Day time



 戦いは終わった。聖杯を掛けた戦いは奇跡の中で終わり、この青い星は救われた。
つかの間の平和かもしれないけれど、今、みちるはのどかな日常を満喫していた。


 が。

「魚キラーイ。骨抜くの面倒くさいし。目玉気持ち悪いし」

「・・・・・・」

 汁椀に口をつけているみちるの向かい側で、こちらが不快になるほど皿の上の料理
をかきまわしながら、はるかが言った。


「大体みちるは海の星を守護に持ってるんだろ。ある意味共食いじゃん」

 意味不明な文句にみちるはその手を叩きつけてやりたい衝動をこらえる。いきなり
体罰を与えてはいけない。


「好き嫌いしないで。それから、箸をきちんと持ちなさい。お料理も、口に運ぶ分だ
け切り分けるものよ」


「えー・・・フォークがいいもん」

 外国暮らしが長いなんて理由があるわけではない。箸も一応正しい作法で持ててい
る。けれど、はるかは何でもフォークで突きさして齧るようにして食べたがる。理由
は面倒くさいから。目の前のこの惨状は、あまり食に執着のない彼女が、飽きて遊び
食べをした結果である。


「はるか」

 フォークを探しに立ち上がったはるかに、みちるは少しばかりきつめの視線を向けた。

「座って食べなさい」

「・・・・・・はい」

 素直に座りなおしたはるかに満足しながら、みちるはまた、汁椀を口へ運んだ。最
近はずいぶんと聞き分けが良くなったみたい。多少青ざめているように見えなくもな
いけど。


 平和な朝がゆるやかに過ぎて行く。


                               


「ちょっと、トレーニングしてくる」

 洗面を終えた彼女に、いい加減服を着替えるように言ったのはついさっきのことだ。

「走りに行くの?」

「うん」

 寝室から出てきた彼女は上下ジャージを身に着けていた。自分の脚で走る方の
トレーニングらしい。紺色の布地は全体にシャドウストライプが入っている。腕と脚の
側面にはライン。そのラインと同じ色で背面にメーカーロゴがプリントされているそ
のジャージは、はるかには少し大きいのではなかろうか。女の子にしては背が高いけ
れど、身体の細い彼女がメンズのものを身につけていると、何だかスポーツ少年団の
子のように見えなくもない。つまりぶかぶか。丈はあっているみたいだけど。それで
もって、何故に挿し色がピンクなのか。ああ、でも。夜中にコンビニの前を通ると、
似たような子がたくさんいるわ。

(まあ、本人が好きなのならいいわ・・・)


 というかどうでもいいみちるは、「気をつけてね」と適当に言葉を選びながら、譜
面に視線を落としていた。


「あ」

 けれど、音符を目で追い始めたところで思い出して声をあげた。

「待って、はるか・・・」

 慌てて玄関へ走るけれど。風のように。能天気に。さくっと彼女は出て行ってし
まっていた。


(困ったわ・・・)

 今日はみちるもレッスンがある。絵画教室へも寄らなければいけない用事がある。
家を開けるのは仕方がないけれど、それを伝えておかなければ後々面倒。その上、は
るかの出ている間に家を開けてしまっては、いつもの二倍くらいの勢いで拗ね狂うだ
ろう。


(・・・でも、すぐには帰ってこないわよね)

 多分身体が悲鳴を上げるまで、はるかは走り続けるだろう。その後、道行く可愛い
女の子に片っぱしから声をかけて体力を回復し、バイク屋さんで油を売って、もう一
度ジムで汗を流してから、さらに道草をしながら帰ってくるはず。


(別に待たなくてもいいわね)

 その姿を想像して、すぐに気持ちの整理がついたみちるは、念のためメモ用紙に書
き残しておくことにした。


 ―――はるかへ。レッスンに行ってきます。戸棚におやつのドーナツを置いている
から、手を洗ってから食べてね。



                               


 どちらとも時間通りに終わるとは思っていなかったけれど、予想よりも長かった。
気が付けばもうすぐ夕焼け空になるような時間。


(・・・お昼ご飯は誰か親切な人にもらっているはずだけど)

 まあ、一食抜いた位でどうにかなるわけではないし。そんなことを考えながら部屋
の扉を開ける。


「はるか・・・?」

 玄関に脱ぎ散らかされている靴があることから、帰宅しているのはわかるけれど。
それにしても静かである。どうしたのかしらと首をかしげながらリビングに脚を入れる。


「・・・・・・あら」

 シャワーを浴びたのだろう。下着姿にシャツを羽織ったままの恰好ではるかがソフ
ァに転がっていた。ローテーブルの上には、ドーナツを食べ散らかしたお皿。片づけ
るという概念が、はるかにはない。故に、以前彼女が住んでいた部屋に全くと言って
いいほど物を置いておかなかったのは正解だと思う。


