Hello 5



 相変わらず、彼女は遠くの観客席からだけ、はるかを眺めていた。

『鬱陶しい』

 そう吐き捨てたくせに、はるかはその姿を確認するようになっていた。サーキット
でも、グラウンドでも、遠くにその姿を見つけて、一通り彼女に腹を立ててから走る
ようになっていた。不意に、彼女のいない日に、どうしたのかと疑問に思う自分にも
腹を立てるようになった。


 突っぱねたのは自分の方なのに、何で気にしているのかがわからない。

 彼女とさえ合わなければ、言葉を交わさなければ。あの不快な夢からは逃れられな
くとも、知らない顔して過ごすことはできるのに。


 一々苛立たなくても済むのに。

「何してんの?」

「・・・・・・走る車を見ているわ」

「・・・・・・」

 まあ、ラーメン食ってるようには見えないよな。

 クラブハウスの階段を下りていたら、屋外テラスに明らかに一人毛色の違う女の子
がいるのを見つけた。いつもだったら絶対にそんなことはしない。それなのに、つい
声をかけてしまったのは、前回の記録会に彼女が来ていなかったからだろうか。あの
活発そうな子も、珍しく欠場していたからだろうか。


 それとも、この子を追い詰めていたぶりたいからかな。

「学校帰りだろ。いいわけ、寄り道なんかして」

 レースが開催されているわけでもないサーキットに通うほど、車が好きなようには
見えないけど。それとも、いつもと同じく遠巻きにはるかを眺めようとでも思ってい
たのだろうか。第一、あれだけ言い合っといて、よくこんな所まで来られるな。


(・・・監視か?)

 彼女の姿を見下ろしながらふとそんなことを思いつく。付きまとうわけでもなく、
離れるわけでもなく、遠くからはるかを眺めているその様子は、確かに憧れと名付け
るより、そっちの方が当てはまっている気がしなくもない。


(・・・・・・当たらずとも遠からずか)

 理由を考えるまでもなく、例の赤くて不快な夢のせいなのだろうとわかる。

 この子も、はっきりとその破滅の情景が見えると言っていた。そしてそれを止める
ことができるのは、この女の子と、はるか。


「放課後だもの」

 だから見張っているわけね。と納得したところで彼女がはるかの質問に答えた。

「ふうん。でも、その制服って白樺だろ。校則厳しいんじゃないの」

 はるかでも知ってる。良い所のお嬢さんが通ってるので有名な学校。ちょっとした
オジョーサマなんだろうか。


「別の用事があったから、帰りにたまたま寄っただけ。そんなことで罰せられるとでも?」

 何の感情も浮かべずに、彼女はそう言った。その視線の先を追うと、遠く向こうの
駐車場に、見慣れない黒塗りの車が停めてあるのが見える。


(どーりで。そりゃ、お舟のパーティにも来ているわけだ)

 ちょっとどころか、かなり良い所のお嬢ちゃんのようだ。学校もあの車で通ってい
るのだろうか。


 車から視線を戻すと、彼女はどことなく重苦しい表情を浮かべたまま、はるかを見
ていた。


(自分ちのパーティなのか。じゃなくても、親がその関係者とかだよな)

 その瞳を見返しながら、先日のことを思い返すと、また、苛立ちそうになる。親に
頼んだのか、それともお知り合いにお願いしたのかまでは定かでないけれど、彼女の
意向で、はるかがあの場所に呼び出されたことは間違いない様だ。


「・・・いいね。良い所のオジョーサンは、ねだれば欲しいもの何でも与えてもらえて」

 あの夢の為なのか。それとも少し気にかかったからなのか。この際、彼女がはるか
に執着する理由なんてどうでもいい。


 ただ、そのおきれいに澄ましているような顔が、気に食わない。

「でも僕は、君にプレゼントされるオモチャやお人形じゃないんだけど」

 どうせ何でも手に入るとでも思ってるんだろ。言外にそんな気持ちを込めて、はる
かよりも背の低い彼女を見下ろした。


 傷つけたら、もう、彼女ははるかに近づいては来ないのだろうか。

 そう期待した。それなのに、なぜか胸の奥が重たくなる。相反するような心のまま
眺めていたら、その予想に反して、あろうことか彼女はキッと睨みつけるようにこち
らを見据えた。


「あなたにそんなことまで言われる筋合いはないわ」

 決して大きな声ではないのに、強い口調でそう言われて、はるかの頬が強張る。

『そんな馬鹿馬鹿しいこと、やってられないわ』

 あの時と同じような強さだったからだろうか。思わず喉元が締めつけられたような
感覚になった。それから。


(かっ、・・・可愛くねぇ・・・!本気ムカつくなっ、こいつ)

 自分で突っかかっておいて、はるかはその振る舞いに目元を歪めそうになった。

「・・・せっかくきれいな顔してるのに、君、全然可愛げがないよね」

 努めて冷静な口調でそう指摘して見せる。けれど、目の前の彼女は変わらずただ不
愉快な表情を浮かべてこちらを見据えていた。相当にお嬢様のプライドを刺激してし
まったらしい。それならば、もう少し崩して見せたら、はるかだって多少は態度を和
らげるのに。


 だから、気に食わないんだよ。

 そう告げる代わりに、はるかは思いついて腕を伸ばした。

「僕に付きまとってくる女って、大体こういうことして欲しいからだと思ってたんだ
けど」


 自分から触るのなんて、気持ちが悪いじゃないか。

 その気持ちに変わりがあるわけでも何でもないはずなのに、はるかは思いついたこ
とを早く実行に移したくて仕方がなくなってしまった。


 早く、その自信の塊みたいな表情を崩せばいいのに。

 腰のあたりで握りしめられていた手を取り上げると、振り払う間も与えず、彼女を
引き寄せた。


 力任せにしたせいもある。けれど、目の前の彼女は、はるかが感じていたよりもず
っと小さくて軽かった。片手をはるかに引っ張られただけで、勢いよくこちらの胸に
ぶつかってしまうくらい。


