3.Baby



 廊下を歩く脚がふらついている。ここ最近の身体への負担が蓄積された結果だろう
か。それとも、気持ちの問題なのか。


「・・・・・・ふう」

 遥か先の中庭を見下ろす廊下の窓辺に、はるかは力なく背を預けた。

『ほら、はるか。これなら食べやすいでしょう?』

『もう、ちゃんと髪を乾かさなきゃ駄目じゃない』

『風邪をひいてしまうわ。きちんと毛布を肩まで掛けて』

『おやすみ、はるか』

 みちるに甲斐甲斐しく世話を焼かれながら、はるかは針のむしろだった。

 元々みちるははるかに甘い。だからと言って、相当にお願いしなければ、そうやす
やすと態度に表して甘やかしてくれることもない。だから、先日のあの様子は、本当
に心配をかけたからこそなのだろうけど。


 でも、スプーンをはるかの口元に運ぶ度に、こちらを覗き込むのはどうだろう。

 薄いパジャマを羽織っただけの身体でくっついてきて、髪を乾かしてくれるのは何
なんだろう。


 お ま け に。

(一緒の布団で寝るのはいいとして・・・くっつきすぎじゃないですか?)

 まるで幼い子どもを持つ母親のように、みちるはその胸にはるかを抱いて眠ったの
である。


『おはよう、はるか。よく眠れた?』

 覗き込むみちるに心の中で「全然」と答えてやったが、気が晴れる様子もない。目
元に浮かんだ寝不足を隠すように「うん」とだけ返した。みちるはうれしそうに微笑
んだ。


 何、この素敵家族みたいな構図。

 まったく落ち着かないこちらの様子に気づくこともなく、みちるは惜しみない慈し
みをもって、はるかのお世話をしてくれたわけだ。


 もしかしなくとも、みちるにはそう言った警戒心がないのか。お嬢さまってそうい
う風に育てられてんの?違うよね、絶対。


 そりゃ、誰彼構わずと言ったわけではないだろう。できれば、男子生徒に笑いかけ
たりするのも止めてほしいけど、それは愛想の問題な気もするし。はるか以外の人間
に、はるかにするような親しげな仕草は見せないはずだ。(見せてたら泣いてやる)


 でも、恋人同士でも、それなりに緊張感を伴うものじゃないの。

 片方がステップアップしたがってるんならさ。

(そうしたがってるなんて夢にも思ってないとか・・・)

 そこまで考えたところではたと気付いた。

 そもそも、はるかの胸に湧き上がっている欲求は、果たして正しいものなのか。

 みたいし、ふれたい。

 その、邪魔な服を取ってよ。

 全部見せてよ。

 どうせ親しく触れるんなら、何もない方が気持ちいいじゃない。

 これって。これって。

(もしかして、ヘンタイなのか、僕は・・・っ)

 自分の気持ちをどうオブラートに包んでも、それ以外の結論は出そうにもなくて、
はるかは頭を抱え込みたくなった。


 みちるは、きっと知らないんだ。

 キスよりももっと、君を独占したいことも。

 そんな曖昧な願望よりもずっと、淫らな視線を君に向けてることも。

 だから、あんな何の躊躇いもなく、はるかに触れてくるのだ。

 もしも、知られてしまったら。みちるは、戸惑うだろうか。怖がるだろうか。もし
かしたら、泣かせちゃうのかな。


 どちらにせよ、みちるは無条件にはるかを愛してくれているのに。僕は。

 ヘンタイさん。

 残酷な事実を突き付けられたはるかは、思わず窓を開け、中庭に向けて叫びだした
くなった。ら。


「きゃ・・・」

「?」

 かよわい悲鳴を聞きつけて、はるかはくるりと勢いよく振り返った。

「大丈夫?」

 教材だろうか。数十冊はあるだろう冊子を手に持った女の子が、慌てた様子で屈み
こんでいた。何冊か落としてしまったらしい。


「あ、はい。大丈夫です・・・。すみません」

 落ちている冊子を一緒に拾うと、目の前の女の子は申し訳なさそうにそう告げて顔
を上げた。


(あ、可愛いかも)

 みちると同じくらいの髪の毛を少し高い位置で結わえて巻いている。左右の耳の前
に一房ずつ長い髪が流れていた。一重の目は大きくて、困ったような表情が少し幼い。
うん、可愛いぞ。