「?」

 お皿と一緒に、テーブルの上に置かれている紙。それはみちるが書置きしていった
ものだった。けれど、何かが違う。その違和感を確かめようと手に取ってみる。そこ
には。


 ―――はるかへ。レッスンに行ってきます。戸棚におやつのドーナツを置いている
から、手を洗ってから食べてね。


 ―――↑みちるのばか  こじゅうと

「・・・・・・・・・」

 ゴーンとどこかのお寺の鐘のような音が頭の中で鳴り響き、足元からは第九が荘厳
に奏でられ始めた。


 小姑の漢字がわからなかったらしく、鉛筆で黒く塗りつぶした後ろにひらがなで書
きなぐっているところが尚更腹立たしいことこの上ない。これでも彼女は世界レベル
のレーサーである。ちょっと哀れになってきたわ。


「・・・はるか」

「えっ、うわっ、みちる・・・!?」

 地の底から這い上がってくるような声に、はるかは慌てて飛び起きる。

「あっ」

 それから、みちるが手にしているものを確認すると、持ち前の瞬発力でひったくる
ように取り上げた。次にくしゃくしゃに丸めてポケットにねじ込む。その間一秒強。
けれど、今さらそんなことをしたところで、みちるの記憶が抹消されるわけでもない。


「ずいぶんとお暇だったようね。もう一度汗を流してきたら?」

「・・・・・・」

 目の前のはるかの青ざめようから、自分がかなり良い表情を浮かべていることがわ
かる。が、何を思ったのか、はるかはキッとこちらを睨みつけた。


「そうだよ!何で黙って出かけるの?心配するじゃないか」

 だから書置きを残していたのである。おまけにしっかりとおやつを口にしておいて、
心配も何もない。


「ごめんなさいね。はるかが家を出る前に伝えておけばよかったのだけれど」

「忘れてたんだろ。いいよ、もうっ」

「・・・・・・・・・」

(・・・・・・縛り上げてやろうかしら)

 不貞腐れ始めたはるかを眺めながら、ふとそんなことを思いつく。以前一度したこ
とがあるが、あれはあれでそそる。確か「今夜は帰さないぜ」と彼女がのたまうもの
だから、じゃあお言葉に甘えてと一晩中眠らせなかった。だけど、今日は半日出掛け
ていたし。多少の疲れもないわけではないから、できれば普通にしたい。でも、ぐず
り始めた彼女をこのまま放置していたら、そのうちみちるもそうせざるを得なくなる。


「はるか」

 ここは双方妥協しやすいよう、さっさと手を差し伸べる方が得策であるからして。

「ケーキ買って来たけど、食べる?」

「食べるっ」

 素直にこちらへ向き直る姿が、ますます哀れである。けれど懐柔されてくれたこと
にひとまずは安堵して、彼女愛用のキャラクターフォークと一緒に、ケーキをお皿に
乗せて手渡した。


「ありがとう。ここのケーキ、好きなんだ」

「そう、よかったわ」

 数年にわたって彼女の嗜好を調べつくしているみちるが、そのことを知らないわけ
でもないが、はるかが喜んでくれるとやはり素直にうれしい。


 幸せそうにフォークを口に運ぶはるかをみつめながら、みちるも隣へ腰掛けた。そ
れと同時に、はるかがごく自然な仕草でみちるの人差し指をきゅっと握る。


「・・・・・・!」

 抱き締められたり、手を握られたりするのももちろんうれしい。けれど、こんな風
に幼い仕草でスキンシップを求められると、みちるはしばしフリーズしてしまう程に
興奮する。


「・・・はるか、おいしい?」

「うんっ」

 少し息が乱れてきそうだったけれど、目の前のケーキに夢中なはるかは、みちるの
そんな様子には一向に気が付かない。


(平常心、平常心・・・)

 心の中でそんな言葉を唱えること自体、脈拍に乱れがある証拠だが、ここで息を荒
くしていてはただの変質者である。


「?」

 助けを求めるように視線をせわしなく動かすと、ソファの上に投げ置かれた雑誌が
見えた。スポーツ雑誌。はるかが帰り際に買ってきたようだ。


「あら」

 おもむろに手にとってページを繰っていると、見慣れた顔が映し出されていた。

(・・・・・・これは後で切り取っておかないと)

 先日のレース会場だと思われる一角で、全身とアップでそれぞれ一枚ずつ撮られた
写真。映し出されているのはもちろんはるか。インタビュー記事も添えてあった。


「ごちそうさまー」

 食い入るように眺めていると、隣ではるかはそう言って、何のためらいもなくお皿
とフォークをテーブルに置いた。キッチンへ持っていこう等と考えるはずもない。


「何見てるの?」

 みちるの右手人差し指を握ったまま、はるかがこちらを覗き込む。近くなる距離。
瞳も鼻筋も、唇も。すぐそこにある。・・・から見えてしまった。


「はるか。スポンジが口の端についてるじゃない」

「え。取ってとって」

「・・・・・・」

 咄嗟に手で拭うような仕草を見せることもなく、はるかはそう言ってさらに顔を寄
せた。甘やかし過ぎているからかしら。指を伸ばそうとすると「だめー」とさらに甘
えた声。


