恋におちたら 11




「祐巳さん、今から薔薇の館へ行かれるの?」

 放課後の渡り廊下で志摩子さんに会った。

「うん。あ、でも、これを音楽室へもって行ってから」

 日直でもないのに、音楽の先生から楽譜の運搬なんてお使いを頼まれたのは、たまたま
先生の目の前を通り過ぎたのが、職員室近くの廊下が今週の掃除担当エリアである祐巳だ
ったという不幸でしかない。


「そうなの。それじゃあ、そこまで一緒に行きましょう」

「うん」

 渡り廊下を抜けて昇降口前の階段までのちょっとの間だけど、せっかく友人と一緒にな
ったのだからわざわざ離れて歩く必要もない。素直に隣に並ぶと、志摩子さんは自然に楽
譜を持っていない方の祐巳の手を取った。


(あ・・・)

 それは突然のことだったけれど、まったく嫌な感覚ではなくて。祐巳は拒否することな
く、志摩子さんの手を握り返した。雪のように白い志摩子さんの手は、凍るように冷たい
わけではないけれど、ひんやりと心地よく、そして懐かしい感じのする体温だった。


「志摩子さんの手も冷たいね」

「も?」

 思わず祐巳が呟くと、志摩子さんにしては珍しく、間髪いれずに突っ込まれてしまった。


「あ、えと・・・祥子さまの手も冷たいから」

 ぼそぼそと言い訳のように答えると、頬が赤くなっていくのが自分でもわかった。

「そう、祥子さまの手も冷たいのね」

 もじもじとまごつきそうになったところで、志摩子さんがおかしそうに微笑んで、おっ
とりとそんなことを言うから。


「あ、でも、毎日繋いでいるわけじゃないよ」

 それこそ言い訳のように、慌てて説明をしたけれど。

「あら、そうなの?」

 志摩子さんは「意外」という感じで目を丸くした。確かにほぼ毎日繋いでいるが、他の
人のいる前では、祐巳と祥子さまはそんなにべたべたしていないつもりなのだけれども。
何よりも、昨日は手を繋いでいない。


「でも祥子さまと手を繋ぐのは、好きでしょう?」

 昨日のことを思い出して、つきんと胸に痛みが走ったのと同時に、志摩子さんの声が聞
こえて。

「好き」


 考えるまもなく祐巳はそう答えていた。

 祥子さまと手を繋ぐのは、好き。

 大好きな祥子さまとだから、好き。

 祐巳にとって、それは当たり前のことで。

 それなのにどうして、昨日は手をつなげなかったのだろう。

「・・・・・・」

 祥子さまの指先が祐巳の手に触れた時、小さな電流が走ったみたいに感じた。でもそれ
は嫌な感覚ではない、むしろ祥子さまを待ちわびていた手が喜びに震えるような甘い痺れ。
それなのに、気がつくと拒否するみたいに、祐巳の手は祥子さまの指先から逃げていた。


『え・・・?』

 びっくりしたみたいに固まって、それから一瞬だけ瞳を揺らめかせてから伸ばしかけた
指先を下ろした祥子さまの顔が、脳裏に焼きついて離れない。


 傷ついたような表情の祥子さまに、胸が痛くて仕方がないのに、祐巳は動けなくて。も
うそれ以上は自分から手を繋ぐこともできなかった。


「志摩子。あ、祐巳ちゃんも。ごきげんよう」

 志摩子さんと手を繋いだまま、俯いていたら、階段の方から明るい声が聞こえて祐巳は
顔を上げた。


「あ・・・」

 そこには、にこにこ顔の令さまと、特に何の感情も読み取ることのできない表情をした
祥子さまが立っていた。


「ごきげんよう、令さま、祥子さま」

 にこやかにそう挨拶する志摩子さんとは対照的に、祐巳はただ「ごきげんよう」としか
言うことが出来なくて、そのまま何となく俯いてしまった。


「二人とも、これから薔薇の館に行くの?」

「ええ。でも祐巳さんは音楽室へ寄る用事があるので。ね、祐巳さん」

「あ、うん」

 令さまの言葉に志摩子さんが答えるのを聞いて、祐巳も曖昧に相槌を打つ。三年生二人
も、薔薇の館へ行く道中で鉢合わせたようだ。特に招集が掛かっているわけではないけれ
ど、この分だと由乃さんや乃梨子ちゃんも薔薇の館へ集まるだろう。それならば、さっさ
と先生のお使いを終わらせて、お姉さま方のお手伝いをしないと。そう思って「すぐに行
きます」と音楽室へ急ごうとした祐巳の耳に、祥子さまの透き通るような凛とした声が届
いた。


