Butterfly 3



 スポンジは昨日の中に焼いておいたから、飾り付けだけなら祐巳が洗顔や身繕いを
している間に済ませることができるだろう。


「祥子さま、本気ですか?」

「ええ、だってあなたがそう言ったじゃないの」

「・・・・・・」

 洗顔を済ませたらしい祐巳が、寝間着のままこちらを怪訝そうに眺めている。

 窓から見える沿道に並ぶ桜の木が葉桜になる頃、祐巳は誕生日を迎えた。去年も一
緒に迎えたと思うけれど、こんな風に朝から一緒に過ごしてはいなかったと思う。


「いいから早く着替えていらっしゃい」

 真っ白なクリームで包み込まれたケーキの上にフルーツを盛り付けながら祥子は祐
巳を急きたてた。


『もうすぐ誕生日でしょう?』

 何かの拍子に尋ねたことがある。欲しいものでも、行きたい所でも、何でも言って
みるように告げると、祐巳は困ったように目を瞑って、あれこれ思案し始めた。彼女
が何かをねだったりすることが得意でないことを重々承知の上で聞いたのだから、返
答を待つ時間は苦痛ではなかった。ただし、特には何もない等と言う言葉が帰ってき
たら、二、三回は噛みついたかもしれない。手の甲に顎を乗せて、じっと眺めていた
ら、不意に思い立ったように祐巳が瞳を開いた。そして満面の笑顔。


『私、朝ごはんも、昼ごはんも、おやつも、それから夜ごはんも、全部ケーキで過ご
してみたい』


 とりあえず、聞いただけで胸やけがした。

 しかし、自分で「何でもいいから」と尋ねた手前、他のものにするようにと言うこ
ともできない。結果、祥子は覚悟を決めてこの日を迎えたのだった。


 彼女の望みとは別に、祥子が独断で用意したものもあったけれど。

「もしかして、私が途中で挫折してご破算になるとでも思っていた?」

 着替えて戻ってきた彼女に意地悪く尋ねてみる。

「・・・少し」

 降参のポーズのように肩をすくめて彼女の見せる様子に勝ち誇った気分になった。
負けず嫌いは努力で修正できるものではないらしい。(修正する努力をしたこともない)


「ロウソクは夕食の時に点けましょうね」

 気分よく彼女を椅子に招きながら、祥子はフォークを差し出した。

「お誕生日おめでとう、祐巳」

 さりげなく、一緒に渡せばよかったのかもしれない。

 カーディガンのポケットの中で、ジュエリーケースがカサリと音を立ててから、思
いだした。



                                


「これからしばらくケーキは食べなくてもいいわ」

「え?」

 本当は見たくもないと言ってやりたかったけれど、せっかくのバースディプレゼン
トに自分でケチをつけるのも癪だ。


「でも、私すっごく幸せでした」

 祥子と一緒に毛布へくるまりながら、祐巳が弾けるような笑顔を浮かべて擦り寄っ
てくる。あれ位のことで幸せになれるのなら、また作っても良いかと先ほどのケーキ
への拒否感をあっさりと放棄した。


 抱き寄せると、柔らかな身体が抵抗もなく腕の中へ収まる。そのまま照明を落とそ
うと、ベッドボード脇へと腕を伸ばしたら、薄い照明に照らされた祐巳の顔が間近に
あった。


 息を呑む音が聞こえてしまっただろうか。

 そう思うと、それ以上はまじまじと眺めることもできず、祥子は慌てて照明を完全
に落とした。


「あ」

 部屋の中が突然暗くなってしまったことに驚いたらしい祐巳が声を上げる。

「茶色にしてください、祥子さま」

「駄目」

 怖がりな祐巳は、眠る時にも多少の光がないと不安になるらしい。もう随分と前に
知ったことだ。それから一緒に眠る際には、彼女の希望通り、部屋の中が「茶色」に
なるように照明をほんの少し暗くする程度で眠っていた。今だって、祐巳が困ったよ
うにこちらをみつめているのがわかっている。もう一度ベッド脇に手を伸ばして、光
の加減を調整するだけで、それは解消されるのに。祥子はたったそれだけのことがで
きない。意地悪がしたいわけではない。


 祐巳の顔が見られない。

 自分の顔も見せられない。

「祥子さま?」

 ピローケースの感触に頬を埋めていると、訝しがるような声と一緒に、彼女が覗き
込む気配が伝わってきて尚更顔を上げられない。


「こうしていれば、怖くないでしょう?」

 知られてしまう前に、隙間もできない位に抱きしめると、祐巳は一瞬だけ肩を強張
らせて。


「・・・はい」

 吐き出した声の後に、くたりと祥子の肩に頭を預けてくれた。

 自分の顔は見られない。

 祐巳の顔も見ることはできない。

 今はありがたいことのはずなのに、すぐに別の懸念が湧きあがって祥子はうろたえる。

 胸が苦しいのは、耳の奥にはり付く心音のせいだ。甲高く喚いて、煩わしいったら
ない。皮膚の内側から打ち付けてくるその振動が、重なった祐巳の胸を叩いているの
かもしれないことに気が付くと、何も隠しだて出来ないように思えた。


