3.think of you



 放課後、灰色の教室はそれでもにわかに活気づく。ガリベン君たちでも、放課後の
解放感には逆らえないらしい。


「はるか」

 歌っているかのような美しい声が突然教室に響いた。

「みちる、どうしたの」

「ううん。何もないけど。一緒に帰ろうと思って」

「そう」

 そそくさと鞄に荷物をしまいながら、はるかは席を立つ。周囲の視線がこちらへ集
中しているのがわかる。が、それが二人共に向けられているものではないことに、は
るかは気付いていた。


(見るな!みちるが汚れるだろ!)

 威嚇を込めて背中でみちるを隠す。

 いくら情熱の対象が勉学だったとしても、ここにいるのははるかと同年代の生徒達
で。隙あらばそう言うことに興味を持つお年頃なのだ。その上、最悪なことに、はる
かの所属するクラスは所謂理系。男子生徒の数が圧倒的に多い。だからこそ、こんな
にも遠慮なく、はるかは今の今までクラスの雰囲気を心の中で罵倒していたのである。


 だから、そいつらが視線を向けた先にいるのは、間違いなくみちるで。その視線の
意味は、単なる好奇心以上のものだ。ちょっとした刺激で、すぐに恋愛感情と結びつ
いてしまうだろう。鏡を見てからにしろよ。


「どうしたの、はるか。怒っているの?」

 彼女を押し出すようにして、教室を出る。黙り込んだまま歩いていると、後ろから
追いかけてきたみちるがそんなことを言った。


「?どうして。そんなことないよ」

 対するはるかは、後ろからみちるに声をかけられたことに少し驚く。隣を歩いてい
ると思っていたのに。どうやら、考え込んでしまったらしい。・・・主に先ほどみち
るに不埒な視線を投げかけていた輩たちへの罵詈雑言だが。


「そう?それなら、もう少しゆっくり歩いて」

 小走りで隣に追いついたみちるの仕草は、何だか可愛らしい。その上。

「せっかく一緒に帰られるのだから。早足でなんて帰らないで」

 はるかよりも背の低いみちるが、斜め上を見上げながら、はにかんで言う。

(わざと?それとも素?)

 どちらにしても効果はてきめんだ。凶悪な振る舞いに、脚どころか、息まで止まり
そうになった。


 寄り添うようにして歩くみちるのいる左側が、ひどく熱い。

(・・・多分、嫌われてはないと思うけど・・・)

 それどころか、好かれているだろうと言う自覚はある。自惚れたいわけじゃない。

『私、ずっとあなたを見てた。あなたがその人だって、わかる前から』

『あなたの車で、海辺を走ってみたかったな』

「・・・・・・」

 ここまで思わせぶりなことを言っておいて、本当は大っ嫌いでした。なんて言いだ
すほど、意地悪な子には見えないし。


「ねぇ、みちる」

 普段の彼女は、あまり饒舌な方ではない。対するはるかは、流暢に話しかけるのが
得意ではあるが、静かな空間も嫌いではなかった。だけど、みちるといると、変に緊
張して黙り込んでいるか、聞いてもらいたいことが多すぎて一方的に話しつづけるか
のどちらかが多かった。今日は、話したいことがたくさんあった。別に、どれもこれ
も取り留めもない日常の話題なんだけど。