「それなら祐巳はもう帰ってもいいわ」

「え?」

 一瞬何を言われたのかわからなくて、駆け出そうとした足が固まった。

「学園祭の打ち合わせをするだけだし、蕾にしてもらわないといけないことは今はないか
ら」


 少し驚いたような顔をしている令さまや志摩子さんを他所に、祥子さまは淡々とそう告
げて。


「ごきげんよう、祐巳」

 何ともそっけなくそう言うと、さっさと祐巳に背を向けた。

「ちょっと祥子・・・まったくせっかちなんだから。じゃあ、祐巳ちゃんまた明日ね」

 令さまは祥子さまの行動に大きく肩をすくめて見せてから、おどけた口調でそう言って
くれたけれど。向けられた背中があまりにも悲しくて。


「祐巳さん」

 気遣うような視線を向けてから、「ごきげんよう」と言いながら繋いでいた指先を離す
志摩子さんに、一層胸が締め付けられた。


「ごきげんよう・・・」

 呆然と眺めた先で、令さまと志摩子さんが祥子さまに追いついていて。三人で並んで歩
いていく後姿に涙がじわりと滲んでしまったのだった。



                                    


「学園祭の打ち合わせなんて、初耳なんだけれど」

 令が横でそう呟いた。

「さっき初めて言ったのだもの」

「あ、そ。ほんと紅薔薇さまは横暴ね」

 小憎たらしくそういう令に、眉を顰めて見せたけれど。令はそんなことでひるんだりは
しないようだ。


「祐巳ちゃん、悲しそうな顔してたよ」

「・・・・・・」

 言われなくてもわかっている。突き放すような言い方であると重々承知で言い放ったの
だから。


「いいの?」

 祐巳を傷つけていいはずがない。
 だけど。

「・・・どちらにしても、今日は予定があるから、祐巳とゆっくり話をしている暇はない
の」


 もう、うやむやになんてできやしないのだ。

「・・・・・・意固地」

 令は呆れたようにため息をついたけれど、そのままぽんぽんと祥子の肩を叩いてくれた。
その横に、一瞬だけ何か言いたそうな表情をしてからすぐに前を向いた志摩子が見えたけ
れど、気付かないふりをして祥子もただ前を見る。

 視線の先に映る並木の若葉が眩しくて、祥子は微かに目を細めた。





 放課後の音楽室は、不必要なくらいに静寂に包まれていた。

「これでよし、と」


 生徒用の棚へ番号順に楽譜を戻すだけの単純な作業はすぐに終わった。音楽室へ移動す
る時間の方が長いくらいだ。


「はぁ・・・」

 お使いを済ませた後の安堵感からか小さなため息を零すと、そのまま脱力して近くにあ
ったピアノの椅子に座り込んでしまった。


 『祐巳はもう帰ってもいいわ』

 だけどそれがよろしくなかったらしく、気を抜くと先程の祥子さまの言葉が祐巳の意思
とは関係なく頭の中で再生された。気を紛らわそうと、向かい合ったピアノのふたを開け
て、白い鍵盤に指を置く。


(久しぶりだなぁ)

 いつだったか、今と同じように一人の音楽室でこんな風にピアノに触れたことがあった
っけ。そんなことを思いながら、祐巳の指は自然に聞きなれた旋律をたどっていた。


 ミ――――。

 ファ―――。

 ソ――――・・・。

 グノーのアヴェ・マリア。

 はじめて祥子さまを意識した時も、この曲が流れていた。優しく、穏やかな旋律はいつ
だって鮮明に思い出すことができる。それなのに、今日の旋律はなんだかもの寂しくて。
だけどそれは、右手だけでたどたどしく奏でているせいではない。


