愛しい人 2



「はー、やっぱり花寺が来ると、疲労の度合いが違うわね」


「えー?由乃さん花寺の人、苦手なの?」

「そうじゃないでしょ。苦手とかじゃなくて。いつも以上に気を使うってこと。他校の、
しかも男子生徒に変てこな姿なんて見せられないでしょう」


 いつもの会議室で由乃さんは冷やしておいた紅茶を一気に飲み干すと、そう言って机
に突っ伏した。


(そういうものなのかなぁ)

 お弁当のふたを閉めながら、祐巳はぼんやりと首を傾げた。まぁ、他校の生徒と会う
のは緊張するんだけど。こうも頻繁だと緊張するのも疲れるというか。それに男の子っ
て言っても内一人は祐麒だ。家でごろごろしている祐麒を毎日見ているから、未知の生
命体というわけではないのだった。


「でも、祥子さまもずいぶん慣れてくれたみたいだから。やっぱり花寺の人たちに頻繁
に会うって言うのは良いことかもしれないよ?」


 何と言っても、祥子さまは男嫌い。花寺の学園祭の手伝いも危ぶまれるほどだったの
だ。その次はリリアンの学園祭。手伝いに行くだけよりもずっと、花寺の男の子たちと
接する機会は増える。いつまでも避けて通れる道ではないのだから、早々に慣れてもら
う必要があるわけで。例えよそ行きモードであっても、今日のような笑顔が祥子さまに
見られることはとても望ましいのだった。


「何?」

 そこまで考えたところでふと視線を感じた。その先をたどってみると、突っ伏した腕
から顔だけを上げた由乃さんが、複雑な表情でこちらを眺めていた。


「・・・・・・私、今ちょっとだけ祥子さまに同情したわ」

「へ?」

 何ゆえに。ほんの少しばかり感慨にふけっていただけに、すぐには由乃さんの言葉の
意味がわからなかった。


「そりゃ、紅薔薇さまは始終笑顔だったけどね。考えてみればそれって、小さい頃から
してきたことでしょ、良家の娘さんともなれば。だから、慣れれば良いってものでもな
いと思う」


「お姉さまが、無理してるってこと・・・?」

 なるほど、そういう意見もあるわな。いくら男嫌いでも、それを理由に責任のある立
場にいながら学校行事をボイコットしたり、周りに迷惑をかけていい訳じゃない。潔癖
症の祥子さまなら尚の事、そこのところは厳しく分別をつけていそうだ。だから、どん
なに嫌でも、無理して対応しているのかもしれない。そんな風に納得しかけたけど、由
乃さんからは容赦なく「そうじゃないわ」とのお言葉。


「・・・祐巳さんさ、今日の紅薔薇さま見て、なんとも思わなかったの?」

「?」

 今日の祥子さまを見て。笑顔でがんばっていて微笑ましいなぁ、なんて思っていたか
らこそ、さっきまでの感想があるわけで。由乃さんの言葉はどこを目指して言っている
のか、その行き先がわからなくて、祐巳はまたしても首を傾げてしまった。

 そんな祐巳の様子に由乃さんは思いっきり呆れた顔をして、再び机に突っ伏した。

「由乃さん?」

 そおっと屈み込んで窺うけど、由乃さんは相変わらず突っ伏したままで。だけど、祐
巳の声を聞くと、ため息をつくみたいに言った。


「・・・紅薔薇さまにとっては、男性恐怖症とは別の次元で、不安の種になっているっ
てこと」



                             


「アリスさんって、身長は祐巳さんと同じくらいかしら?」

「そんなに低くはないと思います。・・・多分、祥子さまと同じか、それより大きいく
らい」


 薔薇の館へ行く途中、階段の踊り場で祐巳を呼び止めたのは、手芸部の部長だった。
どうやら部活動の途中、用事を思い出して薔薇の館まで来るつもりだったらしい。腕に
はおなじみのリストバンド型針山。今日も気合充分だ。


「次の練習の時には、仮縫いだけど着ていただけると思うわ」

 力強く頷きながら部長は祐巳の両手をがっしと握ってぶんぶんと振った。「がんばり
ましょうね」って言葉と一緒に。


「ごきげんよう、祐巳さん。練習がんばってね」

「はい」

 お互いにっこり笑いあってからお別れする。颯爽と歩いていく部長の背中を見ている
と、何だか熱いものがこみ上げてくる。


 階段を駆け上がっていくような胸の高鳴りと。大声で叫び出したくなるような興奮。

 唐突に訪れた高揚感をもてあますように、小走りで薔薇の館へと急ぐ。

 上履きを脱いで、革靴を突っかける。昇降口から飛び出すように外へ出ると、午後の
日差しが葉を落とし始めた枝の間からきらきらと降り注いで眩しかった。


 こういうのって、なんだかうれしい。

 つい先程の部長の笑顔を思い出す。ただ、その人が笑ってくれたからというだけでは
ない。この高揚感は。


 山百合会の仕事をするようになってから、今まで知らなかった人と接することが多く
なっていたけれど。文化祭という学校全体の行事となるとその機会はぐんと増えた。そ
のたびに、苦しかったり、うれしかったり、大変だったりするけれど。


