2.Candy



「似合う?」

 姿見で全身を整えたのを確認してから、みちるがくるりと振り返った。

 入学説明会の後、注文していた入学準備品を購入する。受け取った紙袋の多さとそ
の重量に辟易とする。


「ああ。良く似合ってる」

 教科書類は入学式に配ると聞いていたから、そう荷物にはならないと思っていたけ
ど甘かった。つまりそれ以外の物は、今日配られると言うことなのだ。制服、体操服、
上履き、各種鞄、エトセトラ。重いったらない。


『休憩して帰ればいいわ』

 バイクで来ればよかったとこぼすはるかに、みちるはそう提案してくれた。二人で
お茶くらいはして帰られると思っていたから、軽い気持ちで頷いたのだ。その時は。


「はるかも、とても似合っているわ」

 はるかの返答に微笑みながら、彼女はそう言って、二人の距離を縮めた。

 ここは、みちるの部屋だ。

 何だかデコラティブで大きなマンションの前に来たなと思っていたら、みちるはさ
も当然のように告げたのだ。


『一人暮らしだから、気兼ねはないでしょう?』

『は』

 両親、みちる共々、多忙に過ごしているため、それぞれ別々に暮らしているとは聞
いたことがあった。けれど、それまで二人で会うのはいつも図書館だったり、カフェ
だったり。何かの拍子ではるかの部屋に彼女が来たことはあったかもしれない。でも、
みちるの部屋に訪れたことなんて一度もなかった。


『あがって』

 いとも簡単に、彼女ははるかを部屋に招き入れた。

「四月からは、一緒の学校へ通えるのね」

 姿見のある寝室。ベッドの脇に座っていたはるかの隣に、お揃いの制服を着たみち
るが静かに腰を下ろす。


『ねえ、せっかくだから制服を着てみる?』

 新しい洋服を買ってもらった、小さな女の子のような顔でみちるがそんなことを言
った。はるかにもその気持ちはわからないでもないけれど、学校の制服なんか、着た
くなくても四月からは毎日着用しなくてはならないのだから、あまりわくわくするよ
うなものでもない。けれど、楽しそうに笑うみちるが可愛くて。それから、みちるが
それを着た姿は見てみたくて。はるかは曖昧に頷いていた。


「そうだね」

 すぐ側に、みちるの華奢な肩がある。微かに身動ぎをすれば触れてしまうような距
離に。


(け・・・警戒心とか・・・ないの、かな・・・?)

 まあ、女同士だし。そう割り切ってしまえば何も不自然ではないのだろう。けれど、
はるかは同年代の女の子から、そう割り切ってもらえた試しがない。(警戒心
むき出しとかではない。むしろこちらが警戒したくなるくらいの子までいる)おまけに、
こちらの事情としても、みちるの美しさに、何度も心を奪われそうになっていた事実
がある。疾しい気持ちにならなくもない。特に、今のように。


 スカートの裾から、みちるの膝が覗いている。

 こちらを少し覗き込む角度のせいで、白い首筋が見える。

 艶やかな唇が。高い鼻筋が。長いまつげに縁取られた瞳が。

 近すぎる。

(こ、これって・・・デートなのか?)

 どこかへ出かけているわけでもないのに、二人きりのシチュエーションでそんなこ
とまで思い浮かべてしまう。でも。


「あ・・・」

 みちるに気づかれないように、だけど何度も彼女を盗み見ていたら、あることに気
がついてしまった。


「?どうかした?」

 まごついて黙り込んだはるかを、みちるが更に近い距離で覗き込む。

「これ・・・」

 その声を合図にして、勢いに任せたと言ってもいいほどの性急さで、
はるかはみちるの右手を取った。白くて、細い手首だった。


「この前の」

 こんな風に、間近にその素肌を見たことなんてないかもしれない。けれどその感動
を味わうよりも前に、はるかは喉の奥が焼けて行くような感覚を覚えた。


「大丈夫よ。もう、痛くも何ともないもの」

 言葉に詰まったはるかを察してか、みちるは軽くそう答えると、流れるような仕草
ではるかの手から離れる。


「ヴァイオリンが弾けなくなったらどうするんだよ」

「大袈裟ね」

 制服の裾からまだ新しい傷跡が見え隠れしていた。

『恥ずかしいから、向こうをむいていてね』

 制服に着替える時に、みちるはそんなことを言いながら、はるかと背中合わせのよ
うな位置に立った。盗み見ることもできなくて、衣擦れの音がする度に、喉元まで胸
の高鳴りがせり上がってくる。そんなことばかり考えていたから、気がつかなかった
んだ。どうして、みちるが肌を見せたがらないのか。


 手首だけではない。彼女のきれいな肌のいたるところに、新旧不ぞろいの傷跡が残
っている。


 幸い、服で隠れないようなところに、大きな傷はない。それは、彼女が冷静さを
努めて意識しながら戦っているからだ。それなのに、時折こんな風に、目に見えて
しまうかのような場所が、傷ついてしまうことがある。


 それは、はるかを庇ってできたものだ。

「・・・紅茶でも淹れましょうか。それとも、コーヒーの方が好き?」

 その場を取り繕うかのように、みちるは立ち上がってそんなことを言う。

「いらない」

 憮然とした声でそれだけ返すと、みちるは困ったように苦笑いを浮かべた。

 彼女はいつもこんな風にはぐらかす。

 取り合ってくれない。というわけではない。ただ、はるかが彼女の身を案じるよう
なそぶりを見せると、途端に、するりとはるかの傍から離れてしまう。捉えどころの
ない、彼女の態度。


(さみしい・・・?)

