Goin`home 1



 はるかの唇が、背中に触れる。その感触に、みちるはため息を零す。心地よさから
ではない。けれど不快かと言われれば決してそうではない。ただ、息苦しくて、痛い
ような感情を、身体の中に溜めておくことができなくて、緩々と吐き出しただけ。


「・・・くすぐったいわ」

 延々と続いていくような口付けに耐えきれなくなりそうで慎重にそう告げる。彼女
の気持ちをくみ取って、見透かしたような素振りでそれを押しとどめるのは逆効果だ。


「・・・嫌?」

 けれど、背中から聞こえてくるはるかの声は、小さく掠れていた。肩越しに振り返
ると、少し伸びてしまった前髪の間から、傷ついたような瞳がこちらを窺っている。


「いいえ」

 うろたえる代わりに、はっきりとした口調を投げかけると、はるかは目に見えてわ
かる程に安堵の表情を浮かべた。それからまた、はるかは口付けを再開する。


 背中から肩口へ、そこから腕へ。彼女の唇が辿っていくのは、みちるの傷跡だ。

「・・・・・・っ・・・」

 噛みつくわけでも、舌を這わせるわけでもない。羽のような感触がひたすらに素肌
へ与えられると、涙がこぼれそうになる。泣きたくなんてない。悲しくなんてないの
に。瞼が熱く重く、溢れ出させようとしているそれをシーツへ押し付けると、確かに
胸が痛んだ。


「・・・・・・はるか」

 身体の傷を消してしまいたいなんて思ったことはなかった。

 肌を露出する機会は多かったけれど、隠す術はいくらでもあった。他人にその傷を
見られることが恥ずかしいわけでも、痛ましいわけでもない。フォーマルな装いに着
替えるのと同じく、不恰好にならない程度に身繕いをしているだけだ。たとえ取り繕
えないまま露出したとしても、周囲の視線を辛いと感じる必要なんて欠片もない。


 これは、自分が生きてきた軌跡。

 はるかと巡りあう為に、戦ってきた証。

 それなのに、彼女の前にそれを晒すことが、苦痛で仕方がなかった。澄んだ瞳にみ
つめられながら、その傷ごと消え入りたくなる。


 きっと、その傷跡に触れるたび、はるかの胸には贖罪の気持ちがちりばめられていく。

 黙りこんだ吐息が。震える唇が。優しい指先が。否応なしに、自分たちは偶然に出
会って恋に落ちたのではないことを知らしめる。


 その都度に、みちるは胸に沸き起こる感情に叫びだしそうになる。

 ただの、一人の女としてはるかに抱かれたかった。

 彼女を巻き込んだのは、他ならぬ自分自身だとわかっている。どこまでも欲深い自
分を殴りつけたくなるのに。それでも、心の奥底でひたすらそんなことを願い続けず
にはいられない。


 罪悪感と無力感を延々と抱え続けるような日々に引き入れたみちるを、彼女は恨ん
でも憎んでもまだ足りないはずだ。


 それなのに、巻き込まれたはずのはるかは一人、自分自身を責め続ける。

 まるで彼女のせいで、みちるが傷ついているとでも言いたげに、瞳を揺らめかせる。
償いのように、優しい愛撫を繰り返す。


 涙が溢れそうになるたびに顔を手で覆うけれど、自分を慰めているようで尚更惨め
になった。

 顔を覆っていた手を離すと、目の前には、薄暗闇に映える白色しかない。

「・・・嫌ではないけれど・・・これじゃはるかの顔が見えないわ」

 傷跡に触れられることも。彼女が視界の中にいないことも。そのどちらともにひど
く恐怖を感じて、早口でそう懇願する。


 腕の内側に触れていた唇が離されるのを感じながら振り返ると、思いのほか近くに
はるかの顔があった。


「・・・ここにいるよ」

 彼女の唇から声が零れ落ちてみちるの頬に当たる。その次に触れてくるのは温かな
吐息。僅かでもそれが離れてしまうことが嫌で、縋るようにはるかを抱きしめた。


 強くきつくはるかのしなやかな腕に抱き返されると、どうしようもなく胸がかき乱
される。


 隙間なく重なり合うのを感じながら、どんなことをしても彼女と繋がっていたいと、
心の底から祈るような自分の声が聞こえてくるのに。その声が音になって溢れるより
も前に、それよりもずっと強く喉元に絡みつく感情があった。


 慰めや、同情や憐れみがあるのなら、触れないで欲しい。

 けれどそのどちらとも、言葉になること等ない。


                              


「・・・若いわ」

「は?」

 寝そべったはるかのお腹のあたりに下着姿で座ったまま、みちるはぼそりと呟いて
いた。


「・・・人の身体まさぐりながらそんなこと言ってると、ものすごくアブナイおねー
さんみたいだよ」


「・・・そう、はるかは痛くされるのが良いのね」

「や、優しくして欲しい、な・・・」

 抓り上げる代わりのように、履き潰したようなジーンズの端を摘んで見せると、は
るかは慌てた様子でそうねだる。どちらかといえば、痛みよりも辱めを与える方が好
みであることを自覚しているみちるは、満面の笑みでその気持ちを受け止めた。


「少し前のことを思い出していただけ」

「え?僕のこと?」

 タイトなタンクトップをたくし上げながら、待ちきれなくて彼女の素肌に口付ける。
首元まで上げたそれのまぶしいばかりのオレンジ色に、目に優しい配色にしてほしい
と思いつつ先ほどの情景を伝えると、間髪いれずにはるかがそう答えるものだから笑
ってしまった。


