愛しい人 5



 意気込んで駆け込んだ薔薇の館には誰もいない。というか、祥子さま以外の人が来た
らどうするつもりだったんだろう。


 換気をするために開け放った窓から、まっさらな青空を眺めながら祐巳はふっとため
息をついた。まったく、考えなしな自分が情けない。


(でも、今日は練習日って訳じゃないし。昼休みだし・・・)

 文化祭直前ということも忘れて祐巳は心の中でそう呟く。

 だけど、昨日の今日で、祥子さまがここへ来るのだろうか。ふとそんな疑問が頭を過
ぎって、祐巳は頭を抱え込みたくなった。


 祐巳だって、昨日聖さまに慰めてはもらったけれど、どうしたらいいのかなんて答が
まとまったわけではない。ただ、仲直りしたいな、なんて思っているだけで。


(仲直り、と言っても・・・)

 他の人と変に仲良くしてごめんなさいとか?それって根本的に違うような気がするけ
ど。でも、不安にさせてしまったことに違いはないわけで。


 どうにか自然に仲直りできる方法はないものかと唸っていると、タイミングよくビス
ケットの扉が開いた。


「!うわ・・・っ・・・むぐ・・・」

 扉の向こうの人を見た瞬間、叫び声を上げかけた祐巳は慌てて両手で口を押さえた。

「・・・祐巳・・・」

 幸か不幸か。そこにいるのは祥子さまその人で。いや、この場合はその人でなくては
駄目なんだった。


「・・・ごきげんよう」

「ごきげんよう・・・お姉さま・・・」

 何だか気まずくて祐巳は小さな声で返すのが精一杯だった、それは祥子さまも同じよ
うで、二人して重なっていた視線をぎこちなく逸らす。


 でも、祥子さまは昨日のことがあったから、急いで来てくれたのかもしれない。

 ずらした視線の先に、ほんの少しだけ乱れたタイが見えた。

「あの、お茶を・・・」

 ぼそぼそとそう言ってとりあえずは、祥子さまに背を向ける。作戦会議じゃないけれ
ど、もう少しだけ考える時間が欲しい。むしろ、昨日のことはなかったことにしてもい
いとすら思ってしまった。だけど。


「・・・何も言わないの?」

「え?」

 祥子さまはそうではないようだった。

「昨日のこと、何も言わないの」

 静かな声に振り返ると、祥子さまは眉を下げて、どこか苦しそうな顔で祐巳をみつめ
ていた。


「いえ・・・あの・・・・・・」

 いきなり核心に迫られて、祐巳は軽く混乱してしまった。仲直りするためには、確か
に昨日のことをお互いに確かめ合う必要があることはわかっている。だけど、そのこと
だけを取り上げても、きっと祥子さまは安心してくださらないんだ。それなのに、うま
く言葉が出てこない。


 祥子さまの悲しそうな顔を見ていると、そんなことどこかへ放っぽりだして、キスで
もハグでも自分にできる限りの愛情表現でもって仲直りしてしまいたくなる。


 どうして祥子さまとすれ違っちゃったんだっけ。

「・・・・・・私はどうかしているわ。あんな乱暴なこと・・・」

 一人で目を回していると、小さな呟きが聞こえた。祥子さまの青ざめた顔を見て、祐
巳はやっと昨日のことを思い出した。


 怖かったこと、悲しかったこと。それから、祥子さまの苦しそうな表情も。

 どうしてそんなことになったのか、一生懸命考えて、ぼんやりと浮かんだ疑問を祐巳
は口に出した。


「お姉さまは、祐巳のこと、信じてくださらないですか?」

 言葉にすると、何だか漠然としすぎている気もしたけれど。不安になるってことは、
つまりはそういうことではないだろうか。


 開け放してある窓から、午後のやわらかい風が入り込んでカーテンが揺れる。

 その音に一瞬だけ視線を窓辺に遣ると、祥子さまはそのまま俯いてしまった。

「・・・信じるとか、信じないとかそういう問題ではないわ。祐巳に問題があるのでは
なく。私に欠陥があるのよ」


 早口で捲し上げた言葉をそこで切ると、祥子さまは苛立たしげに唇をかみ締めた。

「私は、あなたが他の人と親密にしているのを見ると、それだけで苛立ちが押さえられ
なくなる。いつもいつも・・・そんなことばかり考えて、あなたを傷つけるわ」


 癇癪を起こすみたいに、手のひらを方の高さまで振り上げてから、ぎゅっとその手を
握り締める。その瞬間、窓辺からまた風が運ばれて、祥子さまの髪をさらさらと吹き上
げた。


