愛しい人 3



「本当、着物で歩くのって大変なんだね」


 舞台の上で、二度も着物の裾を踏んで転んでしまった小林くんは、そう言って苦笑い
をした。


「大丈夫?小林くん」

「あー、平気平気。祐巳ちゃんこそ、上げ底して歩くんだから、気をつけたほうがいい
よ。祐麒みたいに頭から転がったら大変だ」


「ふふっ」

 花寺との合同練習日。チーム手芸部は約束どおり全ての衣装を揃えて持ってきてくれ
た。仮縫いとはいえ、今日の衣装合わせ次第ですぐに完成させてしまえるよう、丁寧に
縫製されている。それを身につけての練習だったけれど、普段着慣れていないものとい
うのはどうにも動きづらいわけで。十二単(に見えるような着物)なんてものを身につ
けさせられた花寺の面々にいたっては、一歩進む度に裾を踏み、あちらこちらで床に転
がる鈍い音。

 二度の転倒で済んだ小林くんはまだましな方なのだ。アリスでさえ、控えめではある
がつまずいていたし。祐麒なんて、着物を引きちぎらんばかりの見事なダイブを披露し
たのだから。


 そんなこんなでぼろぼろになりつつも、本日の練習は終了。皆転がりはしたけれど、
台詞はほぼ完璧だった。着物は手芸部にお返しするとして、残りの備品はダンボールに
つめてお片づけ。だけど、それを薔薇の館に持っていく段になって、持ち運びができる
くらいの軽傷者が小林くんだったというわけで。


 並んで歩く小林くんは大きなダンボールを軽々抱えていたけれど。袖を捲って除いた
腕にうっすらと痣ができていた。多分、転んだ時につけたんだろうな。


「中の、一階の物置に」

 ダイブの話から、日ごろ花寺で祐麒がどれだけ怪我するようなことをしているかとい
うのを小林くんが面白おかしく話してくれるものだから、すぐに薔薇の館に着いてしま
った。だけど、扉の前に来て少々手こずってしまった。祐巳もダンボールを両手で抱え
ていたために、中々うまく扉を開けられないのだ。


「あ、開けるよ」

 ぐずぐずしていると、小林くんは先程まで両手で抱えていたダンボールを、簡単に肩
へ抱えなおしてノブへすっと右手を差し出した。


(おお、力持ち)

 些細なことだけど、ちょっと感動しつつ後ろへ付いていくと、物置の扉もすぐに開か
れる。


「荷物は、これだけだよね」

「うん。後は体育館へ戻れば終了、だね」

 手近なところへ荷物を下ろすと、小林くんはぐるりと部屋の中を見渡した。

「それにしても、ここって本当に物置?」

「うん?」

「すっごいきれいに整頓してあるな。うちじゃ、物置って言ったらドアも開けられない
くらい、物が投げ込まれてるんだけど」


「それじゃあ、中にあるものが必要になったらどうするの?」

「あー、どうするんだろう。まぁ、そうなったら来年使う奴らが何とかすると思うけど」

 悪びれもせず小林くんがそういうから噴出してしまった。それを見た小林くんもおか
しそうに笑う。祐麒とはまた違う、男の子の話っていうのも面白い。男子校と女子校だ
から、話をしているだけでも、ちょっとした違いが色々なところに発見できて、なんと
も新鮮だ。


「祐麒もそんな感じで、物品を扱ってたりする?」

「祐麒は、結構几帳面かな。それに今年はアリスがいるから、がさつって言ってもそれ
なりには大事に使っていると思うよ、それぞれね」


「ふぅん」

 二人してその場に座り込みながら、それで、それで、と祐巳が矢継ぎ早に質問しよう
とした時だった。不意に扉が開いたのは。


「?」

 ぎぃっという扉の置く音に振り向くと、そこには体育館で待っているはずの祥子さま
がいた。


「え・・・っ」

 一瞬、目があった祥子さまは、なんともいえない顔をしていて。思わず息を飲み込ん
でしまったけれど、すぐに視線は外されてしまった。


(お姉さま?)

 何だか動悸が早くなるのを感じて黙り込んでしまう。だけど、祥子さまはそんな祐巳
の様子には目もくれず、穏やかな微笑を小林くんへ投げかけた。


「荷物、運んでくださってありがとう小林さん」

「あ、いえ。どうされました?紅薔薇さま」

 さっきまでの崩れた表情はどこへやら。生徒会長のお姉さまを前に小林くんはすぐに
優等生の顔に戻った。


「ええ。今日はもう遅いから、解散しましょうということになったの。花寺の方々もそ
れぞれお帰りになったから、わざわざ体育館まで戻ってきていただくのは申し訳ないので」