「どうかしら」

「昔の恋人のこととか」

「そうだったかも」

「・・・・・・」

 昔の恋人ではなく、恋人との昔話。もしくは現在進行形の恋人、という部分を伏せ
るだけで、随分と言葉の響きは変わってしまうらしい。はるかは自分がその話題を振
ったことも忘れたかのように、目元を怒りに染める。それからすぐに、今の今までゆ
ったりとベッドに預けていた身体を、彼女は素早く跳ね起こしてみちるを組み敷いた。


「もしそうだったとしても、あなたと出会う前のことでしょう」

 両腕をつかまれて押さえつけられる、力任せの感覚にどうしようもなく満たされて
いく。多分、あの頃のような気持からではない。言ってみればただの趣味趣向。優し
くされるのはもちろん好き。けれどそれと同じように、彼女が時折見せる、抑えきれ
ない感情をぶつけるかのような荒々しさも堪らなく好きだった。


「そうだけど」

「それに、あなたと出会う前なんてほんの子どもの頃じゃない」

「それでも、だ」

 低く唸るような声が首筋に落とされると、このまま噛みつかれるのではないかと期
待する。まるで豹みたい。それならば自分は捉えられた小動物か何かだろうか。


「僕以外の奴に気持ちを寄せるなんて、例え子どもの頃の話でも許せない。思い出す
だけでも嫌だ」


 初恋は成就しないとか。恋に破れても人はまた恋に落ちるとか。そういった話はは
るかには通じないようだ。そのどちらとも、未だ経験せずに済んでいるみちるですら
微笑ましく思ってしまうくらい、彼女は真剣な様子で言い募った。


「・・・・・・ばかね」

 抱きしめたくなったけれど、掴まれたままの腕は微かに動かすしかできない。代わ
りに首元にある髪に頬を寄せた。


「出会う前からあなたしか見えていないのに、他の人が入るスペースなんてないわ」

 そう告げた途端に、みちるの腕をつかむ手の力が緩められたものだから、吹き出し
てしまいそうになる。しばらくの逡巡の後、こちらを仰ぎ見たはるかの顔はまだ少し
拗ねたような表情を浮かべていたけれど、こみ上げてくる愛しさを抑えきれなくて、
やっぱり笑ってしまった。


 手首から離されかけた彼女の手を取って指を絡ませると、繋がれたまま固く結ばれ
たような気持ちになって目を閉じる。


 唇が重なりあうと、素直に胸がときめいた。

 きっとこれから先、今までの自分を振り返っても後悔なんてしない。けれど、ひど
く傷つきやすかったあの頃を、どうしてだかその景色ごと抱きしめてあげたくなる。


 苦しんで、悲しんで、傷ついて、それを一人抱えていると思っていた頃が、ひどく
遠くて、けれど愛おしい。季節が一、二度、巡るくらいの距離なのに。


「だったら、正直に僕のこと考えてたって言ったらいいと思う」

 唇を離してからみつめあうと、はるかはとても美しい顔立ちをしていることを思い
出した。


(そう言えば、あの頃のはるかは可愛らしかったわ)

 今もその仕草や言動は可愛らしいけれどと、額に口付けを受けながら思い出す。

 痛みや、不安や、心苦しさ、色々なものを綯い交ぜにして、それでもはるかは愛し
てくれた。けれど、口付けを浴びる素肌と同じようにその気持ちを受け止めるには、
みちるの胸はまだ小さかった。傷跡の残るこの身体と同じように、一筋の傷もない心
なんてないのに。あるとすればそれはきれいな形をしているのかもしれないけれど。


「普通はくみ取るものよ、そういうことは」

 傷ついて、少しだけ抉れて。けれど癒えると今までよりもずっとそこは強くなる。
その繰り返し。いつしかその形がいびつになったとしても、その心のまま、はるかを
愛している。


「それは悪うございました。でも、僕はそう言うの得意じゃないんだ。知ってるでしょ」

 それなのに。はるかの心にまでは、想いを馳せる余裕がなかったのだ。

「それならはるかだって、私が本当はそうされたいってわかっていても良いと思うわ」

 だから、思い出すと、何だかおかしくて、少しくすぐったくなる。それから、けれ
どそんな風に達観できていなくてよかったとも思った。


「わかってるよ。みちるが本当は意地っ張りで素直じゃないことくらい」

 肩ひもが持ち上げられるのを視界の端に感じながら、ゆっくりと目を閉じようとし
たところではるかがそんなことを言うものだから、思わず見開いてしまった。


「・・・私もわかったわ。はるかが私のことを可愛げがないと心から思っていると言
うことが」


「え、何で?」

 肩越しに見上げながら唇を尖らせると、はるかは不思議そうな顔をする。それから
すぐに笑顔になる。


「だから可愛いんじゃないか」

 軽く掠めるだけのように唇に口づけられたら、頬にさっと熱が走るのがわかった。

「・・・あ。ねえ、みちる」

 指の背を頬に押し当てて熱を押さえつけていたみちるの肩に、はるかは何度か唇を
落としてから、仰ぎ見るように視線を上げた。


「・・・?」

 その視線を追うとベッドのわきに設置したローチェストがある。その上には、木目
のチェストとお揃いのような時計。


 こちらへ向いた面に浮かびあがる数字が000となっていることにみちるが気が付
くと、はるかはこちらを覗き込んではにかんだように言った。


「ハッピーバースディ」



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