恋におちたら 12




「びっくりしたよ」

 そう言って笑うその人の向こう側には、茜色に染まる空が一面に広がっていた。河原沿
いを走る車からは、夕焼けに揺れる水面まで見渡せて、瞳に映るのは眩いばかりの赤一色
だった。


「さっちゃんから『会いたい』なんていうの、初めてじゃないかな」

 視線は前に向けたまま優さんはそう言って、やっぱり笑う。夕日に照らされた横顔が、
なんだか知らない人みたいだ。


「そうね」

 答えながら視線を前へ戻すと、彼方にきらめきながら溶けていく茜雲が流れていた。

「もしかして、デートに誘われたのかな」

 しばらくの沈黙の後、優さんが冗談めかしてそんなことを言うから。
 とくんと小さく心臓がはねたけれど。

「・・・残念だけど」

 気づかないふりをして笑って見せたら、今度はちくりと胸が痛んだ。
 視界の先で、幻想的なほどに美しい薄紅色の景色が流れては消えていき、殊更に祥子を
感傷的にさせる。


「それじゃあ、この前の話の続き?」

「・・・・・・」

 柔らかい口調で本題を投げかけられて思わず息を呑んだけれど、すぐ隣の優さんは穏や
かな微笑を浮かべたままだった。


 しばらく続いていた直線道路から、緩やかなカーブに差し掛かると、優さんは滑らかな
動きでギアを切り替える。徐々に速度を落としていく車の中に一つ、苦笑いのようなため
息が零れて沈黙に吸いこまれた。いつの間にか流れていた景色は立ち止まり、飛沫のよう
な夕焼けがフロントガラスを照らしていた。その向こう側に、小さな子どもの集団が会釈
をしながら横切っていくのが見える。


「きちんと振ってくれないと」

 唐突に投げつけられた言葉に声も出ないくらいに驚いて横を向くと、優さんが喜怒哀楽
のどれにも属さない、静かで、真剣な表情で祥子をみつめていた。


 車がまた、ゆっくりと動き出す。

 タンタンタンタン―――・・・。

 早く、短く、心臓が脈打ち、喉の奥で呼吸が競りあがっていく。

「・・・・・・私は・・・」

 搾り出した声が、か細く掠れて、消え入りそうだ。

「やっぱり婚約を解消したいの」

 一言一言を搾り出すたびに、かすれた喉から血が滲みそうなくらいに、苦しくて。それ
でも、途中で止めてしまえばそれ以上は声にもならない気がして、一息に言い切ろうとし
た。


「あなたへの気持ちがないのに、結婚なんてできない。父や祖父と同じことをしたくない
し、あなたを縛るつもりもないから、だから・・・」


「さっちゃん」

 ギアを握っていた左手が、すっと目の前に突き出されて、祥子の言葉はそこで止まって
しまった。


「?」

「それじゃだめだよ」

「え・・・」

 手のひらから視線をはずすと、優さんは前を向いたまま、悲しいようなおかしいような
顔で微笑んでいた。


『結局、祥子は祐巳ちゃんのことをどう思っているの?』

 不意に、令の言葉が浮かんできて。
 目の前が霞んでいくように泣きたくなった。

 どうしてこの人は―――。

 そう考えると、胸が熱く焼けていくように喉が詰まって、涙が溢れそうだった。
 こんなふうに。

 立ちすくみそうな朝、この人は何度、背中を押してくれたのだろう。

 不安な夜、この人は何度、手を握ってくれたのだろう。

 数え上げればきりがないほどに、どうしてこの人は、微笑みながら優しさを与えてくれ
るのだろうか。

 揺らめく視線の中で、薄紅色と、優さんの微笑が溶け合って零れてしまいそうだ。

「私は―――・・・」

 泣きたいほどに霞んでいく胸の痛みの真ん中に、ぽつりと落とされた温もりが憎らしい
ほど穏やかに全身に漣をたてる。


『悪いけれど、男しか恋愛の対象じゃない』

 悲しかったことも。

『他所で子どもを作って欲しい』

 悔しかったことも。

『さっちゃん』

 その笑顔の前では霞んでいくほどに。

 ―――間違いなく、私はこの人に恋をしていた。

 身体中に広がっていくその気持ちに、もう疑いも嫌悪も見つけることはできない。

 ギアを動かす手に、自分の手を握ってくれる大きな手がだぶる。目の前の微笑は、いつ
まで経っても変わることなく、瞼の裏に焼きついて。一緒に笑いあっていた時間がいとお
しい。


「祐巳が好き・・・」

 嫌いになったわけでも、離れなければならないわけでもない。
 まっすぐにこの人へと向かっていた気持ちを、優しい思い出にできるほど。
 ただ。

 祐巳を愛している。

 滲み出そうになった涙をせき止めようと一瞬だけ目を閉じる。次の瞬間広がった視界の
先に見える優さんの端正な横顔を、輝かしい赤色が不躾なほどに照らして、また目が眩ん
でしまいそうだ。


「祐巳が好きなの」

 もう一度、祥子は同じ言葉を重ねた。

 他には何もなかった。

「そうか」

 しばらくの沈黙の後、優さんはそう言ってただ優しく微笑んだ。前をみつめたままの横
顔が眩しい。


「ええ」

 微笑む優さんに倣って前を向き、まっすぐにみつめた先には。
 涙に滲んだ視界の中で、揺らめきながら輝く薄紅色の空が広がっていた。

 隣に座る優さんの瞳には、どんな色の空が映っているのだろうか。



                                     BACK  NEXT

inserted by FC2 system