愛しい人 4



「どうして・・・」


 バスの後部座席に座った祐巳は、ため息のようにそう呟いた。

 暮れ行く街並みが、次々に窓に映っては去っていく。

 あの後、祥子さまは祐巳に先に帰るように告げると、二階の会議室へといってしまっ
た。あんなことがあった後だったから、仲良く一緒に帰るなんて白々しい真似はできな
いのかもしれない。

 祐巳もまた、震える身体を抱きしめたまま、どうしたらいいかなんてわからなかった。
ただ、今は祥子さまと一緒にいることは苦しい気がした。


 だから、帰りのバスには祐巳一人で乗ったはずなんだけど。

「どうしてかなぁ」

「ですから、どうして聖さまがここにいるのかと言うことなんですが」

「それは決まっているじゃない。祐巳ちゃんを抱っこしたいからだよーん」

「ひゃぁ」

 両手を挙げて「がお〜」なんて言いながら抱きついてくるその人は、間違いなく前白
薔薇さまの聖さまであった。


 バスに乗るまでは確かに一人だったんだけど。祐巳が座席に腰を下ろして、扉が閉ま
る直前に、ものすごい勢いで駆け込み乗車をしてきた美人がいた。

 で、まじまじとその顔を眺めると見知った顔。その美人さんも視線に気付くと息を切
らせながら顔を上げて、祐巳と目が合うとにっこりと笑ってみせたのだ。それが、聖さま。


「聖さま。おふざけはそのくらいに・・・」

「おふざけなんかじゃないわよ。祐巳ちゃんの方こそ、抱っこして欲しそうな顔してふ
らふら歩いていたくせに」


「してませんよ」

「ふぅん、じゃあこの涙の跡は何なのかなぁ」

「・・・・・・」

 目ざとい。ふらふら歩いていたのなんて、駆け込み乗車してきた聖さまにわかるわけ
ないのに。どうしてわかっちゃうんだろう。


「まぁ、大方祥子と喧嘩でもしたんでしょ。いつまで経っても新婚さんだね、キミたち」

「・・・・・・」

 つんつんと頬っぺたをつつかれながら、喧嘩と言うのではない気がした。

 祥子さまは怒っていた。きっと、それは祐巳に向けられた怒りに違いなくて。だけど、
祐巳には疚しいことなんて何もないのに。


「・・・祥子さまは、私に苛々するみたいです」

「およ?」

 ぼそりと呟くと、聖さまはきょとんと首を傾げたけど。花寺と学園祭の合同練習をし
ていることを説明すると、納得したような顔をした。


「で、祥子が焼きもちやいちゃったってわけ?」

 ぽりぽりと頭をかきながらそう言う聖さまに、ほんの少しだけ逡巡してからこくんと
頷いた。


『紅薔薇さまにとっては、男性恐怖症とは別の次元で、不安の種になっているってこと』

 うまく繋がらなかった言葉が、今なら何となく分かる気がした。

『それよりも、私の怒りを静めて頂戴!!』

『何でもないなら、こんなところで話し込まなくてもいいじゃない』

 焼きもち、って言ってしまえばそれまでだけど。あんな風に強くそれをぶつけられた
ことはなかったから。


 祐巳だって、そんな気持ちがないわけではない。

 だけど、そんなことを言っていたら、お互い以外の誰とも接することができなくなっ
てしまう。


 だからこそ、由乃さんの言葉が祐巳の中ではうまく処理できなくて。祥子さまの怒り
に言いようのない違和感を感じたんだ、きっと。


「ふむふむ。それで、祐巳ちゃんはそんな祥子に愛想がついたと」

「そういうわけでは・・・」

 大げさなくらいに首を縦に振りながら、聖さまは祐巳をさらに抱き寄せる。「お姉さ
んが慰めてあげようか」なんてことを言いながら。


 だけど。

 愛想がつくとか、嫌いになるとか、そういうことではないんだ。

 祐巳は祥子さまが好きで。誰よりも好きで。だからこそ、そのことで、お互いの大事
なものを失ったりなんてしたくない。祥子さまを独り占めしたいからって、祥子さまと
仲の良い人を嫌いになるなんて、そんなこと絶対にしたくない。


 どうして祥子さまにはそれがわからないんだろう。

 ぐずぐずとそんなことを考えていたら、何だか涙が滲んでしまった。どうやらさっき
までのことで涙腺がゆるくなっているようだ。

 聖さまは、そんな祐巳の様子に微かにため息を漏らして続ける。

「つまり二人っきりになっちゃえば、また仲直りできるってことかな」

「・・・そうかもしれません。・・・でも・・・・・・」

 それでは、二人っきりじゃなくなると、また険悪になるかもしれないわけで。そんな
気持ちを込めて聖さまを見上げると、「あのね」と小さな子をあやすような声が聞こえ
てきた。


「周りが見えなくなるのは怖いけど。周りが見えてたって、すれ違うことはあるよ。お
互い別の人間なんだから」


「え・・・」

「嫉妬や独占欲があるのは当たり前でしょ。それは、キミたちが友達や家族や、いろん
な人たちの中で生きてるって証拠だもの。大事なのはそれに振り回されて、相手の手を
離さないことじゃないの」


 それは、ともすれば投げやりな言葉のようにも聞こえる。

 だけど。

『皆がんばって協力してくれているのよね。私たちもきちんとそれに応えないと』

 その言葉は、何故だか祥子さまの優しい声を思い出させた。

 祥子さまを独り占めしたい。祐巳だけを見て欲しい。できるなら、祥子さまにもそう
思って欲しい。


 その気持ちを押し出そうとする心と、大切な人を失いたくない心と。二つの感情の真
ん中で、祐巳は祥子さまと手を繋いで歩いている。


 祥子さまも、同じなのだろうか。

 例えば祐巳が、小さな焼きもちを焼いた時。祥子さまはどんなふうに、祐巳を受け止
めてくれていただろうか。


 色々な疑問や感情が一度に押し寄せて、百面相も追いつきそうにない。
 頭がパンクしそうになって呻いていると、聖さまが妙に明るい声で言った。

「あ、でもそれも祐巳ちゃんの気持ち次第かな」

「?」

「祥子のこと、許してあげたくないなら話は別だ」

 悪いのは祥子だし。そんなことを付け加えながら、聖さまは片目を瞑ってみせた。

「・・・そんなこと」

 許すも何も。

 大好きだから、こんなにも考え込んじゃうんだ。

 小さく首を横に振ると、聖さまは優しく祐巳の頭をなでてくれた。祐巳より少しだけ
大きなその手の感触は、久しぶりだったけれど。祐巳が落ち込んでいる時に、いつだっ
て自分を包んでくれる手があることに、心から感謝した。しばらくは聖さまのお家の方
向に足を向けて寝ないことにしよう。・・・お家知らないけど。


 そんなふうに少しばかり神妙な気持ちになっていたのに。聖さまは祐巳と目が合うと、
さっきまでの頼れる先輩の表情はどこへいったのか、にやりと怪しい微笑を浮かべた。


「あ、その時は私が責任もって祐巳ちゃんを慰めてあげるから。安心して」

「きゃぁ!」

 頬っぺたに迫り来る唇を必死で避けながら、窓の外へ視線を向けると、街はすっかり
暗くなっていたけれど。入れ替わりに灯り始めた家々の明かりに、青空の中の太陽を思
い出した。


 明日はきっと、仲直りできるから。



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