Goin`home 2



「ただいまー」

 キッチンへ立ったみちるがオーブンを閉めると同時に、玄関の方からそんな声が聞
こえてきた。


「おかえり、今日は少し早いわね。慣れてきたからかしら」

 エプロンをつけたまま廊下へ出ると、小さな彼女が靴を脱いでいるところだった。

「うん。みんなで競争して帰ってきたんだよ」

 振り返った彼女は弾けんばかりの笑顔を浮かべて、こちらへ駆け寄ってくる。

「まあ。危ないじゃないの、車が飛び出して来たらどうするの」

 小さな身体を抱きとめると、みちるは屈みこんでその背中に腕を回した。

「通学路だもん。危なくない」

 みちるの言葉に、ほたるは驚いたようにそう答えた。もちろん、子どもなのだから
道草ぐらいさせてあげたいけれど、我が家周辺の交通事情から考えると、必ずしも歩
行者優先ではない場所が多い。学童以外の人通りも、決して少なくはない。好き好ん
で小言を言いたくはないが、釘をさしておく必要はあるだろう。


「いいえ。通学路でも、道路はみんなが通るところよ。それに例え車が走っていなか
ったとしても、あなた達が他の方にぶつかって怪我をさせる事だってあるかもしれな
いでしょう?あなたが怪我をしても、他の方が怪我をしても、困ってしまうのはあな
ただけじゃないのよ。痛いだけでは済まないことだってあるの」


「・・・・・・」

 抱き寄せたまま諌めるようにみつめると、ほたるは気まずそうに視線を泳がせる。
それから、どことなく納得できないような顔。まったく同じような仕草を見せる人が
身近に一人いることを思い出して、笑い出しそうになってしまった。普段聞き分けが
良い分、不意に咎められるとどうしたら良いのかわからないのだろう。


(お小言だけではね・・・)

 少しだけ唇を尖らせて俯いてしまった彼女を眺めながら、みちるは笑い声の代わり
にふっとため息を零した。


「・・・転んで怪我をすることなんてたくさんあるだろうけど。でも、私はほたるの
ことをどうしても心配してしまうの。だから、危ないとわかったことはなるべくして
欲しくないわ」


「・・・うん・・・。ごめんね、みちるママ・・・」

 叱られた後の気まずさと、みちるの声色が柔らかかったことへの安堵感、それから、
次は見つからないようにしようと少しだけ考えている。それらが混ざり合った表情を
浮かべるほたるをみちるは愛しく眺めた。子どもらしくて大変よろしい。


 一度その頭を撫でて立上ろうとすると、彼女がぎゅっとしがみ付いたままだったか
ら、少し力をこめて抱き上げた。


 身体をいっぱいに開いてこちらへ抱きついてくる格好が殊更に二人を密着させる。
はるかと同じように高い体温。けれど、はるかに抱きしめられた時とはまた違う、触
れ合った場所から、暖かさや優しさが流されるように感じて、みちるは小さな身体を
抱き上げたままその髪に頬を寄せた。


(・・・癒されるわ)

 心地よく落ち着いていく胸の中にそんな感想が浮かび上がる。夜泣きや、風邪や高
熱の際に抱きかかえていると、さすがにこんな心地よさを味わう余裕なんてないけれ
ど。何気なく彼女を抱きしめていると、みちるはいつも安らかな気持ちになった。何
らかのセラピー効果でもあるのだろうか。この、小さな身体には。


 今はかろうじて抱き上げることができるけれど、後しばらくすれば抱きしめる以上
は叶わない。みちるははるか程腕力があるわけではないのだ。そう思えば思うほど、
この小さな女の子を抱きしめる度に、みちるは独占するように抱え込んで抱き上げた
がった。


「ほたる、そろそろ宿題をしてちょうだい」

 けれどいつまでもその心地よさに沈溺しているわけにもいかない。少し重くなった
のかしらと覗いた背中にはランドセル。


「うん・・・。あ、いい匂いがする。お菓子焼いてるの?」

「ええ」

「じゃあ、ほたるお手伝いする」

「後でね。あなたが自分のことを済ませたらお願いするわ」

 慎重に身体を下ろすと、それでも彼女がまだ首に腕を巻きつけたままだったから、
みちるはその額に軽く口付けて宥めた。


「お手伝いだって、しなきゃいけないことだもん」

 けれどほたるはむずがるようにそう重ねる。普段は少し促すだけですんなりと引き
下がる所があるけれど、しばらく抱きかかえられて少し甘えたい気分にでもなったの
だろうか。それとも、はっきりと主張したい時期に差し掛かっているのか。どちらに
しても、こちらの言葉を何とか覆そうと頭をひねっているその様子に、みちるは甘や
かな気持ちのまま苦笑いを零してしまった。


「きっとちょうどいい時間だと思うわよ」

 もう一度膝をついて、肩にかかる鞄のベルトに手を差し入れると、それを押しとど
めようとほたるは小さな手を重ねたけれど。


「宿題を終わらせた頃に焼き上がるパイを、あなたに切り分けてもらおうと思ってい
たのだから」


 悪戯に誘うように少しだけ声をひそめてそう伝えたみちるに、彼女は少し考えてか
らパッと笑顔をはじけさせた。


「うんっ」

 みちるから鞄を受け取ると、彼女はうずうずと飛び跳ねるように廊下を駆けて行く。
その場に残された明るく日に焼けた匂いは、まるで太陽のようで。みちるは眩しさに
目を細めるかのようにして彼女を眺めていた。



