4.A song for you



「もったいないなぁ、天王。お前何も部活動をしないのか」

「はい。今はモータースポーツにハマっているので」

「そうか。しかし、陸上部の顧問は本当に落ち込んでたぞ。せっかくの逸材がってな」

「買いかぶり過ぎです」

 帰り際の廊下で、学年主任の教諭に呼び止められた。そう言えば、この間しきりに
部活動の見学に誘ってくれた体育教師は、陸上部の顧問をしていたような気がする。


「まぁ、また気が変わったらいつでも言いに来いよ」

「ありがとうございます」

 非礼にならないよう慎重に返答してから、はるかは彼から背を向けた。

 そして、心の中で一言。

(・・・ダールい)

 走ることは今でも好きだ。でも、部活動に興味なんてない。まずもって、この学園
の真面目一辺倒、大学受験まっしぐらな雰囲気にすら馴染めないのに。更に硬直した
団体になんて関わりたくない。


 適当に走れて、好きなだけモータースポーツに打ち込めて。

 入学前からの希望は今後も全く変わることはなさそうである。

 それから。

 廊下を歩きながら、はるかが目指しているのは一階の通用口ではない。階段のある
廊下の端。その階段を上って向かうのは、特別教室のあるフロア。主に、美術コース
の生徒が使用している。その中にある、第三美術室にはるかは向かっていた。


 放課後、部活動に打ち込んでいる時間が、もったいないじゃないか。

 その時間に、みちると過ごせるかもしれないのに。

 みちるも部活動はしていない。選択しているコースも、普通科。アトリエも、練習
室も、彼女は持っている。だから、今さら美術や音楽のコースを選択したり、関連の
部活動に参加する必要なんてないのだ。


 それなのに、彼女は一週間の中の数日を、この美術室で過ごしている。

 他の生徒のためにと、美術コース主任兼美術部顧問に泣き落されては断れなかった
らしい。


 自分の絵を描きながら、他の生徒達に助言をする。それがみちるに割り当てられた
役目らしいけれど。


(・・・そんなの集中できないんじゃない。フツー)

 もともと芸術って、感性で尽き詰めて行くものでしょ。おまけに表現するのは自分
の内面なんだから、一人で集中できる方が良いに決まっている。他の生徒にはありが
たいかもしれないけど、はっきりいってみちるには何のメリットもない。自分の絵を
描きながらっていうのは、みちるが提示したみたいだけれど。それだって、顧問に気を
使わせない為のただのご厚意だって、気が付く奴は何人いるんだろう。


 各階への移動には、ほとんどの生徒がエレベーターを利用している。それをいいこ
とに、はるかは思いっきりそこを走り抜ける。逸る気持ちを少しは落ちつけられるか
もしれない。


「到着っ、と」

 数階分を一気に走り抜けると、少しだけ爽快な気持ちになる。

 大きな作りの第一美術室と第二美術室は向かい合うように配置されている。その間
を抜けると、しばらく資料室やロッカールームが続く。その端に第三美術室がある。
美術コースでも美術部でも、さらにその中で細かに専攻が別れている。その一つ一つ
に、小規模ではあるが美術室が割り当てられているのだ。


(少し時間を食っちゃったけど、まだ早いし、二人きりになれるかも)

 いそいそと先を急ぐ理由なんてそんなものである。

 誰にするとはなしに、てれ隠しで頭をかいてみる。そのまま視線を上へ向けると。
目当ての部屋の扉が少し、開かれていた。


「ありがとう、海王さん」

「!」

 そこから聞こえてくる、美しくも何ともない野太い声と、その声に似つかわしくな
い単語とにはるかは硬直した。


(誰・・・)

