Hello 6



 スニーカーが床を踏む音がやけに響く。片面がガラス張りになっている廊下は、ひ
どく日当たりが良い。高層階に位置するこの場所からは、遠く街の様子が一望できて、
ちょっとした展望台のよう。反対側に位置する病室の窓からは、海が見えるはずだった。


(本当に病院だよな、ここ・・・)

 病院に真っ白な建物のイメージしかないはるかは、ホテルのようなその作りに呆然
としながら、目当ての部屋へと歩き続けていた。一度来た際には受付と緊急外来の診
察室があるフロアにしか立ち寄っていないから、心もとなくなってしまう。


 受付で教えてもらうのに多少苦労したけれど、何とか聞きだしたその部屋は廊下の
突き当たりにあった。


 部屋の番号は書かれているけれど、名札のようなものが掲げられているわけじゃく
て、はるかは一瞬不安になる。


(ここであってるんだよな・・・)

 書き留めておいたメモ用紙の数字と、扉に刻印されている番号を何度も確かめたけ
れど、同じものだ。


「・・・・・・」

 ため息を思いっきり吐き出すけれど、いざ扉を叩こうとすると、動きが止まってし
まった。


 入って行って、彼女になんて言うつもりなんだろう。

 はるかを庇って、身体まで傷ついてしまった彼女に。

『ごめんね・・・こんなこと、話すつもりなかったのに』

 浅い呼吸のまま、彼女はそう言った。自分のことを、話しただけなのに。

 ごめんね。

 きっとそれは、はるかが言うべき言葉なのに。

(・・・でも、何に・・・?)

 多すぎるような気がして、わからなくなる。

 窓ガラスから差し込む光がまぶしすぎて、目眩がしそうだ。

 酷いこと言ってごめん。

 辛く当たってごめん。

 一人ぼっちにさせて、ごめん。

 痛かったよね。

 ごめん。ごめん。

 きっと何回言っても足りないのだろう。けれど、そんな素直な言葉を、心から口に
したことなんかなくて、どう伝えたら良いのかわからなくなる。


『あなたがその人だってわかった時、私うれしかった』

 たくさん傷つけたのに、そう言ってくれた彼女に、どんな言葉を贈ったら、その気
持ちは伝わるのだろうか。


 握りしめてしまった手のひらが汗ばんでいく。

 その手のまま、木製の扉を叩くと、打ち付けられた音がひどく震えているような気
がした。



                              


「あら・・・」

 窓辺に置かれたベッドに横たわっていた彼女は、部屋に入り込んできたはるかの姿
を見ると、穏やかに瞳を緩ませた。


「来てくれたの?」

「・・・・・・傷の具合は?」

 点滴の器具が置かれているのを眺めながらベッドへ近寄ると、細い腕にチューブが
つながっているのが見えた。鎮静剤なのだろうか、肩から背中、腕にも巻き付けられ
ている白い包帯が痛々しかった。


「平気よ。早い段階で処置してもらえたから」

 近づいたはるかを見上げると、彼女はこだわりのない様子でそう答えて、もう一度
瞳を緩やかに細めた。


 はるかのせいなのに。

 処置の為だろう、制服の時よりも肌が露出している。柔らかそうな白色。横たわっ
た身体も、やっぱりはるかよりもずっと小さなものだ。


 その身体が、こんなにも傷ついてしまったのは、はるかのせいだ。

「・・・あの」

「?」

 ベッドの脇に置かれた椅子に腰かけるのも躊躇われて、はるかは立ち尽くしたまま、
包帯の巻かれた肩口を眺めていた。


「君は、・・・君が、僕に近づいたのは・・・」

 喉が渇いたみたいに、声が掠れそうになる。けれど、はるかを庇って傷だらけにな
っている彼女に、確かめずにはいられなかった。


「こうなるって、わかってたから・・・?」

 身体だけじゃない。

『虫も殺せないようなお嬢様が』

『誰かがやらなければならないのなら、君がやればいいじゃないか』

 見境もなく刃物のような言葉を彼女へ向けて振りかざした。目に見えないからって、
その心まで傷ついていないはずはなかっただろうに。むしろ、はるかはそうなること
すらどこか期待するように、鋭い言葉を投げつけていたのに。