 少し違うような気がするけれど、遠くはない。そしてその感情に気がついてしまう
と、はるかはいつも落ち込んだ。その情けなさに、肩を落とすのだ。


 けれど。

「・・・嫌だな、こういうの・・・」

「え?」

 不貞腐れたはるかを、見下ろす角度で眺めるみちるの視線が戸惑いに揺れている。
それなのに、それを見ても、吐き出された感情を押しとどめることはできなかった。


「大袈裟でも、何でもないじゃない。僕は君が心配なんだ。それなのに、どうしては
ぐらかすの。それとも、迷惑?煩わしい?」


「そういうわけじゃ・・・」

「じゃあ、どうして。本当は、足手まといになるだけの僕に、心配なんてされたくな
いんだろ」


 違う。こんなことを言いたいわけじゃないのに。

「僕だって、君に守ってもらいたくなんてない」

 何だって、こんな言い方しかできないのだろう。見上げたみちるの顔が強張ってい
く。きれいな瞳が、どんどん曇っていく。みちるを悲しませたいわけじゃないのに。


 何かを言おうと、彼女が唇をわずかに動かすのを眺めながら、喉の奥からせり上が
ってきた圧迫感が、そのまま眼の奥にまで到達しようとするのを感じた。


「・・・・・・ごめんなさい。・・・あなたに、そんな風に思わせていたなんて」

 涙があふれそうだ。

「そうじゃないったら!」

 喚き散らしたら、声が震えていた。

 そうじゃないのに。

 こんな顔をさせたいわけじゃないのに。

 喚き散らして。困らせて。悲しませて。それなのに、彼女は怒ったりなんてしない。
戸惑いながら、それでも言葉を探し続けている。はるかのために。


 それが彼女の優しさだと、きちんとわかっている。でも。

「・・・・・・もう、いいよ」

 優しくされたいわけじゃないんだ。

 君を守りたいんだ。

「もういい」

 それなのに、突っぱねて、傷つけることしかできない。言いながら、やっぱり目の
奥が熱くなって、はるかは顔をそらした。


 もてあましてしまいそうだ、こんな、整合性のかけらもない感情。だけど放り投げ
ることもできなくて、はるかはそれを抱え込んだまま蹲る。


 気まずい沈黙がどれくらい続いたのだろう。

 もしかしたら、それは一瞬だったのかもしれない。

「?」

 ふわりと、空気が揺れた感覚に顔を上げる。

「・・・はるか」

「・・・っ、・・・えっ・・・?」

 空気が揺れたように感じたけれど、そうではなかった。

 彼女に抱きしめられていたのだ。その胸の中に。

「み・・・みちる・・・っ・・・?」

 頭を抱え込むようにして抱きしめられているせいで、鼻先がそこへ押し付けられる。
考えてもいなかった場面に、はるかは二の句を告げられないほどに困惑した。


「・・・ごめんなさい。・・・私、あなたを苦しめたかったわけじゃないの・・・」

 囁き声が、そっとはるかの耳に流れ込んでくる。

「・・・・・・でも、うまいやり方が、思い浮かばなくて・・・。・・・ごめんね
・・・はるか。・・・だから、自分のことを足手まといだなんて、言わないで」


 それは、きっと心からの言葉なのだろう。みちるの声は、いつもの大人びたもので
はなかった。


 また、こみ上げてくる。

 抱きしめられているせいで、手のひらで押さえつけることもできない。

「・・・みちる、制服が汚れるよ」

 真新しい制服に、涙の跡がつくのは気が引ける。そう思って密着していた身体を離
そうとすると、とても丁寧に力が込められて、それを押しとどめられた。


(・・・・・・いろんな意味で苦しいぞ・・・)

 気がつくと、胸の中に先ほどまで渦巻いていた焦燥が見当たらない。けれど、それ
は落ち着いたからではない。


 耳の奥で、何か大きな音が、規則正しく、でも激しく打ち鳴らされている。

 それと同じように、胸の中に血液が沸きあがるような感覚が広がっていく。

 その上。

(・・・・・・柔らかい)

 あろうことか、こんな時なのに、思い浮かぶのは。目につくのは。

 柔らかに押し付けられた、彼女の胸元。

 鼻腔をくすぐる優しい匂い。

 細い腕に包み込まれる感触。

 抱きしめ返したら、彼女は驚くだろうか。

 そんなことを思いついてみても、うまく身体が動かせない。頭の先から痺れて行く
ように、全身に力が入らなくなる。


 先ほどまでの焦燥感が、形を変えただけなのだとわかった時には、もう遅い。思い
ついたそれを、確かな感情として自覚するのを止められない。




 この子のことが、大好きみたいだ。



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