「そうでしたか。それはこちらこそ、わざわざすみません」

 好青年らしく、小林くんはまずは祥子さまに「失礼します」と深々と頭を下げてから、
祐巳に向かって悪戯っぽく片目を瞑って見せた。


「ごきげんよう」

 祥子さまも非の打ち所のない優雅な仕草で、部屋から出て行く小林くんに頭を下げる。
小さくなっていく小林くんの背中と重なって、扉の閉まる音がした。


 もしかして、不味かったかな。小林くんと入れ替わるようにして部屋に入ってきた祥
子さまの顔を見て、祐巳は背中に冷や汗が流れていく気がした。


 怒っているわけではないけれど、決して楽しそうではない強張った表情。

「荷物は、これで終わり?」

 ダンボールを挟んで向かい合うような位置で立ち止まると、祥子さまは静かに腰を落
とした。


「あ、はい・・・」

 妙にどぎまぎしながら、それでも祥子さまの声が思ったよりも穏やかなものだったこ
とに安堵して、祐巳は無意味に何度も首を縦に振った。


「・・・ありがとう。重かったでしょう」

 ほんの少し、目元を緩めて祥子さまが言う。

 もしかして、さっきの表情は祐巳の勘違いなのかな。

 上目加減に祥子さまを窺いながらそんなことを思っていると、頬に優しく手が添えら
れた。ひんやりとした祥子さまの手の感覚に、当たり前のように目を瞑る。


「ん・・・」

 目を閉じたまま、頬を撫でる白い手に自分の手を重ねると、しっとりとした感触が静
かに唇に訪れた。


「おねえさま・・・」

 一瞬だけ啄ばんですぐに離されてしまった唇に不満げな声で囁きかける。こちらから
そっと唇を寄せると、祥子さまは撫でていた頬から手を離し、ゆっくりと祐巳を抱きし
めてくれた。


 強く強く抱きしめあって、祥子さまの首筋に顔を埋めると、全身の力が抜けていくみ
たいだった。


「何を話していたの?」

 髪を啄ばまれるのを感じながら、白い首筋にやんわりと唇を這わせていると、唐突に
祥子さまが掠れた声でそんなことを言った。


「?学校のこととか、ですけど・・・特には、何も・・・」

 その声色が、いつかの夕暮れと同じトーンのような気がして。祐巳は慌てて顔を上げ
たけれど。


「祐巳は、いつもそう言うのね」

「え?」

 翳り行く部屋の中で見上げた祥子さまの表情は、どこまでも無機質な感じがした。

「何でもないって、何」

 背中を抱きしめていてくれた腕がゆっくりと離されると、急速に夕闇の寒さが胸めが
けて這い上がってくる。


「あの、お姉さま・・・?」

 なんだろう、この違和感は。

 急に祥子さまが知らない人のような顔をしている気がして身がすくんだけれど。祥子
さまは縮こまった肩に手を置くと、乱暴に祐巳を立たせた。


「え・・・っ?」

 立たされると同時に、目の前の景色が急速に後ろへ下がっていく。背中が壁に打ち付
けられる音が聞こえて初めて、祥子さまが祐巳を押さえつけたのだと気が付いたけれど。


 声を発するよりも前に、祥子さまが押し付けた祐巳の首筋に顔を埋めて、耳たぶに噛
み付く。


「おねえさま・・・?」

 見開いた視界の端に、祥子さまの黒髪が映る。

 何が起こっているのかわからない。

 唇を強く押し当てながら、祥子さまの手のひらが制服の上から身体をまさぐっていく。
許しを請うように祥子さまの背中に腕を回すけれど、そうすると白い手は尚更乱暴に布
地の上を這い回る。


「誰か、人が・・・」

 スカートの裾から入り込んだ指先が、腿から脇腹へ滑らされるのを感じると、考える
よりも先にそんな言葉が口をついて出た。その瞬間だった。


 強く肩を掴まれたと思うと、身体が反転して。目の前に白い壁が広がる。それから。

「それよりも、私の怒りを静めて頂戴!!」

 バァンッと壁に手のひらが打ち付けられる大きな音がした。

「・・・・・・!」

 耳元に聞こえた大きな声と、祥子さまが壁を叩いた音が、鼓膜を直接震わせるように
頭の中で鳴り響く。


 震えているような荒い吐息のまま、祥子さまはまた、乱暴に祐巳の肌の上に、壁に打
ち付けた手のひらを這わせる。


 それは、いつもと同じ、祥子さまの優しい指先なのに。

 タイを解く指先も。

 胸元に這わされる手のひらも。

 腿の間に無理やり入り込もうとする膝も。

 祐巳に触れてくる祥子さまの全部が怖い。

「・・・何でもないなら、こんなところで話し込まなくてもいいじゃない」

 また、力任せに肩を引き寄せられて向かい合う形になると、祥子さまは噛み付くよう
に唇を重ねてからそう言った。


「それで・・・」

 口付けから開放された唇が戦慄いているのが自分でもわかる。

 ただ怖くて。祐巳は消え入るような声で言った。

「それで、お姉さまの気が済むなら・・・」

 それは、祥子さまのためじゃない。

 とにかく早く。その場の恐怖から逃れたかったからだ。だって、祥子さまの目が見ら
れない。これ以上、怒っている祥子さまを見たくなくて、涙が滲んでいく瞳をぎゅっと
閉じるしかできなかった。


 足元から、震えが立ち上る。きっと、もう夕日は沈んでしまったのだろう。どこまで
も冷たい感覚に祐巳はそう納得した。


 目を閉じたまま、どれくらいの時間が経ったのだろうか。不意に祥子さまは長いため
息を吐き出した。


「・・・・・・?」

「・・・・・・済む訳ないでしょう」

 身体を押さえつけていた力が離されるのを感じてそっと目を開けると、祥子さまが吐
き捨てるようにそう言って、背中を向けていた。


「・・・帰りましょう。きっと、他の人も帰っているだろうから・・・」

 向けられた背中が悲しくて。だけど、これ以上祥子さまを刺激したくなくて。祐巳は
ただ頷いて、その後についた。


 俯いた視線の先で、床板はオレンジ色に染まっていて。まだ夕日が完全には落ちてい
ないことを知らせていた。




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