「―――・・・っ!」

 彼女が息をのむ音が耳元近くで聞こえると、反射的に抱き寄せる腕に力を込めた。

 からかって遊んでやろうと思っただけ。驚いて、泣きだしたりしたら笑ってやろう
と思っていただけなのに。腕の中の強張った身体を逃がさないように強く抱きしめて
いた。


 お互いに言葉もないまま、完全にフリーズしたらしい彼女が小刻みに震え始めたも
のだから、本当に泣きだしたのかと、身長差のある顔を覗き込もうとした。ら。


 覗き込んだ首元に赤いあざのようなものが見えた。

(キスマークかよ!)

 お嬢様じゃなかったっけ。それともそういうお育ちとは関係ないわけ。その乱れは。

(え・・・?)

 自分のことでもないのに慌てふためきつつも凝視していたら、そのあざの部分が、
どことなく引っかかれて隆起しているように見えた。


 それだけじゃない。

 上からの角度で見える、制服の胸元にも同じような傷がある。はるかを押しとどめ
るような形で前に出されている腕も、良く見れば半袖で僅かに隠れるような場所に、
傷跡が見えた。


「・・・おい、その傷」

 言いかけたはるかの声で、我に帰ったかのように彼女はハッと顔を上げた。それか
ら、すぐにはるかの胸に押し当てられていた腕が、力を込めて伸ばされる。腕全体を
使ってはるかの身体を押しのけて、最後にその手のひらが拒絶を込めてはるかを押した。


「・・・すっごい力だな」

 ぼけっとしていたことを差し引いても、同年代ではるかを力押しできるような人間
に出会ったことがなかったものだから、思わず感心してしまう。


 そう言えば、この子はあの夢が見えると言っていた。空想じゃないって、自分のこ
とのように訴えたこの子は、もしかして、はるかの見る夢の中と同じように、一人戦
っているのだろうか。


(だから、その傷なのか・・・?)

「・・・・・・ごめんなさい」

 はるかの疑問を打ち消すかのように、彼女は右手を左手で抑えながらか細い声でそ
う言った。


「別にいーよ。お嬢様に気安く触ったこっちが悪いんだろうし」

 無理やり引っ張られたら嫌がるよね。わかっててやってるはるかはそれだけ返す。
呆然とこちらを眺めている顔は初めて見るもので、先ほどまでの凛としたものでない
ことに、とりあえずはるかは満足していた。


「違うわ・・・」

 それなのに、彼女ははるかの言葉により一層、苦しそうに眉をひそめて俯いた。そ
のまま、学校指定のものだろう革の鞄を開いて、そこへ手を差し入れる。けれどすぐ
に鞄から離すと、彼女は何を思ったのかそのままこちらへ手を突き出してきた。


「何?」

 はるかの言葉には答えずに、彼女は鞄から取り出したらしいハンドタオルをこちら
の胸元へそっと押し付けた。はるかの手の位置も確認せずにそれを離すものだから、
慌てて受け止める。


「ちょっと・・・」

 その上、いきなり背を向けると、彼女はこちらの戸惑いに応えることもなく歩き始
めるではないか。


「おいっ」

 走り去るわけでも何でもなく、少し早いくらいの速度で、彼女は振り返りもせずに
駐車場の方へ歩いて行く。お帰りですかい。


「何だよ・・・」

 なんて気まぐれなんだろう。はるかでさえもそう言いたくなる位、真意のつかめな
い彼女の行動に立ち尽くしてしまった。


(・・・ごめんなさいだって)

 自分の身を守っただけだろうに。変な所で人のよい彼女の言葉に、ため息のような
笑いが漏れる。


 ―――傷つけたら、もう、彼女ははるかに近づいては来ないのだろうか。

 きっと、もうこんな側にまで近づいてなんか来ない。

 先ほどの自分の疑問に答えてから、はるかも踵を返した。

「・・・?」

 けれど、テラスとショップスペースを分けているガラス窓に映った自分の姿が見え
て、はるかは立ち止まって首をかしげてしまった。


 別にいつもと変わらない。ふざけたふてぶてしい顔だ。

 目に映るそれを確かめようと、頬に手を当てると、べったりとした感触。

『ごめんなさい』

 だから、彼女はそう言ったのだろうか。彼女のせいで、はるかが傷ついたとでも思
ったのだろうか。とんだ勘違いだ。


 今更、誰かに拒絶された位で、傷ついたりなんてしない。しかも、あんなふざけて
いただけのことで。


 だからガラスに映るこれは。ただ目から水分が分泌されているだけだ。

『何を考えているんだ君は』

 なーんにも。

 何にも考えていないのだから。一々傷ついたり、悲しんだりなんてするわけがない
じゃないか。


(・・・可愛くないな、やっぱり)

 彼女が歩いて言った場所を眺めながら、いつも通りの感想を抱く。

(可愛くないけど、・・・)

 それなのに、無理やりに手渡されたタオルを握りしめると、胸がかき乱されるよう
に感じて戸惑った。


 遠く見えていたあの、黒塗りの車ももう停まってはいない。

 けれど、確かにそこを歩いていた彼女の後姿を思い出すと、胸の中にはっきりとし
た痛みが浮かんでくる。


 傷ついたまま、一人で歩いて行くのだろうか。

 そんなことを考えると、今までにないくらい、素直に胸が痛んだ。

 何にも。

 本当に何も考えられなくなれたらいいのに。



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