「指よりもっと優しく取ってほしいな」

「何なの、それは」

「唇がいいもん。チューして取ってよ」

「・・・・・・」

 ため息が漏れる。はるかの姿に、というより、それを素直に受け入れる自分に。は
るかに甘えた声でねだられると、みちるは断れない。何かマインドコントロールでも
されているのだろうか。


「・・・あ、こら・・・」

 軽く拭うだけで唇を離そうとしたら、はるかに身体ごと捕まえられてしまった。首
元と腰を引き寄せられると、意識していなくとも、身体をはるかに押し付ける格好に
なる。もちろん顔も、鼻先が触れ合うような距離まで近くなる。自分の思考とは全く
関係なく彼女に近づいて行く唇に、耐えきれなくなって目を閉じる。


 甘い味がする。さっきまでケーキを食べていた唇とキスしているわけだから、不思
議でもなんでもないけれど、はっきりと甘い味に、舌先から蜜か何かのように溶けだ
しそうだ。みちるははるか程、甘いものを食べたがらない。嫌いではないけれど、積
極的に口にしなければ苦痛というわけでもなく。だからだろうか。こんなにも鮮明に、
彼女とのキスが甘いと感じるのは。けれど、それに夢中になっていたら、彼女の手が
あらぬ方向に動き始めていることに気が付くのが遅れてしまった。


 腰をひき寄せていた方の手のひらが、スカートのすそを引っ掛けて、素肌をゆっく
りと撫で上げている。


「・・・ぁ・・・ん、もうっ。・・・あの記事はでたらめね」

「?」

 更に踏み込もうとしてきたところでその腕を軽く叩く。

「『ストイックに情熱を傾ける』とか何とか、書いてあったけれど?」

「あー。あれ?そう言えば、あの時のインタビューのお姉さんが可愛くて、つい語っ
ちゃったような気が・・・痛いいたいイタイ」


 はるかとストイック。あり得ない組み合わせに眉をひそめつつ、耳を引っ張ってや
った。実際、練習に打ち込む姿やモータースポーツへの気持ちの在り方は、そう表現
するに値するのだが。とりあえずこの記事のインタビュアーがはるかの戯言にすっか
り腰砕けてしまったのは文面からよくわかる。


「冗談だって」

「嘘。すぐそうやって、他の女の子にちょっかいかけたがるんだから」

 思い出すと、なんだか腹立たしくなってきた。

「自重するよ。だから、そんなに怒らないでよ。本当にご執心なのは一人だけだって、
みちるも知ってるだろ」


「その、ご執心な女の子を自分の言動で怒らせてばっかりだって言うの、あなたご存じ?」

「もちろん。怒ってるんじゃなくって、妬いてくれてるんだよね」

 爽やかに言い切るはるかにこれ以上かける言葉もなく、みちるは彼女から背を向け
て座り込む。


「あれ。さっきは僕が拗ねてるのに困ってたんだろ。同じことしてちゃいけないんじ
ゃないの」


「・・・・・・」

 わかっているのなら、いちいち不貞腐れるのはやめてほしい。

「知らないわ」

 みちるだってわかっているから、いちいち拗ねたりしたくないのに。はるかはこう
いうところ、無神経だと思う。いくらお互いに想いあっているからとはいえ、いつも
「やきもち」程度で終わるわけないのに。


「・・・ごめんってば。もう意地悪言わないから。知らん顔しないで」

 本格的に無視を決め込み始めたみちるに、彼女が困ったように言った。後ろから抱
きしめながら。


(・・・そういえば、前無視した時は泣いてたわね)

 あまりそう言う手段は使いたくないのだけれど、何かが許せなくてはるかの言葉を
一切受け付けなかったことがあったような。いつだったか忘れたけど。彼女はトラウ
マになっているらしい。


「・・・・・・・」

「ねえ、みちる。許してよ」

 また、甘えた声ではるかがみちるを呼ぶ。その声に、みちるは逆らえない。彼女は
気が付いていないのだろうか。


「・・・・・・本当に自重するんでしょうね」

 振り返ると、そこにはあの雑誌で取り上げられているような凛凛しい表情はどこに
もない。涙目のどちらかと言うと、情けない顔。


「うん」

「・・・言いつけが守れるの?」

「うん。いい子にする」

「・・・・・・私の言うことは?」

「ちゃんと聞く」

(・・・・・・・・・)

 みちるはまた、息が乱れて行きそうになるのを感じて、必死で押しとどめる。変質
者のよう、ではなく完全にそれである。こういう従順さを見せられると、みちるは所
構わずはるかを押し倒したくなってしまう。こちらの方こそ自重しなければ。


「だから、許してくれる?」

 はるかが後ろから覗き込むようにして言う。

 まあ、こんな姿を、彼女が言うところの子猫ちゃんたちも、件のインタビュアーも
知らないのだ、と考えれば悪い気はしない。


 だけど、すぐに持ち直すのはもったいない気がして、はるかにそっと耳打ちする。

「わかった」

 告げられた彼女が、与えられた罰に表情を明るくさせるものだからみちるは苦笑し
てしまった。


 ―――私の機嫌が直るまで、キスしてくれたら許してあげるわ。



                        Morning  Night

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