 ああ、そうか。

 今日は祥子さまと一緒に弾いていないからか。

 まだ、姉妹になる前に、二人きりの音楽室で祥子さまと連弾をしたのもこの曲だ。連弾、
といってもそのために作られたわけではない曲を二人で弾いていただけだけれど。

 祥子さまの匂いや、肩に落ちる髪にドキドキしたことも、二人の心と心が重なっていく
ような心地よい感覚も、きっといつまでも忘れることなんてない。


『ごきげんよう、祐巳』

 胸の中に暖かい気持ちが流れているのに、頭は妙に冴え冴えとして、祥子さまの冷たい
声がまた、再生される。

 向けられた祥子さまの背中が悲しかったのはきっと、「祐巳はもういらないわ」って言
われたみたいに感じたからだ。


「あ・・・っ」

 不意に音が外れて、旋律はそこで途切れてしまった。

「―――・・・っ」

 二人で連弾をしていた時も、旋律は途中で途切れてしまった。祐巳がわざと音を外した
からだ。


 重なっていた心が離れていくのも、祐巳が音を外してしまったからなのだろうか。

 祥子さまの前に立つことも躊躇って。

 祥子さまから差し伸べられた手を取ることすらできなくて。

 振り払うようにして逃げた手の痺れと、強張ったままでこちらをみつめる祥子さまの表
情が、交互に蘇って涙腺を刺激する。


 祥子さまと祐巳の『好き』は違うものなのかもしれない。

 だけど。

 その事で、祥子さまを避けたりするのは間違っているのかもしれない。

 頭ではわかっている。

『妹として、お姉さまのことが大好きです』

 そう言えたなら、きっと、祐巳と祥子さまは今まで通り仲の良い姉妹のままでいられる
ことも。


 だけど。

「・・・えっく・・・」

 耐え切れなくなって、喉の奥から嗚咽が漏れると、それを合図にしたみたいに涙が溢れ
て、鍵盤に乗せたままの手の甲に落ちた。


 言えないよ。

 心が悲鳴を上げている。子どもみたいに、高く激しく。

 祥子さまと、キスしたかった。

 そういう好きだと自覚してしまってからでは、「妹として好き」だなんて言えない。

 向けられた背中が悲しくて、去り行く後姿に涙が滲んだのは。

 置いていかれそうな寂しさと同じくらい、本当は、祥子さまと並んで歩く二人が羨まし
くてしかなかったからだ。


 離れるのが悲しくて仕方がない、好き。

 独り占めしたくなるような、好き。

 キスしたくなるような、好き。

 どうしていいのかわからなくなるような、好き。

 それはもう、「妹としての好き」なんかじゃなかった。

 大きな窓から傾きかけた陽の柔らかな光が注がれて、止めることもできない涙の粒が、
手の甲に落ちて跳ね返るたびに薄紅色に輝かせる。


 きらきらと輝く涙の雫は。

悲しいくらいにきれいに見えた。


                                


「え・・・?」

 いつまでも、悲劇のヒロイン気取りはまずいでしょう。

 そんなことを思えるくらいの冷静さを祐巳が取り戻す頃には、本格的な夕焼け色が空全
体を包んでいた。それなのに、「もしかしたら、祥子さまたちももうお帰りになる時間か
もしれない」とまでは考えることができなかったのだから、やはり気持ちは落ち着いてな
いままなのかもしれない。それとも、泣きすぎで頭がぼんやりしちゃったのかもしれない。


 だから、すぐにはわからなかったんだ。

「お姉さま・・・?」

 マリア様のお庭の向こうに見える、美しい黒髪が流れる背中が祥子さまのものだと言う
ことも。


「?」

 背の高い門の外に待つ赤い車と、すぐ側で腕を組んで佇む微笑の持ち主が柏木さんだと
いうことも。


 だけど、祥子さまが立ち止まって二、三言柏木さんと言葉を交わしている様子を見なく
ても、二人が待ち合わせをしているのだろうことは察せられて。柏木さんが恭しく扉を開
けた助手席に、祥子さまは滑らかに入り込む。


「・・・・・・!」

 柏木さんが運転席側に回りこんで扉を閉めると、まるで当然のことのように、車は自然
な速度で発進していった。


「お姉さま・・・っ」

 足早に背の高い門の外へたどり着いた時には、エンジン音すらも聞こえなくて。祥子さ
まがついさっきまでこの場所へいたことが幻のようだ。


 落とした視線の先には、ただ、自分の影が長く伸びているだけ。



 旋律はもう聞こえない。



                                     BACK  NEXT

inserted by FC2 system