 一瞬にして警報モード。むしろ戦闘モード。血の気の多いお年頃ですから。

 ・・・の割には何故か扉の陰に隠れて部屋の様子を窺ってしまった。

「情景は浮かんでくるんだけれど、それを色にするのが難しくて。でも、聞いてもら
えたら、何だか肩の力が抜けた」


「聞くだけで良いのなら、いつでも仰って。モチベーションを持続させるには、今回
の抽象画の課題は難しいもの」


「へえ、海王さんでも、そんなこと考えるんだね」

「あら、しょっちゅうよ。そんなこと」

 楽しそうに笑いあう声に、見たくもないのに部屋の中を凝視せずにはいられない。

 キャンバスに向かって座っている男子生徒の後ろから、その絵を覗き込むような格
好でみちるが立っていた。


「・・・・・・」

 みちるは、頼まれてここに来ている。他の生徒達の技術や意識の向上のために。
そんなことはわかっている。


 今だって、困っている生徒がいるから、声をかけているだけだ。そんなことも
わかっている。


 でも。ほら。

 何たって、血の気が多い。というか有り余っているんですよ。はるかさんは。年齢
的にも、性質的にも。


 わざとらしく音を立てて扉を開ける。

「はるか」

 その音に少し驚いた様子のみちるは、それでもはるかの姿を見ると嬉しそうに顔を
ほころばせた。きっと、疾しい気持ちなんて微塵もないに違いない笑顔だ。


「迎えに来てくれたの?」

「ああ。でも、お取り込み中みたいだね」

 それに比べて、自分の声は何て刺々しいんだろう。みちるは気付く風もないけれど。

「いや・・・。時間を取らせてしまったけど。今日は海王さんは出席日じゃないよ。
少し教えてもらってただけで・・・」


 代わりに、はるかの怒りを含んだ声に気がついたらしい男子生徒が、そう言って言葉を
濁す。


(・・・嘘つけよ)

 睨みつけそうになるのを寸での所で抑え込む。

 何が、少し教えてもらっていただけ、だ。

 みちるを一度見た人間は、好奇心以上の気持ちを持って彼女を眺めてる。少しの刺
激で、容易に恋愛感情に結び付ける。目の前のこいつだって、みちるにのぼせている
に決まっている。鼻の下が緩みっぱなしになってる自覚もないのか。


「・・・外で待ってる」

 色々な感情を抑え込んで、握りつぶして、何とか飲み下してそれだけ言った。

「わかったわ」

 なんて、嬉しそうな声で答えるんだろう。

 なんて、みちるは無警戒なんだろう。

 思いっきり叩きつけてやりたい衝動を押し殺しながら、はるかはそっと、扉を閉めた。


                              


「待って。ねえ、はるか。どうしちゃったの・・・?」

 慌てて帰り仕度をしてきたのだろうか。みちるはすぐに部屋から出てくると、走る
ようにしてはるかを追いかけてきた。


「何が」

 声を掛けられても、素知らぬ顔をして早足のまま廊下を歩いて行くはるかに、みち
るがそう問いかけるのも、無理はない。


 だって、彼女にはきっとわからない。

『はるか』

 男と二人きりでいるところを見られても、あんな笑顔を向けられる彼女に、
今、はるかの胸の中で起こっている嵐なんてわかるはずがないんだ。


「あれも、部活動の生徒?」

 みちるの質問に答える代りに、わかりきったことを尋ねてみる。

「ええ。とても熱心な人なのよ」

 ほら、やっぱり。

 不機嫌にしている様子がわかるからと言って、その原因が何なのか見当もついてい
ないのだ、彼女は。


 だから、腹立ち紛れに言ってしまった。

「本当、無償で絵画の指導を引き受けるなんて、恐れ入るよ。でも、あんな冴えない
奴と一緒にいたんじゃ、君の腕まで鈍っちゃうんじゃない?」


 振り返りながら、わざとらしいため息交じりの声でそう言ってやった。だけど、視
線を向けた先の彼女は。


「そんな言い方はないわ、はるか」

 珍しく強い語調でそう言うと、いつになく怒りの色が強い表情をこちらに向けていた。

 みちるは、優しい子だと思う。

 どことなく高慢に聞こえてしまうその口調や、大人びた容貌が、彼女を冷たい印象
にしてしまうけれど。


 相手の痛みに気持ちを添わせることのできる繊細さも。その人がだれであっても慈
しみ、尊ぶことができる優しさも。そのために、自分の気持ちを押し殺すことすら厭
わない潔さも。みちる以上に持ち合わせている人間を、はるかは知らない。


 それは、良家の子女として躾けられた彼女が、当たり前のように身につけているも
のなのかもしれない。ノブレス・オブリージュってやつだろうか。


 でも、それじゃ嫌なんだ。

 自分以外の人間に、その美しい精神でもって接するのを見ることも。

 彼女が義務として持ち合わせた慈しみを向けられる多数の中の一人でいることも。

「はるか」

 もう一度、みちるが張り詰めた声ではるかを呼ぶから。目を合わせることもできな
くて、はるかは顔をそむけた。彼女にこんな風に咎められると、まるで母親に叱られ
た子どものような気持ちになってしまう。


 居た堪れなくなって、はるかは返事もせずに、また歩き出した。彼女に背を向けて。

「はるかったら・・・」

 それなのに、みちるはらしくもなくぱたぱたと音を立ててこちらへ駆け寄ってくる。

「どうしたの」

 追いついたみちるが、当たり前のようにはるかの手をとった。

 白く美しい両手が、はるかの左手を包み込む。

「はるか、どうして、そんなに拗ねたみたいにするの」

 ほんの少し前までなら。みちるの手のひらで包み込まれると、ドキドキして、うれ
しくて、それだけで幸せになれていたのに。今は、そうされるだけでも、胸が張り裂けて
しまいそうだ。