 頬を掠める風に、一瞬だけ瞳を開いてから、祥子さまは握り締めていた手をほころば
せて目元を覆う。


「・・・結局、堂々巡りなのよね。きっと」

 崩れ落ちていきそうな声でそう言うと、祥子さまは長いため息をついてから、シンク
の方へと歩いていく。


「お姉さま・・・」

「・・・お茶は私が淹れるから・・・・・・」

 祐巳と目をあわすことなく、祥子さまはそう言って棚から紅茶を取り出した。

 堂々巡りって。それはどうにもならないということなのだろうか。二人の関係が修復
不可能とでも言うのだろうか。


 不安になってみつめるけれど、黒髪が涼しげに揺れる背中は何も言ってはくれない。

 もしかして、お別れなんて言い出しちゃうんじゃなかろうか、祥子さまは。

 そんなことまで思ってしまった。

 だけど。

(え?)

 さっきから、ポットへ茶葉を入れて、カップを用意するというだけの作業なのに、祥
子さまは何度もそれを落としたり、違えたりしている。


 よくよく見ると、その肩はかすかに震えていて。

 もしかして、祥子さまは泣いているのかもしれない。

 風とともに部屋中に注ぎ込まれる午後の日差しを受けた祥子さまの背中は、何だかと
っても儚げに見えて。


 その瞬間、苦しかったり、切なかったり、大好きだったり、諦めたような気持ちだっ
たり、暖かかったり。いろんな気持ちが綯い交ぜにされて、苦笑いのように唇から零れ
てしまった。


 きっと、愛しいってこんな気持ちのことだ。

 そのまま、聖さまの優しい言葉が、胸の中を満たしていく温もりの中にぽつぽつと落
とされて、じんわりと漣を立てていく。


『大事なのはそれに振り回されて、相手の手を離さないことじゃないの』

 離せないよ。聖さま。

 祐巳は、あの時に戻ってそう呟く。

 日差しの中で、さらさらと風になびく黒髪が揺れる背中にそっと近づくと、祥子さま
がすんっと鼻を啜っている音が聞こえて。


 祐巳は迷うことなくその背中に抱きついた。

「・・・っ?ゆ、祐巳・・・?」

 びくっと肩を上下させた祥子さまが可愛くて、髪の毛に顔を埋めるようにしてぎゅっ
と抱きしめる腕に力を込めた。


 それから。

「お姉さまが反省しているのはわかってますよ?」

 祥子さまの心にしっかり届くように、耳元に直接囁く。

「・・・・・・」

 耳から入り込んだささやきが流れ込んでいったみたいに、抱きしめた腕の下で、祥子
さまの胸が震えた。


 祥子さまは、手にしていた茶葉をポットの中にそっと入れると、力なく腕を下ろした。

 祐巳の腕の上に。

 緩々と、祥子さまは祐巳の腕を指先でなぞって。指先をとるとそっと握り締めてくれ
た。優しく握り締めながら、ゆっくりと持ち上げられていく感覚に目を閉じる。


 祥子さまに握られた指先に熱い吐息が当たる。そのままぎゅっと唇が押し当てられる
感覚と一緒に、ぽつぽつと冷たい雫が手の甲を濡らしていくのがわかった。


 目を閉じたまま、ただ祥子さまを強く抱きしめる。

 柔らかい日差しを浴びた部屋に、ゆっくりと紅茶の匂いが充満していく。

 それが風にさらわれて、鼻先に残るのがお互いの温もりだけになるまで。祐巳と祥子
さまはずっとそうしていた。


「・・・・・・大好き」

 祥子さまのその呟きだけで、今はもう充分だった。



                            END



                     BACK  あとがき  TEXTTOP

inserted by FC2 system