「手伝うよ」

「いえ、悪いですよ」

「いいよ。また落とすかもしれないだろ」

 絶対に断らせない笑顔を浮かべてそう言うと、女の子はまごつきながらも「ありが
とう」と言った。


「授業の教材?すごい量だな。君一人で持っていかなきゃいけないの」

「もう一人係の子がいるんだけど、その子は今日お休みしているんです」

「それにしても、先生も少し遠慮するとかないのかな。女の子に」

 長い廊下を歩きながら、小さなその子に話しかける。赤らんだ顔で眺められると、
はるかは悪い癖が出てくるのを止められなくなる。


「でも、僕はその先生に感謝しなきゃいけないな」

「え」

 乗りこんだエレベーターが、六階で止まる。

「そのおかげで、こうして君と出会えたんだから」

「!」

 エレベーターの扉が、静かな音を立てて閉まると同時に、その子の顔が沸騰したか
のように真っ赤になった。


「ねえ、また会えるかな」

 調子に乗って、屈みこみながらその子の顔を覗き込んだ。その時だ。

「あら。橋元さん。一人で教材を運んでくれていたの?」

 その声に、目の前の女の子は夢から覚めたように、はるかの肩越しの向こう側を見た。

「あ、海王さん」

(・・・・・・・え・・・)

「大丈夫、一緒に運んでもらっていたから」

 恐る恐る、声のした方を振り返る。

「そうなの」

 まあ、珍しい名前だしね。海王さんって。でも、ちょーっとだけ、人違いだったら
いいなぁ、なんて。


「ありがとう、天王さん」

 そんなはるかの願いもむなしく、そこには当然のように彼女が立っていた。

 絶対零度の微笑みを浮かべたみちるが。

「知り合いなの?」

 凍りついたはるかの後ろから、女の子がそんなことを言う。

「いいえ。名前を存じ上げているだけ。その方、とても有名人だもの」

「・・・・・・・」

 ・・・・・・こわい。

 凍りついたまま、はるかはそっと涙をこぼしそうになった。


                             


「ごめん。謝るよ。だから、機嫌を直してくれないかな」

「・・・・・・」

「ねえ、お願いだよ。僕がみちる以外の子に本気になんか、なるわけないじゃない」

「・・・・・・」

「みちる。ねえ、みちるったら」

「・・・・・・」

「許してよ。このとーりっ」

「・・・・・・」

「・・・みちるちゃん」

「・・・・・・」

「みちるさま、お願い」

 無視。無視、無視、無視。さらに無視。

 教室に迎えに行ったはるかの横を、当然のようにみちるは通り抜けて出て言った。
優雅な足取りで。廊下で。エレベーターで。通用口で。はるかは必死に頭を下げ続け
た。そしてその度に、その前をみちるは歩いて行くのだ。素知らぬ顔で。


(こわいよう・・・)

 何が怖いって、わざとらしい無視でもなんでもなく、みちるは平然と、自然に、か
つ上品に、はるかをそこにいないものかのように歩いていくのである。声をかけ続け
ても、どうやらその耳を通り抜けて行ってしまうらしい。怖すぎる。


「待って、みちる」

 となれば、実力行使あるのみ。とはいえ、後ろめたいこの状況。強く握りしめるな
んてできなくて、そっと、みちるの手を取った。


「何かしら」

 まったく何の感情も浮かべていない表情だったけれど、みちるはやっとはるかの方
を向いてくれた。もう少しで、お互いのマンションへ向かう分かれ道にさしかかる路
上だった。


「だから、ごめん、ね?」

「・・・・・・」

「その。君がいるのに、他の女の子にあんな風に、じゃれついたりして」

「・・・・・・」

「あ、遊んでただけで・・・」

「・・・・・・」

「えっと・・・反省してます・・・」

「・・・・・・」

「本当に好きなのは、みちるだけだからっ」

 半ば、いや、本気で泣き落しのように懇願するはるかに、みちるは深いため息をつ
いた。


「そういうことじゃないでしょ」

 怒った表情。それは、はるかに向けられているものだ。

「あなたはからかっているだけなのかもしれないけれど。本当にあなたに憧れてしま
う子だって、たくさんいるわ。それなのに、平気で「遊んでいるだけだ」とか言うの
はあんまりだわ。不誠実よ。そこまで考えておいたしてるの」


 こういうところ、みちるは潔癖だ。自分に向けられる冗談や揶揄を軽く受け流すこ
とはできるけれど。人の気持ちを踏みにじるような行為は、小さなことでもひどく嫌
悪する。だから、その美しい顔を不快に歪めているのだった。相手が自分のクラスメ
イトだったから尚更。


「・・・・・・ごめんなさい」

 対するはるかは、もう素直に頭を下げることしかできない。その主張も、それを裏
付けるみちるの精神も、どこをとっても非の打ち所がない。間違っているのははるか
の方なのだ。


 しばらくの沈黙の後、もう怒りは解けただろうかとちらりと彼女の表情を盗み見る。
と、ばっちり目が合ってしまった。


 少し口角を上げて、笑っているように見えなくもない、みちるの表情。だが、しかし。

「何度言っても改められないのなら、少し痛い位のおしおきをした方がいいのかしら」

「ぴ」

 静かに振り上げられた右手。

(ぶ、ぶたれちゃう?ぶたれちゃうの??)