 たくさんの人たちと、心を通わせて。心を一つにして。何かを作り上げていくのは、
なんて心地の良いことなのだろう。


 涼やかな風が小気味の良いリズムで祐巳の頬を掠めていく。

 火照った頬に、風になぶられた髪が当たってくすぐったい。零れ落ちそうな笑い声を
口の中で転がしながら、祐巳は今にも駆け出しそうな足取りで石畳の道を蹴り上げた。
あと少しで薔薇の館だ。


「祐巳」

 半ばスキップするみたいな足取りでたどり着いた薔薇の館の玄関で、反対方向から遣
ってきたらしい祥子さまと出会った。


「お姉さま」

 反対方向から遣ってきたということは、図書館にでも行っていたのだろうか。その証
拠に祥子さまはいつもの鞄に加えて大きめのショルダーバックを肩に掛けていた。


「ごきげんよう。どうしたの、うれしそうな顔をして」

 笑い顔を見つけた祥子さまは、自分のことのようにうれしそうに顔をほころばせなが
ら、祐巳のタイをそっと直してくれた。


「いえ、特には・・・」

 何だか気恥ずかしくて、祐巳はふにゃりと曖昧に答える。だって、一人で文化祭に向
けて意気込んでへらへら笑っていましたとは、言いにくいわけで。


「そう?」

 祥子さまもさして気にする様子もなく、祐巳の手を取って玄関の扉を開けた。

「あ、手芸部の方が、来週の練習までに衣装を合わせてくださるそうです」

「そうなの。何だか急がせてしまって、申し訳ないわね」

 階段を上りきった会議室の前で、言伝を思い出した祐巳は祥子さまの手を引きとめて
しまったけれど。祥子さまはほんの少し目を見開いただけで、穏やかな声で応えるとそ
のまま壁に背を持たれかけた。


「でも、そうやって皆がんばって協力してくれているのよね。私たちもきちんとそれに
応えないと」


「はい」

 手を繋いだままの形で、隣りに並んでそう応えると、先程までの胸をくすぐるような
気持ちがじんわりと蘇ってくる。


 祥子さまも、同じ気持ちなんだ。

 祐巳とまったく同じ気持ち。というわけではない
かもしれないけれど。重なり合った心がうれしくて、繋いだ手にぎゅっと力を込めて、
その肩に頭を預ける。


 突き当たりのステンドグラスから、傾きかけた日差しが差し込んで、色とりどりの光
が廊下の床に零れ落ちていた。


「・・・こら」

 開いた左手も右手で握った祥子さまの白い手に添えていると、祥子さまが掠れたよう
な小さな笑い声で言った。


「だって・・・」

 ちょっと甘えすぎかな、とも思ったけれど。うれしいことがあった時は、それを伝え
たくていつも以上にぴったりくっつきたくなる。


「・・・・・・もう少しだけよ」

 肩に預けていた頭を離して、額を首筋に押し付けると、祥子さまは呆れたような声で
そう言って、祐巳の頬をそっと撫でてくれた。


「花寺の人も、本当に頼りになりますね」

 頬を撫でてくれる手のひらに甘えながら、伝達事項やらその他練習の感想なんかを言
い合っていると、ふと祐麒たちのことを思い出して、そんな言葉が口をついて出た。


「・・・そうね」

「?」

 気のせいだろうか。花寺という単語が出た途端、祥子さまの指先がぴくりと強張った。

「この間も、高田さんには助けられたものね」

「あ、はい。やっぱり、男の人ってすごいですよね。力とかも強くて、頼りがいがある
というか」


 どことなく、重苦しい声色に引っかかったけれど、祐巳はその時のことを思い出して
素直にそう告げる。本当に、あの時高田くんが助けてくれていなかったら、大怪我とま
では行かなくても、二三個の痣はこさえていたはずだ。そんな軽く感謝の気持ちを込め
ただけの言葉だったのに。


「・・・・・・」

(あ、あれ・・・?)

 確かに花寺の話題を振ったのは祐巳なのだけれど。それに応えて高田くんの話を持ち
出したのは祥子さまのほうなのに。祐巳がそれに応えた途端、祥子さまは気のせいじゃ
なく、むすっと表情を曇らせた。


「あの・・・?」

「・・・そうよね。祐巳は花寺の方がこられると、ずいぶんと楽しそう」

「え・・・?」

 廊下に照らされたステンドグラスの色が夕焼けに染まる空の色と重なって、微かにオ
レンジ色を帯びていく。


『紅薔薇さまにとっては、男性恐怖症とは別の次元で、不安の種になっているってこと』

 もしかして、由乃さんの言葉はこのことをさしているのだろうか。

 だけど、祐巳の中でその言葉と、祥子さまの表情とがどうしてもうまく繋がらない。

『がんばりましょうね』

 その言葉の持つきらめきは、廊下に零れ落ちる色とりどりの光のように祐巳の心にい
くつも降り注いでいるのに。


「お姉さま・・・?」

 きらきら輝く光の粒は、目の前の祥子さまの表情と一緒に翳っていくみたいだった。



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