「ふふ・・・。おかしいわよ、それ」

「だろ?」

 はるかの投げかけた声に、みちるは色々な表情で答えてくれる。

 冗談を言うと、口を押さえて笑う。

 からかうと、ちょっとだけしかめっ面をして見せて。

 はるかの言ったほんの小さな賛辞にさえ、うれしそうに微笑む。

 出会う前は、はるかのファンだったって言うのは嘘じゃないと思う。

 ずっとずっと昔に、惹かれあっていたという記憶も本当だと思う。

 でも。

「今日は、寄り道しても大丈夫?」

「ええ」

「買い食いは?」

「少しなら」

 校門を抜けながら見上げた空は、相変わらずの晴天で。そよぐ風も穏やかで。この
まま別々の帰路へつくのはもったいない気がした。


「じゃあ、デートしよう」

 おどけるはるかに、くすくすと笑うみちるを眺めながら、ふと緊張する。今からし
ようとすることに、それを実行する左手が強張っている。


「・・・みちる」

 大通りへと抜ける道へ誘導するのを装いながら、そっと、強張ったままの左手を伸
ばす。


「こっち」

 人差し指の先が、彼女の右手の甲に触れる。

 一瞬、そこが強張ったかのように感じられたけれど。怖気づく前に、白い手を握った。

 12345・・・・・・。

(よしっ!振り払われない・・・!)

 何のカウントだか知らないが、はるかは頭の中でしっかり五秒間数えてから安堵し
た。ここで振り払われたら、多分、いや絶対にすごく落ち込む。けれど、みちるの手
ははるかの左手にちゃんとおさまっていた。


 手を繋ぐのは初めてで。

 小さな手だと改めて思った。

 ヴァイオリンを奏でる手。

 絵画を創り出す手。

 この世界を、必死で守ろうとしている手。

 こんなに小さくて華奢な手のひらなのに。抱え込んでいるものがありすぎて、壊れ
てしまいやしないだろうかと心配になる。


 そう頭の中で整然と流れて行く思考とは別に、彼女に重ねた左手が、それとは別の
感情を胸に流し込んでくる。


 はるかの胸を締め付ける、白い手。

 優しく包み込もうとしてくれる、柔らかな手。

「はるかの手、温かいわね。体温が高いからかしら」

「そう?みちるの手が冷たいんだよ。冷え性?」

「ふふっ」

 握り返される感覚が、心地よさを通り越して、痺れてしまう。

 憧れや、遠い記憶。はるかに向けられるみちるの好意はその間を行ったり来たりし
ているのだろう。


 でも。それとはもっと別の感情で、自分はみちるのことが好きなのだ。

(あー・・・。だけど、・・・こうしていると、付き合っているみたいだ、・・・な)

 脳みそまで痺れてしまったはるかは、幸せな頭の中でそんなことを考え始めていた。

 大通りへ抜けると、そこそこに人の波が行きかっていた。特に予定を決めていたわ
けじゃないから、店先を覗くくらい。ウィンドウショッピングと言っても、別に欲し
いものなんてない。ただみちると一緒にいたいだけ。


 手を繋いだまま、行く先も決めずに二人でゆっくりと歩いていた。それが、すごく
楽しくて、仕方がない。みちるが笑ってくれると、その気持ちはもっと大きくなって
いくみたいだ。


「天王さん」

 バイク関係の企業とコラボレートした洋服を扱っている店の前で、聞きなれない声
に名前を呼ばれた。


「天王はるかさんですよね」

 振り返ると、何人かの女の子たちに取り囲まれている。

「そうだけど」

 ちなみに、こういう場面は珍しくも何ともない。もはやはるかの日常の風景ともい
える。だから、別に、慌ててしまうことでも、照れてしまうことでも何でもない。
それどころか、瞬時に女の子たちの顔を眺めて、その愛らしさを褒め称えることが大得意。
むしろ趣味。
 ・・・のはずなのに。