 三メートルくらいは飛ばされる覚悟で、はるかはぎゅっと目を瞑った。痛いのは苦
手だが、仕方がない。


 けれど、次の瞬間に訪れたのは、両頬にぺたっと押し当てられた手のひらの感触だけ。

「?」

 目を開くと、やっぱり怒った表情を浮かべたみちるがいた。

「・・・めっ」

 そう言って。耐えきれなくなったみたいに苦笑した。

「・・・もう、怒ってない?」

「どうかしらね」

「許してくれる?」

「許してほしいの?」

 みちるの問いかけに、はるかは何度も頷いた。自分が犬だったなら、思いっきり尻
尾を振りまわしているに違いない。


 はるかの反応に、みちるはおかしそうに笑って、それからもう一度苦笑いを作って。
最後にはるかと手を繋いでくれた。


「・・・・・・それにしても」

 今日が終わる前に、仲直りできて良かった。分かれ道になっちゃう前に、手が繋げ
て良かった。そんな風に心の底から安堵していると、隣からみちるの声がした。少し、
拗ねてる時のような声。


「本当に、次から次へと・・・まるで、オオカミさんね」

 どうやら本当で本気なお怒りは解けているらしく、みちるは愚痴っぽい口調でそう
続けた。


「そのくせ、私には他の子にするみたいに口説いたりはしてくれないし」

「そりゃ、他の子みたいに食い散らしていくわけにはいかないじゃない。オオカミさ
んだって、好きな子には何にも出来ないの」


「あら」

 キロリと睨みつけられて、はるかは慌てて口を押さえた。せっかく許してもらえた
のに、また怒らせるわけにはいかない。


 みちるは、そんなはるかの様子に笑い声を一つこぼすと、穏やかな表情で前を向いた。

 手を繋いで、ゆっくり歩く。

 横顔を照らす夕焼けが、彼女の美しさを一層引き立てる。

 仲直りできた安心感からだろうか。それとも、手を繋いでいるこの距離のせいだろ
うか。


 遠くに、十字路が見える。

 離れるのが、辛くなる。

 それと一緒に、あの、欲求が沸き上がりそうになる。

「・・・・・・あのさ。僕は生憎品行方正な性質じゃないんだ」

 それを抑え込むように。でも、もしかしたら抑え込めなくなるかもしれなくて。彼
女にそう言い訳する。


「そうね。あなたレーサーになっていなかったら、徒党を組んで、バイクを乗り回し
ていたかもしれないものね」


「それはちょっと・・・」

 やっぱり、まだ怒ってんのかな。

「とにかく、オオカミさんは元々そんなだから、色々と理性を保つのに、必死なの」

 十字路がどんどん近くなる。

「なぁに、それ」

 微笑みながら、みちるがこちらを仰ぎ見た。

「・・・んー・・・コイビトなのに、オイシソウ、って」

 どこの映画のキャッチコピーだ。でも、今のはるかにはぴったりである。ついに
十字路にさしかかると、どちらともなく脚を止めた。


「そんなオオカミさんについて行ったら、どうなっちゃうのかしら」

 長く伸びた二人の影に視線を落としながらみちるがふと思いついたように呟く。

 橙色と金色と赤色が混ざり合ったような日の光の中で、伏せ目がちに口をつぐんだ
彼女が、ひどく美しくて。


「食べられちゃうよ」

 あっさりと白状してしまう。

(冗談だって思うかな)

 こういう時、自分の軽い口調が悔やまれる。でも、真剣に口にするなら、もっと言
葉を選ばないといけなくなる。それはそれで、少し間抜けだな。


 でも。

 それなら、どんな風に言いたかったんだろ。

「じゃあ・・・」

 俯き加減のまま、みちるは繋いでない方のはるかの手を取った。両手を胸の前で軽
く握るような仕草。


 ゆっくりとみちるが顔を上げる。

 夕日に照らされているからだろうか。その頬がひどく赤いのは。

「私をさらって。オオカミさん」



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