 はるかを助けようとした時にすら、彼女を嘲ろうとしていたのに。

『あなたにだけは、私と同じ道を歩んでほしくないの』

 それでも、彼女ははるかから離れていかなかった。

 付きまとっていたわけでも、監視していたわけでもない。

『化け物!』

 いつかあんな風に、夢が現実となってはるかに襲いかかることを知っていた。だか
ら、あんな場所にまで、来ていたんじゃないのか。


 肩から視線を外して、うろたえる気持ちを抑えつけながら、彼女の顔をみつめる。
相変わらず、穏やかな表情のままの彼女を。


 けれど、不意に雰囲気が変わる。

「・・・あなたに付きまとう子は、あなたに抱きしめられたいから近づくんでしょう?」

「・・・!」

 挑発的な表情だと、気がつくと同時に頬に熱がさす。彼女ははるかの自意識過剰な
言葉をしっかりと覚えていたようだ。その上。


「根に持ってる?」

「当然よ」

 鼻を鳴らすようにして唇の端を上げる仕草は、やっぱりお世辞にも可愛らしいとは
いえないはずなのに。この前までのように苛立ったりはしなかった。


 ブラインドを開けた窓から、ゆるやかに風が入り込んでくる。

「・・・エアコンとか、つけないの」

「あまり好きではないの。それに、潮風が好きだから」

 髪をなぶる風に目を細めながら、取りとめもなく尋ねると、彼女はそう答えて窓の
外へと視線を向けた。


「あのさ・・・」

 話さなければいけないことはたくさんあるはずなのに、言葉が見つからない。けれ
ど、黙り込むこともできなくて、意味もなく声を掛けた。


 はるかの声に、彼女がゆっくり振り返る。

「なぁに」

 微かに微笑んでいるような瞳がはるかを見た。

 可愛くないな。

 どうしたらそんな感想を抱けるのだろうと考え込んでしまうほど、目の前の彼女の
表情は柔らかで、年齢相応の少女らしいものだった。


 けれど、簡単に反対の感情を抱くことも憚られて、視線をそらしながら早口でたず
ねた。


「何か、してほしいこととか、ある?困ってることとか」

「・・・?」

 はるかの言葉に彼女が首をかしげたのだろう。窓の外から聞こえてくる風の音にま
ぎれて、その髪の毛がわずかに流れるような音が聞こえる。


「いや、ほら。君はこうしてしばらく安静にしておかなきゃいけないし。不便だろ?」

 何ていやらしい言い方なんだろう。

 でも、わからないんだ。

 優しくした方がいいってことはわかっても、どうしたらいいのかまではわからない。

 それよりももっと他にすることがあるはずなのに、それが何かわからない。

「だから、・・・」

 言葉を連ねる程白々しくなりそうで口を噤む。手持ち無沙汰になりそうで、パーカ
ーのポケットに手を突っ込むと、硬質な感覚が手に触れた。


「・・・・・・」

 傷ついた彼女を抱えながら拾い上げたそれは、あの夢を終わらせる為にはるかへと
与えられたものだ。それを拾い上げた時と同じように固く握りしめると、余計取りみ
だしそうになった。


 男とか女とか関係ない。大嫌いだよ。だって、気持ち悪いじゃないか。

 何で、そんなものまで、守ってあげなきゃいけないの。

 痛いのは苦手だし。

 何も考えたくないのに。

 当たり前のようにそんな感情が沸き上がる。

 ほら、はるかの気持ちのどこも変わってなんかいないのに。

 握りしめたまま、この扉の前に立った時と同じように手のひらが汗ばむ。それなの
に、それを放りだすこともできないのは。


 それが、身体まで傷つけてしまった彼女に償える唯一の方法だから。他には、何も、
はるかは持っていないから。だから馬鹿みたいに、手のひらに握り締めたそれを捨て
たりなんてできなくて、ずっと持ち歩いてる。


