恋に落ちたら 2




 左手が熱い。

 電車に揺られながら窓に映る町並みをみつめて、祥子はその手で頬を押さえた。
 押しつけた指先から伝染したかのように頬にも熱が集まって、それはそのまま祥子の胸
をめがけて駆け抜ける。その手は先ほどまで祐巳と繋いでいた方の手だった。

 ゆっくりと闇に溶けていく空を見ながら、祐巳も同じ景色を見ていたらいいのにと唐突
に思った。



                               


「ただいま帰りました」

「おかえりなさい、祥子さん。今、優さんがいらしているのよ」

「え?」

 祥子が玄関の扉を開けると同時に出迎えてくれたお母さまは、続けざまにそう言った。
いつでもふらりとやってくるその人は、祥子の従兄弟であり婚約者でもあった。一度、悶
着があったものの、最近では慣れの問題なのか何なのか以前ほどではなくとも良好な関係
を保っている。

 だからこれは気分の問題なのだ。
 いったい何の用があるのかと、一瞬訝しんでしまったのは。

「やあ、おかえりさっちゃん」

「・・・いらっしゃい、優さん」

 一旦自室で着替えを済ませてから応接間へ行くと、そこには初めからいたかのようにそ
の場になじんでいる優さんがいた。相変わらず自信過剰にも見えるような紳士然とした態
度が少しだけ鼻についたけれど、それも最近まで素敵だと思っていたのだから人の受け取
り方なんて、感情に左右されやすいものだ。


「どうしたの?何か御用?」

 思わずつっけんどんに返してしまってなんとなく居心地が悪くなったが、彼は余裕の表
情を崩したりなんてしない。


「いいや、家の用で来たのだけれど叔母さまに夕食にお呼ばれしてね」

「あら」

「だから、一緒に食べようと思ってさっちゃんを待っていたんだよ」

 にっこりと笑うその表情にはまったく屈託がなくて、つい一年前までその笑顔に胸が高
鳴っていたことを不意に思い出してしまった。


 優さんと、お母さまと一緒にとる夕食は思いのほか和やかで、そして安らかなものだっ
た。一緒に過ごす時間に緊張を伴わなくなったのはいつからだろうか。胸の高鳴りも、嫌
悪もその全てが昇華されて、ただ穏やかに隣に座ることができた。軽やかな会話は耳に心
地よい
BGMのようだ。こうしていると改めて、自分は昔この人が好きだったのだと、冷静
に考えることができた。

 そして、そんな考えに至る度に祐巳のことを思い出して。

 祐巳のことしか考えられなくなる。

『私も、お姉さまのこと大好きです』

 あの梅雨の日に、自分を抱きしめてくれた祐巳の体温が染み付いた胸が締めつけられて
泣きたくなる。


 優しさだけじゃない、安らかな気持ちだけでもない。それなのに、祐巳から与えられる
全ての感情が、祥子の胸を甘く、激しくかき乱す。


 祐巳が好き。

 間違いなく、お父さまより、お母さまより、優さんより、誰よりも。

 それなのに、どうして祐巳を好きだとこんなにも切なくなるのだろう。

 こんなに好きになるなんて思わなかったのに。

 自分でも気づかないうちにその気持ちはどんどん募っていって、いつの間にか自分でも
抑えきれないくらいにいっぱいになって、今にも溢れ出てしまいそうだ。

 だけど、それを簡単に口にしてしまうことは許されない気がして、祥子は何も言えなく
なる。


 軽やかなBGMは滑らかに流れ続けているのに思考はそれとは切り離されて、いつの間に
か祥子はそこから取り残されてしまった。



                                


「ごちそうさま」

 見送りに出た玄関先で、優さんはにっこりと笑って祥子に片手を挙げて見せた。

「でも、驚いたな。正直」

「?」

 そのまま扉を開けて出て行くのかと思っていたのに、優さんはそう呟くと小さな笑い声
を漏らした。


「さっちゃんが僕と一緒に食事するなんて、久しぶりだろう」

 合宿は別だよと付け加えて言われて、そうだったかしらと思いをめぐらせる。親戚だか
ら顔を合わせることは多々あるけれど、そう言われれば一緒に食事をしたのは久しぶりだ
ったかもしれない。優さんが近くにいることにあまり抵抗を感じなくなっていたから、そ
んなこと大して気にも留めていなかった。


「祐巳ちゃんのおかげなのかな」

 物思いにふけっていたら、優さんがため息を吐き出すかのようにぽつりと呟いた。不意
に投げかけられた言葉だったのに、それは的確な指摘だった。そしてそれは嫌なものでは
ない。往々にして真実に近いその言葉に、頬が緩んでいくのが自分でもわかった。


「本当にごちそうさま。また来るよ」

 もう一度軽くため息をつくと、今度こそ優さんはドアノブに手をかけた。

「待って、優さん」

 向けられた背中に祥子は無意識に声をかけていた。何を言いたかったのかはわからない
。ただ、表面上は穏やかにこのまま優さんと過ごしていていいのだろうかとふと思ってし
まったのだ。


「だめだよ」

 顔だけをこちらに向けて振り向いた優さんの顔にはさっきまでの微笑はなかった。まる
で祥子の気持ちを察しているかのような、いや、祥子の中にひしめく整理されていない感
情まで見透かすような視線に、一瞬身がすくんだ。


「僕はあの時、自分の気持ちを包み隠さずに話した」

 あの時。皆まで言わなくともそれは祥子が婚約解消を望む発端となった日を指している
事がわかった。


「君はそのことを拒絶したけれど、僕の気持ちは変わってない」

「・・・・・・」

 オブラートに包むように優さんはそう言ったけれど、あの時の言葉や感情が、その光景
とともに鮮明によみがえって、身体中の血液が沸騰しそうだ。それだけで、頭の中がはじ
けそうになるのに、優さんは更に意味不明な単語を羅列して、祥子めがけて投げつけてき
た。


「でも、君は?」

 デモ、キミハ?

 何を指してそういったのか、たった五文字の音はまったく要領を得ない。ただ、その声
にどこか非難するような色が含まれていることだけはわかる。祥子が言葉を捜して言いよ
どんでいると、優さんは淡々と言葉を次いだ。


「あの時とは違う理由で、婚約の破棄を望んでいる。違う?」

「それは・・・っ」

 違わない。そう続けることが誠実な対応だということはわかっているのに、思考が絡ま
って喉が詰まる。


 祥子には明確に結婚の意志がない。でもそれは、優さんが同性愛者だからでも、外に子
どもを作れと言われたからでもない。彼に問題があるからという理由ではなく、今はそれ
とはもっと別の次元で祥子には結婚の意志がないのだ。

 それなのに、漠然とした不安が薄い霧のように祥子の頭上に立ち込めて、そのことを認
めようとしない。だけど、優さんはそれを許さないかのような厳しい口調で言い切った。


「それが答えられるようになってから言ってくれ」

 一瞬だけ、今までに見たこともないくらいに真剣な顔をしてから、優さんは扉の向こう
へ消えた。数瞬遅れて聞こえてきた、扉の閉まる無機質な音だけが響く玄関に取り残され
て、祥子はそのまましばらく立ちすくんでしまった。




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