「みちるこそ、どうして平気でそういうことするの」

 自分で思っていたよりもずっと、冷たくて険を含んだ声だった。

「君にとっては、本当に何でもないことなのかもしれないけど。こっちの身にもなっ
てよ。それともからかって楽しんでるわけ」


 唐突に突っかかってきたはるかの声に、みちるは呆然と目を丸くした。それから、
八つ当たりのように怒りを発散させるはるかの様子に、心底不安そうに眉をひそめる。
でも。もう、止められない。


 あふれだした気持ちが止められないのなら、いっそのこと、世界中の、君に報われ
ない恋をしている奴の分まで言ってやるよ。


「君が無自覚にそうやって親しくする度に、君を好きな人間はどうしたらいいかわか
らなくなるんだ・・・っ」


 二人以外には誰もいない廊下に、はるかの悲鳴のような声が、未練たらしく響いて
いる。


 言いきった後、みつめた彼女は、その声量と、その言葉の意味の両方に目を丸くし
て。それから。


「・・・・・・好き?」

「え?」

 予想していたよりもずっと、柔らかな声がこちらへ向かって飛んできた。

「はるか、私のことが好きなの・・・?」

(あ)

 不思議そうに、けれど少し頬を上気させたように。みちるはこちらを見上げながら、
そう問いただした。


(ああーーーーーーっっっ!!!???)

 なんだ、これは。コントか?いや、ドッキリなのか?誰だ、知られたらいけないと
か言ってた奴は。


 みちるは。

 その白い頬を朱色に染めて、瞳を揺らめかせるようにして、こちらを見上げていた。

 困っているような。焦っているような。息が上がってしまいそうな。でも、決して
嫌がっているわけじゃない。それは、初めて見る表情。


 だけど、その表情に魅入ってしまう前に、はるかは慌てて彼女から身体を離して歩き
始めた。


「はるか?」

 収拾のつきそうにもないこの事態。そして、なんの打開策も見当たらないこの状況。
となれば、はるかの選ぶ道は一つ。


「・・・帰る」

 我ながらあっぱれな卑怯者。レーサーの風上にも置けない臆病者。笑いたければ笑
えばいいさ。走って帰ってやる。


「まってったら。もうっ、はるか、・・・っ」

 だけど、納得できない(当たり前だ)らしいみちるは、尚もはるかに追い縋ろうと
する。


 そりゃ、できればもっと冷静に話した方がいいっていうことくらいはわかるんだ。

 でも、こんなこんがらがった頭の中で、仲直りの方法なんて思いつかない。

 思いついたって、さっきの言葉をうまく訂正するなんて、できっこないんだ。

 だって、僕は。

「まって、・・・っ。逃げないで、はるか」

 階段の踊り場で、涙の浮かんだような声が聞こえてくると同時に、背中に小さな衝
撃が走る。音にすれば、トンと微かに鳴るくらいの、それは小さな衝撃。


「・・・・・・・・・っ・・・!?」

 みちるが、はるかの背中目がけて抱きついてきたのだ。

 小さな衝撃が、まるで何かを強く打ちつけられたような大きなものに感じられて。

 硬く深く、気持ちを閉じ込めようとしている心の扉を開け広げられた。

 だって、僕は。

「きゃっ・・・?」

 振り向きざまに、その細い二つの手首を掴んだ。優しくしたいのに、もうそんな制御
をできそうにもない。勢いのまま、壁に彼女を押し付けて。心の底から吐き出すみた
いに言った。


「君が好きなんだ」

 どこまでも高く続いている階段フロアの中で、はるかの声が壁に当たって何度も何度も
繰り返される。


 好きだ。

 好きだ。

 好きだ。

 けれど、いくら繰り返しても足りやしない。

 両手を壁に押し付けられたままのみちるが、驚いた表情を浮かべながら、
それでもはるかをみつめていた。まるで、目をそらすことが、できないみたいに。


 ああ、まただ。

 こんな時にまで。

 柔らかに波打つ髪に。

 澄んだ色の瞳に。

 桃色の唇。

 白い肌。

 華奢な手足。

 じっとはるかをみつめて待っている、その、優しい気持ち。

 彼女を形作る、全てのものに心の全部が奪われる。

「・・・君は怒るかもしれないけれど。僕は前世の記憶がほとんどないんだ。でも、
だから・・・」


 その繋がりがなければ、みちるはただの憧れ以上には、見向きもしてくれなかった
のかもしれないけれど。


「そういうのとは関係なく、みちるが好きなんだ」

 好きなんだ。今、目の前にいる、女の子が。

 気持ちを全て吐き出してしまうと、身体を支えているものまでなくなったみたいに
力が抜けて、強く繋ぎとめていた彼女の手首をそっと放す。その代わりに、力の入ら
ない身体を支えるようにして、壁に両手を突いた。