                           


「あー確かに。娘って何であんなに親汁出させるんだろうねぇ」

「・・・言いたいことはわかるけれど」

「え?出ない?こう頭とか身体の中に。ぽわーんと」

「他の言い回しはないものかしら・・・」

 ラグの上にうつ伏せになったはるかは、胸のあたりにクッションを抱え込んで右手
をみちるに預けていた。投げ出した脚を交互にパタパタと動かしている姿が子どもみ
たい。


(でも、まあ・・・)

 はるかは入学式のような一大イベントのみならず、授業参観で発表しているあの子
の姿を見ているだけでも感極まって涙ぐむような人間なのだ。彼女の言う所のそれが
大量に分泌されているのだろう。手に取った小指の爪を丁寧に磨ぎながら、みちるは
そう結論づけた。


「ふうん。でも、みちるの言うことは素直に聞くんだね」

 研ぎ終わって解放された右手の人差し指をこちらの腿へ滑らせて、「引っ掛かって
ない?」と尋ねるはるかの腕を軽くはたいてから、左手を取り上げる。ついでに顔が
にやけていることも指摘しておいた。


「そうねぇ。手を焼くことがないわけでもないけど。大概は素直な子だと思うわよ」

「そりゃ、聞き分けが良すぎるような気もするけど。でも、僕が叱るといっつも拗ねる」

 少し力のこもったような声色に、指先から視線を下ろすと、はるかこそが拗ねたよ
うに唇を尖らせていた。


「あなたが優しいからよ、それは」

「?・・・んー・・・。どうだろ・・・」

 みちるの言葉に唇を少し緩ませて、けれどどこか納得しきれないように首をかしげ
る姿に、昼間も会ったような気がして柔らかな髪をそっと撫でた。


「悪いことではないと思うわ」

「そう?」

「そうよ。甘やかされることも、叱られることも。わがままを言ったり、我慢したり、
全部あの子に必要なことよ」


 頬を撫でるとはるかは目を細めて、弧を描いた唇でみちるの指の背に口づける。

「僕は甘やかしてもらって、わがまま聞いてもらうことが好きだな」

「・・・程ほどにしてくれたら助かるわ」

 次に口付けた場所に額を擦りつける姿をみつめながら、呆れたと言う代わりにわ
ざとらしくため息をついて見せた。パタパタと上下に揺れていた脚が今度は床につけ
られて、足の先でそこをひっかくようにごそごそと動いている。


「みちるだって、我慢強い癖に、わがままな所があるじゃない」

 子犬の尻尾みたいとぼんやり考えていると、額をみちるの指から離したはるかがこ
ちらを見上げていた。


「・・・そうね。じゃあ、わがまま聞いてもらおうかしら」

 くるくると変わっていくその仕草に引き寄せられるように、みちるからも彼女の指
先に口付けると、何だかすり寄りたくなる。それから、お願い事をする時特有の、高
鳴ってしまいそうな胸の感覚に、抱きしめられたくなる。


「今度の演奏会に、はるかを招待したいの」

「あ、だから最近机にかじりついてたの?ヴァイオリンを弾き込む時間が長くなって
きたから、そろそろかなって思ってたんだ。いつ?」


 内心を落ち着かせながらそう切り出すと、はるかは頬に浮かべる微笑と同じように、
柔らかく続きを促した。それは、予定を確認するだけで、みちるのねだることを受け
入れてくれるつもりである際に、彼女が浮かべる表情と声のはずだった。


「四月一日よ」

 けれど、みちるがそう口にした瞬間、はるかは軽く目を見張って、どうしてだか口
ごもってしまった。


「どうかした?」

 いつもとは違う沈黙にそう尋ねるみちるの前で、はるかは重く考え込むように口元
に手を当てる。それから、気まずそうな視線をこちらへ投げかけた。


「・・・ごめん、その日はちょっと。空けられないんだ」

「え?」

 目が合ったのは一瞬で、はるかはすぐに視線をフローリングへと落とす。

「予選も始まるし・・・多分通い詰めてる時期、かな・・・」

「そうなの・・・」

 視線と同じように色の沈んでいく横顔を眺めていると、こちらの方こそ彼女の予定
を確認していなかったことが悔やまれた。


「いいの。あなたが来てくれたらうれしいけれど。私の為に自分のことを放りだして
ほしいわけじゃないもの」


 どことなく早口になってしまうものだから、尚更自分の慌てようを自覚させられて
耳元から熱くなっていくようだ。


「・・・うん」

「だから寂しくなったら、はるかのことを想って演奏するわ」

 それなのに、はるかが気まずそうな表情のまま頷いてくれたから、自分に言い聞か
せるように紡いでいた最後の言葉は、甘えた声になってしまった。


 その声を聞いた途端、はるかの表情が一変する。何を思ったのか、満面に笑みを浮
かべて口を開く。


「じゃあ、思い出しやすいように、いっぱい跡付けてあげるよ」

 みつめあったまま、スカートの裾から入り込んでくる手の甲を爪の短くなった指先
で抓ってやった。




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