胸から全身を突き上げた。

 祥子さまの読み上げている歌は、昼の教室で蔦子さんが読み上げたのと同じものだった。

 どうしてこんなにもあなたが恋しいのでしょう。

 『もろ、祥子さまへの祐巳さんの気持ちって感じじゃない』

 からかうようにそう言ってのける蔦子さんに照れ隠しみたいに怒って見せたけれど。隠
しきれない溢れる想いは正に祐巳の胸の中に重なって、それを読み上げる祥子さまの声に
ますます募っていくみたいだ。


 どうしてこんなにも祥子さまが恋しいのだろう。

 胸の中でそう呟くと、熱くなっていく目の奥とは裏腹に、冷たい感触が頬に一筋流れた。


「え・・・?」

 急に押し黙ってしまった祐巳を不思議に感じたのか、祥子さまはこちらを向いて。その
まま目を見開いて固まってしまった。

 祥子さまのその顔を見て、頬に伝わる冷たい感覚が自分の涙だということに気づいた。
 でも。
 気づいたからといって、止められるわけではない。むしろそれに気づいてしまうと、涙
腺はますます涙を送り出してきて、祥子さまへの想いごと胸からせり上げようとする。


 どうしてこんなにも祥子さまのことが好きなんだろう。

 それなのになぜ、祥子さまを好きだと泣きたくなるのだろう。

 悲しいわけじゃない、苦しいわけでもない、だけど零れてしまうこの涙に胸は間違いな
く痛く切なく締め付けられて。次第にぼやけていく視界の中で祥子さまの姿までが揺れて
霞んでしまうけれど、もう目を逸らすこともできなくて。このままみつめあったまま二人
してこの視界のように揺れて溶けてしまえばいいのにとさえ思った。


「祐巳」

 固まってしまったかのように動かなくなった祐巳の耳に祥子さまの静かな声が届いてか
らやっと我に返った。


「あ、あの・・・ごめんなさい・・・えっと、目にごみが・・・」

 ごにょごにょと口ごもって目を擦るけれど、やっぱり後から後から涙が溢れてきそうで、
まともに祥子さまの顔も見られなくて祐巳は俯いた。


 いや、俯こうとしたのに。

「え・・・?」

 唐突にその感触は訪れた。

 右の頬に祥子さまの白い手が添えられて上を向かされたと思ったら、反対側の頬に手の
ひらとはまた違う、柔らかでしっとりとした感触が訪れた。それはすぐに離されたけれ、
頬に当たる暖かな吐息のせいで何が起こったのかわかってしまった。


 それは、祥子さまの唇だった。

 わかった瞬間に思わず息を呑んで後ろに反り返るようにしてしまったけれど、そうする
と至近距離で祥子さまとみつめ合うことになって余計に何も考えられなくなる。間近にあ
る祥子さまのきれいな瞳にただただ見惚れて、その瞳が再び静かに閉じられていくのをみ
つめながら、そうすることが当然のように祐巳も同じように瞳を閉じた。


 祐巳の薄い色の髪を啄ばむように、涙の伝った頬を慰撫するかのように、祥子さまの唇
がそっと押し当てられて、両頬に添えられた祥子さまの指に自分の指を絡めると暖かな吐
息を唇にも感じて、求めるように僅かにそこを開いた。


 じりじりと祥子さまを待ち焦がれる唇が痛いくらいに熱くなって、もう息もできない。

 祥子さま。

 胸の中でただ祥子さまの名前だけが浮かんで、他には何も感じられなくて。何もほしく
なかった。


 だけど。身体の中心から甘く溶けていくような錯覚を覚えた瞬間に、痺れや鼓動とは別
の外界からの異質な音が徐々に近づいてくるのを感じて、それがぴたりと止まると同時に
祐巳は我に返った。


「ごきげんよう、祥子、祐巳ちゃん」

「ごきげんよう、祥子さま、祐巳さん」

 祐巳と祥子さまが弾けるようにお互いを離した次の瞬間に、ビスケットの扉は勢いよく
開かれて、その向こうには溌剌とした笑顔を湛えた由乃さんと令さまが立っていた。


「あら?」

 動転しすぎて挨拶を返すこともできない祐巳に別段気分を害した風でもなく、由乃さんは
それとは別のことに怪訝そうな顔をした。


「どうして二人とも、そんなに顔が真っ赤なの?」


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