「だから、他の男でも、女でも、君に好意がある奴は、ムカつく・・・」

 ずるずると、そこからも落ちて行きそうになっていると、見下ろしていたはずの彼
女と目線がぴったり合う位置まで屈んでいた。


「それで、拗ねていたの?」

 目の前で、みちるがおかしそうに笑う。唇から白い歯が少しだけ覗いていた。その
光景に落ち着きかけていた気持ちがまた、高ぶっていく。


「そうだよ。僕ばっかりだ。こんな馬鹿みたいに嫉妬して」

 好きだよ、君が。

 憧れなんかじゃない。


 抱きしめたくて。

 キスがしたくて。

 早くしないと、誰かに持って行かれちゃうじゃないか。

 でも、君は?

「・・・そりゃ僕は、女だけど」

 答えが聞きたくて。だけど、どこか臆病で。そう前置きをした。

「知っているわ。はるか、服装は中性的なものを好むけれど、本当は可愛い雑貨や、
キャラクター小物や、お花柄が好きだものね」


「・・・何で知ってんの?」

 雰囲気を察することは得意であろう彼女がそうおどけて見せるから、また、はぐら
かされるのかと思ってしまった。


 でも、みちるは逃げたりなんてしなかった。

 じっと、はるかをみつめている。あの、輝くような瞳で。

 教えてよ、君の気持ちを。

「君が恋をするとして、僕以外に好きになれる奴がいるの?」

 虚勢を張るのは得意だ。でも。どうして、みちるの前だと、こんな風になってしま
うのだろう。目の前の彼女に、お伺いを立てるかのような響きを伴ってしまうのだろう。


 でも、それでもいい。

 お姫様の気まぐれでも、目の錯覚でも。

 何でもいいから、僕を選んでよ。

 言葉の威勢良さとは裏腹に、言ったきり黙って彼女の声を待ち続ける。きれいな瞳
をみつめていると、みちるの睫がとても長かったことに気が付いた。


 みちるが、静かに顔を上げる。

 さっきまで、乱暴に締め付けられていたはずの両手を、はるかの首元へそっと伸ばす。

「・・・・・・いるわけないじゃない。はるかのばか」

 それは、小さな、小さな声で。

 でも、間違いなく、この美しい唇から紡ぎだされた言葉で。

「じゃあ、キスしてもいい?」

 柔らかな夢の中に包み込まれたような感覚に陥ったまま、その唇をみつめていると、
そうこぼしてしまった。


「・・・前から思っていたけれど。はるか。私には他の子にするみたいに、スマート
にエスコートしてくれないのね」


 おかしくて仕方がないのだろう。みちるは目に涙をためながらそう言って笑った。

「・・・・・・仕方ないじゃない。必死なんだから。・・・それとも、こんな奴嫌い?
子どもっぽくて・・・」


 こんなことを言葉にして聞かなければいけないこと自体、子どもなのだ。でも、聞
かずにはいられなくて、彼女の顔を覗き込む。


 涙をにじませたまま、みちるはそんなはるかを見返しながら、瞳をきれいな三日月
の形に緩ませた。


 きれいだ。

 見惚れたまま、彼女の瞳に吸い寄せられていく。

 はるかよりも背の低い彼女は、背伸びをするみたいにして、こちらに顔を寄せて囁
いた。


「だいすきよ。はるか」

 首元に抱きついた彼女がそっと目を閉じる。

 夕日に照らされた、その顔が、表情が、唇が、とてもきれいで。

 唇が柔らかな感触に包まれると、そこから溶けてしまいそうになる。

 息継ぎなんて思い浮かばなくて。息が上がってしまいそうだ。

 離れて行く一瞬、視界に入った長い睫が震えている。


 きれいだ。きっと、世界で一番。

 そう思う気持ちのまま頬を撫でると、みちるははるかの腕を優しく撫でた。こちら
を見上げながら。


「・・・・・・もう一回」

 返答を待ちきれなくて、唇を寄せたみちるの頬は少しだけ濡れていて。間近でみつめ
あった彼女に思いついて言ったら、声をあげて笑われた。


「海の味がするね」

 ―――って。



                              END



 こんなおバカさんはるかじゃないわ・・・!(怒)とお怒りのお嬢さま方、申し訳ありません。
ただただ、可愛い二人が見たかったんです。(逃走)



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