「やっぱり!いつもレース見てます」

 この時のはるかは明らかにうろたえていた。そもそも何故うろたえているのかもわ
からない。けれど内心の狼狽はすぐに露呈されてしまった。


 まるで隠し事をするかのように、はるかは繋いでいたみちるの手を離した。

「次も、絶対勝ってくださいね」

「見に行きますから」

「ありがとう」

 軽やかに流れて行く会話の後ろで、首筋にひんやりと汗が流れる。もしかしなくと
も、とんでもなく、卑怯じゃないか?潔くないと言うか。とにかく、誠実さからは程
遠い。


 この気持ちに疾しい所なんて一つもないはずだ。

 それなのに、誰かに知られてしまうことが、怖くて仕方がない。

 女同士だから。騒がれたくないから。揶揄されたくないから。

 数え上げればきりがない。理由なんて後からいくらでもくっつけられる。

 でも本当は、ただ怖い。

 二人きりの時間が流れている時にはわからない。でも、こんな風に自分を知る他人
がたくさんいる場所に二人でいると。そこから気付かれてしまうかもしれないじゃな
いか。


 誰かに。

 みちるに。

 この気持ちを知られてしまうのが怖い。


 もしも、そのことを知った彼女の瞳が曇ってしまったらと思うと、身体中をかきむ
しりたくなる。


(・・・でも、怒ってるよな・・・)

 そう。それは言ってみればはるか個人の事情なわけで。急に手を繋いでみたり、不
意に離してみたり。みちるからすれば振り回されていると感じるかもしれないし。事
実そうだし。


(どうしよう・・・)

 淀みなく流れつづける女の子たちとの会話の中で、はるかは必死にこの後の身の振
り方を考える。つまり、言い訳だとか、取り繕う方法だとか。はっきり言って、今こ
の世界中の誰よりも、自分が一番格好悪い。


 けれど、中途半端に切り上げるようなことをするのは、好意を向けてくれている彼
女たちにも失礼だろう。それこそ、ただ単にレースの感想を聞かせてくれている女の
子たちに、こちらの事情なんて全く関係ないのだから。


 優柔不断にまごつきながら、ちらりと彼女を盗み見る。

「―――・・・・・・」

 当たり前かもしれない。というか当たり前なんだろうけど。

 みちるは怒った表情なんて浮かべていなかった。はるかにも、女の子たちにも。穏
やかな頬笑みのまま、彼女たちの話に耳を傾けているのが一目でわかる。


(・・・なんだ・・・)

 その笑顔を眺めていると、急速に頭が冷えて行く。

 なんだ。

 焦っているのは自分だけか。

「それじゃあ、また、サーキットで」

 何度も手を振りながら女の子たちは去って行った。それを何とはなしに眺めている
と、また別の気持ちがふつふつとわき上がってくる。


(・・・なんだよ)

 女の子たちに手を振り返してから、くるりとみちるに向き直る。

「お茶でもしていく?」

「ええ」

 はるかの声に、みちるは何事もなかったかのように笑顔で答える。

(何なんだよ)

 知られるのが怖い。

 拒絶されるのはもっと怖い。

 そんなことを考えているくせに。みちるから何の感情も感じられないと勝手に苛立
つ。つまりは。


(・・・みちるは別に平気なわけだ。他の女の子に囲まれても)

 何て幼稚なんだ。頭の中で思わず突っ込む冷静な自分。それを思いっきり遠くへ突
き飛ばしてから、はるかは延々と苛立ちを募らせる。


 仮にもはるかのファンだった、と言うのなら、多少の嫉妬くらい見せても良いじゃ
ないか。それとも、そういう独占欲とは違うものなのだろうか。ファン心理ってやつ
は。


(・・・というか)

 もしかしなくとも、自分は全く相手にされていないのではないだろうか。

 いや、今一緒に歩いている人間が天王はるかだという認識はしているだろうから、
興味なしとでも言うべきか。


 そんなことを考えてしまうくらい、みちるは穏やかにはるかの隣を歩いていた。

 夕日がまぶしい。

「新しくできたカフェがあるの。そこへ行きたいわ」

「・・・うん。いいね」

 笑顔がまぶしい。

 もう一度手を繋ぎなおす気にもなれなくて、はるかはとぼとぼとみちるの隣を歩い
て行く。


(・・・・・・・・・かっこ悪・・・)

 それははるかの一番嫌いな言葉だった。そして今の自分にはその言葉がよく似合う。


 頭の中で、まぶしい夕日に向かって走り出したくなった。



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