恋におちたら 10




 避けられているのだろうか。

 そんなことを思う時点で、自分にやましい気持ちがあるに違いないのだろうけれども。
それに、避けられていると言っても、昨日、由乃ちゃんが喚き散した昼休みから、放課後
の今まで会っていないだけだ。学年が違う祐巳と自分が特に約束もしていないのに会うこ
となんて滅多にないのだ。意識しすぎている、それとも本当はただ会いたいだけなのかも
しれない。


 そんなことを思いながら木製の階段に足をかけると鈍く軋む音がして、祥子はそっとた
め息をついた。


 祐巳は何をしているのだろう。

 階段を上りきり、扉のノブに手を掛けると前触れもなくそんな言葉が浮かんできた。気
がつけばそんなことばかりを考えている自分に呆れてしまう。

 苦笑いのように僅かに口元を上げてもう一度ため息を吐き出してから、扉を開けようと
したところで、ノブが手から逃げた。


「え・・・っ?」

 向こう側から開けられたのだとわかったと同時に、先程まで考えていたその人の顔が見
えた。


「お、お姉さま・・・?」

「祐巳・・・」

 先程まで祐巳の事を考えていたせいか、祐巳がそこに立っていることがまるで魔法のよ
うに感じられて、思わず軽く仰け反ってしまった。


「あの・・・ごきげんよう」

 思いがけず目の前に人が立っていたことに驚いたのであろう祐巳も、しばらく呆然と祥
子の顔を見つめていたが、すぐにまごつくように俯いて、小さな声でそう言った。


「・・・ごきげんよう」

 少しだけ、声が掠れてしまったのが自分でもわかった。

 それは不思議な感覚だった。

 戸惑いや焦りや、不安が、祐巳を見ただけで全て吹き消されるように、甘い高揚感がゆ
っくりと押し寄せて。激しく打ち付けられるのと同時に、際限なく胸が高鳴る。


 ああ、こんなにも。

 かき乱された胸の中で、もうたった一つの気持ちしか見つけられない。

 こんなにも、この人が好きなのか。

「あの・・・」

 吸い寄せられるように、右手が祐巳の腕に触れようとした瞬間に、躊躇いがちな声が聞
こえて祥子は固まった。


「え?」

「・・・えっと、今日は皆さまいらっしゃらないみたいで・・・」

「そうなの」

 祐巳の声で我に返って右手を下ろす。なぜだか悪戯がばれた子どものように、先程まで
の高鳴りとは別に脈拍が乱れたような気がした。


「部活や委員会があるそうなので、私も掃除に来ただけなんです」

 そういえば、移動教室の際にすれ違った令がそんなことを言っていたような気もする。

「そう・・・では、私も特に用事もないから帰ろうかしら」

 とり急いでしなければならないような仕事はない。もちろん、誰もいない薔薇の館に残
ってしばらくくつろいでも良かったけれど、祐巳が帰った後の部屋に残されることに少し
ばかり抵抗を感じて祥子はそう呟いた。


「祐巳も今から帰るところなのでしょう?」

「あ、はい」

 はにかんだようにそう答える祐巳に、また、心拍数が跳ね上がる。

「それなら、一緒に帰りましょう」

 うるさいくらいに耳に付く自分の早鐘を感じながら、願望ともいえる提案をする。

 いつもしていることじゃないの。

 誰に聞かせるわけでもなく心の中で言い訳をしながら、それを祐巳に気取られてしまわ
ないように微笑んでみせると、祐巳の方こそ満面の笑顔を浮かべてくれた。


「はい・・・っ」

 祐巳はただ自分を慕ってくれているだけかもしれないのに。

 うれしそうに頬をほころばせて、目元を緩める姿に期待してしまう。

 反対に、祐巳の想いが思慕ではない愛情だとしたらと思うと、それに応える自信がない。


 祐巳の表情一つで、ここまで思考が乱されるなんて、自分はどうかしている。

『結局、祥子は祐巳ちゃんのことをどう思っているの』

 不意に令の言葉が脳裏を掠める。

 それに答えた時の気持ちに嘘なんてない。それなのに、祐巳を前にするとどうしてこん
なにもうろたえてしまうのだろうか。


「もう鍵を閉めた方がいいですよね」

「え?・・・ええ」

 玄関を出たところで祐巳の声が聞こえて祥子は夢から覚めたようにぼんやりと顔を上げ
た。階段を下りただけなのに、ずいぶんと考え込んでしまったようだ。


「放課後になると涼しいですね」

 鍵を閉めながら、独り言のように祐巳はそう呟いて微笑む。

「そうね」

 見上げると、まだ昼間のような青さの空が広がっていたけれど。彼方にうっすらと黄色
くぼやける雲が見えた。


「お待たせしました」

 そのまま空を眺めていたら、祐巳の声がまた聞こえてきて。視線を下ろすといつも通り
の可愛らしい笑顔を浮かべた祐巳が立っていた。


「では、帰りましょうか」

 だから、たとえ祥子の胸の中がどんな状態になっていたとしても、それはいつも通りの
ことだった。


 うるさいくらいに高鳴る心臓を宥めながら、手を繋ぐために祐巳の左手に指先を伸ばす。


 何かの習慣のように。

 だけど、それ以上の気持ちを持って。

「え・・・?」

 それは一瞬だった。

「あ・・・」

 触れさせた先の手が、強張って。

 振り払うことこそなかったけれど、やんわりと逃げた。

 今度こそ、幸せな夢から覚めたように祥子は目を見開いて。固まってしまった瞳の中に、
同じように固まった祐巳を映すことしかできなくなってしまった。



                                

 バスを降りると、涼やかな風が髪を撫でた。

 祐巳と別れる時には青色だった空が、今は真っ赤に染まり、夕焼けが祥子の後ろに長
い影を作っていた。


(どうして・・・)

 結局、祐巳と手を繋ぐことはなかった。

 積極的ではないにしろ、おずおずと祥子の手から自分の手を離す仕草は、その行為への
拒否に他ならない。


 拒絶された。

 一瞬、そんな思いが噴出しそうになったけれど。

 呆然とみつめた先の祐巳の表情があまりにも儚げで、祥子は何も言えなくなってしまっ
た。


 悲しげに顰められた眉と。戸惑いに揺れる瞳と。もどかしげに噤まれた口元に、言いよ
うのない感情が湧きあがった。


 それは。

『お姉さま』

 あの梅雨の日に、祥子に縋ろうとした日の表情で。

『何でもないんです』

 唇を触れ合わそうとした日の表情で。

 それから。

『私も、お姉さまのことが好きです』

 そう告げてくれた日を思い出させるような、熱。

 そんなこと―――。

「――――――・・・・・・っ」

 唐突に、ある一つの結論にたどり着いて、息を呑んだ瞬間に、打ち付けるような風が吹
き抜けて。


 導かれるように見上げた空には、揺れて溶けてしまいそうな茜色の夕日が浮かんでいた。

 祐巳。

 その名前は、まるで何かの呪文のように呟いた胸の中に広がって。



 帰宅した祥子はただ黙って、自室で電話の受話器を取ったのだった。



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