 いじめて泣かせた子に、お菓子を渡してご機嫌をとる子どもみたいだ。

 何ていやらしいのだろう。

 気分を落ち着かせようと重苦しく息を吐きだすと、彼女が不思議そうな表情の中に、
ほんの少しだけ不安の色を浮かべるから、尚更焦る。


(・・・何しに来たんだ)

 戸惑ったり、うろたえたりなんて、絶対に人に見せたくない姿なのに。

 彼女の視線を遮りたかったのか、ポケットから慌てて取り出した手が、行く先もな
く浮いている。


 けれど、彼女がじっとその様子を眺めていたことに気が付くと、手を突きだしたま
ま黙り込むなんて姿をさらすわけにはいかなくなってしまった。


 投げ出された腕が視界に入るけれど、白すぎるそこへ触れるなんて考えられなくて、
彼女の身体から一番遠いであろうシーツの上に手を下ろす。彼女の視線が痛い。


 だから、何しに来たんだ。

「・・・みちる」

 意を決したように、彼女に呼び掛ける。きちんと届くように、顔を上げて。

「え・・・?」

 視線も一緒に上へ向かせると、はるかの声を聞いた彼女が、目を見開いたまま固ま
ってしまった所だった。


(?名前あってるよな?ミチコとかじゃなかったはず。ミチヨでもないだろ?)

 思いもよらない反応に、またうろたえそうになったけれど、すぐに持ち直したらし
い彼女が視線で続きを促した。


 いつの間にか、風が止まってしまったらしい。どこか蒸し暑いような空気が部屋の
中に満たされ始めていた。


「その・・・君の傷が早く良くなるように、何かしたいんだけど・・・」

 そんなこと言ったって、はるかはお医者さんでも何でもないのだから、傷を治した
りなんてことはできない。


 だけど、彼女の望むことをかなえたくて、それを知りたくて。

「でも・・・何をしたらいいのかわからないから」

 教えてくれないかな、と素直にそう告げた。

 頬に触れていた生温かい空気が再び動き始めた風にさらわれる。視線の先で、彼女
の巻き毛も静かに揺れていた。


 その風の中に漂うような沈黙の後で、彼女がそっと唇をほころばせた。

「・・・あなたが来てくれただけで、うれしいわ」

 静かな声だった。でも、しっかりとはるかの耳には届いていた。

 だから、はるかは何も言えなくなった。

 ギブアンドテイクじゃない彼女の言葉に、どうしたらいいのかわらかなくなる。

 黙り込んでばっかりだ。

 耳に痛いくらいの沈黙に、うんざりしそうになりながら、それを作り出しているの
が他でもない自分自身だと気が付いて、「でも」、と言いかけたはるかの手の上に、
彼女の手のひらが音もなく重ねられた。

 触れられている場所から、胸の中へ向かって走るような、冷たい感触がないことに
驚いて、思わず彼女の手に視線を落とした。白い手は、その印象通りにどこかひんや
りとしているのに、身体の奥まった場所に緩やかな温もりが灯されたみたいだ。

 考えることもなく、重ねられたのとは反対の手を、その手の上に置いてみると、そ
の熱がゆっくりと胸の中で広がって行く。


 体温なのか、感情なのか、区別もつかないほどに身体中に広がって行くそれは、決
して不快なものではなかった。


「会いに来てくれてありがとう、はるか」

 彼女の声にもう一度顔を上げて見ると、窓の外には穏やかな海が広がっていた。



                          END



 下心に忠実に、意中の子が弱っている隙に優しく付け入る、これ基本。とみちるさんの声がどこか
から聞こえてきてですね、・・・いやっ石を投げないで・・・!



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