恋におちたら 13




 だって仕方ないじゃない。

 柏木さんは祥子さまの婚約者なのだから。

 昨日から何度、心の中でそう繰り返したのだろう。

 バスの中で、自分の部屋で、ベッドの中で。一夜明けてもなお、そんなことばかり考え
ている自分はどこかおかしいのではないだろうか。


 夏の雨は激しくて。大きな雨粒が叩きつけられる窓からは外も見えない。

「祐巳、話があるのだけれど」

 祥子さまがそんなことを言い出したのは、事務作業が終わり自分たちを含む薔薇の館の
住人が一息ついて、帰り支度を始めた頃だった。


「は、い・・・どうかされましたか・・・?」

 祥子さまの口調から「二人で話をしたい」という気持ちは察せられたけれども、なんだ
か気まずくて、祐巳は曖昧に返事をした。できれば、この場で終わらせて欲しかった。


「・・・二人で話をしたいの」

 だけど、祥子さまはそんな祐巳の気持ちを汲み取ってはくれなかった。

「あ、それならお邪魔虫はさっさと退散するよ」

 令さまが気さくにそう言って、由乃さんや志摩子さん、乃梨子ちゃんを促す。

「・・・あ、あの・・・」

 祐巳がおろおろしている間に、令さまたちは書類を整理して、それぞれの鞄を手に席を
立った。


「ごめんなさいね」

 祥子さまは席を立たない。僅かに微笑んで立ち上がった四人を目線で見送る。
 だけど。

「あの・・・っ!」

 自分で思っていた以上の声の大きさに、当たり前だけど祐巳以外の人たちは言った本人
以上に驚いていた。目を丸くしてこちらを振り返る令さまたちや、僅かに眉を顰めた祥子
さまの視線が痛い。


 でも、今この場に祥子さまと二人で残されたくなかった。

 昨日から泣いて腫らしてしまった瞼をなんとか冷やして登校したけれど、お昼休みに薔
薇の館に行く気にはなれなくて。それでも招集が掛かっている放課後に、祥子さまと二人
きりになることがないようにと祈りながら、ここへやって来たのだ。


 柏木さんと一緒に去り行く祥子さまの姿が脳裏に焼きついて離れなくて。

 冷静になんてなれなかった。

 二人きりになったら最後、泣いて、すがり付いて、妹ですらいられなくなるような気が
して。


 今だけは、二人きりになりたくなかった。

「どうしたの」

 それなのに、祥子さまは心配そうな表情で立ち上がると、迷うことなく祐巳の側まで来
てくれた。


「何も、あなたを叱り付けようとか、そういうことではないのよ。祐巳」

 小さな子を宥めるように、優しい声で祥子さまが祐巳を呼ぶ。慈しむような眼差しで祐
巳をみつめる。


 だけど、祐巳にはもう、そんな風に祥子さまに優しくしてもらう資格なんてない。

 次第にぼやけていく大好きな人の輪郭線をみつめながら、もうだめだと思った。

「もう、いいんです・・・」

 ぽつりと落とされた呟きのように、涙が一つ零れて。

「祐巳・・・?」

 揺らめく視界に、祥子さまの手がこちらへ向かって伸ばされてくるのが映った。

「や・・・っ!」

 それは、あの夕方のようにやんわりとした逃避ではない。祐巳に触れてくれようとする
祥子さまの手を明確に拒んで振り払った。祥子さまの美しい顔が、驚きで強張るのが見え
る。


 だけど、その顔が不快に歪むのを見るのが怖くて。

 もう知らないと、突き放されるのが怖くて。

「祐巳!?」

 祥子さまの次の言葉を待たずに祐巳はその場から逃げ出した。

 転がるように階段を駆けていく後ろから、何度も何度も祐巳を呼ぶ声が聞こえたけれど。
振り向くなんてできなかった。


 夏の雨は激しくて。

 激しい雨は、涙まで流してくれる気さえして、玄関の扉を開けた勢いのまま、ただ走っ
た。


 祥子さまにあわせる顔なんてなかった。


                                


「待ってください」

 走り去る祐巳をすぐに追いかけようとしたところで、志摩子に静かな声で呼び止められ
た。


「志摩子、悪いけれど急いでいるの」

 苛立ちを隠さずに振り返るけれど、志摩子は悠然と祥子を見据えていた。

「追いかけてどうするつもりですか」

「は?」

 思いもよらない言葉を投げつけられて、祥子は露骨に顔を顰めてしまった。どうするも
何も、あんな祐巳を放って置けるわけがないではないか。それなのに、志摩子は彼女にし
ては珍しく、張り詰めた表情で更に言葉を重ねていく。


「同じことの繰り返しなら、傷は深くなるだけです」

「・・・何が言いたいの」

 苛々と祥子が返すと、志摩子はまた唇を開く。

「どうして追いかけるのですか」

 それは、先程の質問と同じような言葉だったけれど。

『結局、祥子は祐巳ちゃんのことをどう思っているの』

 令の真剣な表情と。

『それじゃだめだよ』

 優さんの優しい声と。

『私も、お姉さまのことが大好きです』

 祐巳の笑顔を思い出させるような、不思議な質問だった。

 呼び止めたのは、傷つけるためじゃない。伝えなければいけないことを、伝えようと思
ったからだ。


 それでも祐巳が去っていってしまったのは。

 きっと、もう既に傷ついていたからで。

「決まっているでしょう」

 だけど。
 もう、逃げたりなんてしたくなかった。

 祐巳からも。

 自分からも。

 令を、由乃ちゃんを、それから志摩子をみつめて、はっきりと告げる。

「抱きしめるためよ」

 祥子はそう言って身を翻した。
 ああ、そう言えば。

『志摩子には、私の方がいいに決まっているからじゃない』

 一年前の夏の日に、聖さまはこんな気持ちだったのだろうか。ちょっと違うかもしれな
いけれど。

 階段を走りながら祥子はふとそんなことを思って、目を細めた。

 ただ一人の人へまっすぐに突き抜けていくこの気持ちは、確かに誰に譲れるものではな
かった。




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