 間近で見た祐巳の顔は、昨日までと変わらない。

 自分だって、年を一つ取ったからと言って、別段何も変わって見えることなんてな
かった。


 それなのに。

 照らされて浮かび上がった鼻筋や。少し影のさす目元。やけに色づいて見える唇。
首元から鎖骨にかけての線が、照明のせいではっきりと浮かび上がって見えた。


 一緒だけれど、違う。

 本当は、少しずつ変わっていたはずなのに、近すぎて気が付かなかっただけなのか
もしれないけれど。


 ただただ可愛らしかったあの頃よりも、祐巳はずっときれいになっていた。

 今更そんなことに気が付いて。だから顔を上げられない。

『じゃあ、もう大人扱いしても構わないってことだよね。お姫さま』

 またどうして、聖さまの戯言が頭に浮かんでくるのか。わけもわからないまま祥子
は頭を抱えたくなった。



                               


「へえ、またそれは。いいのかい、放ったらかしといて」

「嫌な言い方」

 運転席へ向かって吐き捨ててから祥子はふいと窓の外へ視線を向けた。

「ただ単に、あの子が教習所へ通っているだけでしょう。一々口をはさむ方がおかし
いじゃない」


 お祖父さまとの会食を終えた祥子は、見慣れた「唐辛子色」の車の中にいた。親族
との食事で会食も何もないが、その他の関係者が多数同席すればそう言いたくもなる。
別段何の不満もないが、強いて挙げるなら神経をすり減らしたような疲労感があった。


「さっちゃんは一々口をはさむタイプだと思ってたからさ」

 同席した関係者の中の一人で、唐辛子色の車の持ち主の彼が言う。会食が終了する
と、お祖父さま達は「懇親会」とやらがあるらしく、各々の車で連れだって移動して
しまった。残されたのは学生の二人だけ。


「あなたもね」

「まあね。でも、ほら。そういったことじゃなくても、祐巳ちゃんがねえ」

「何?」

「いや、仮免取ったら公道に出るのかと思うと、ちょっと・・・」

「・・・・・・」

 確かに不安を感じなくもないが、それこそ、こちらがどうこうと手を出せるもので
もない。


「大丈夫よ」

 ふと思い出して祥子は呟く。

「あなたの運転だって、最初の頃はひどかったもの」

 思い出し笑いが少し意地悪く映ったかもしれない。けれど今、彼の運転する車に乗
っていても、酔ってしまうようなことがないのは事実だった。


「君もね」

 散々祥子の運転に付き合わされた彼も辟易とした様子で肩をすくめて見せる。

 出会う信号機の間隔が少しずつ長くなっていく。過ぎ去って行く景色を眺めていた
ら、隣から微かな笑い声が聞こえて祥子は振り返った。


「どうかして?」

「ううん」

 時折すれ違う対向車のライトが微笑む彼の横顔を浮かび上がらせた。

「時間って流れているんだなと思って」

 独り言のような声が、景色と同じように過ぎ去って行く。

 今年度で大学を卒業する優さんは、海外の関連企業への赴任が決まっていた。

「そうね」

 こちらの相槌を待っている風でもなかったけれど、何となく口にせずにはいられな
くて頷いた。彼の腕へ静かに触れると、もう一度笑い声が聞こえた気がした。



                             


 目の前で祐巳がグラスを傾ける。

 たどたどしい手つきだったけれど、グラスを机に置き直してこちらをみつめる表情
は、大人びているように見えなくもない。


 祥子の向かい側に座る祐巳はもう普段着に戻っていた。髪に少し名残がある程度だ。
少し惜しい気もしたけれど、式が終わって友人たちと食事をしている間も慣れない身
なりで過ごしていた彼女はかなり疲労した様子で、祥子は(好き放題)写真を撮るだ
けで彼女を解放した。


「祐巳が成人式に出席する、だなんて、何だか信じられないわ」

 自分に言い聞かせるようにそう言ったけれど。高く結わえて整えられた髪や、薄く
ではあるがきちんと化粧の施された顔を眺めていると、胸が高鳴って仕方なくなる。


「すぐそうやって子ども扱いするんですから・・・」

 祥子のグラスにシャンパンを注いでから、彼女は不服そうに頬を膨らませて見せた。
その仕草に、また胸が鳴る。


 子どもか大人かと問われれば。

 祐巳も祥子も、法律の上ではもう未成年ではない。

 けれど、生活の全てを自分達で担っているわけではない。

 子どもではないけれど、大人になりきれているわけではない。極めて曖昧な立場。

 でも。

「違うわよ」

 今、祥子の目の前にいる祐巳は、間違いなく大人の女性だった。

「・・・もう大人扱いしても構わないんだと思っただけよ」

 消え入りそうになりながらそう告げて、彼女の頬を撫でた後に、それが聖さまの言
葉をそのまま拝借したものだったと気が付いた。


 それから後のことは、あまり良く覚えていない。

 いつもと同じように二人して横になって、目がさめれば朝が来ているはずだった。
できれば、誕生日に渡しそびれたジュエリーケースを彼女の目の前で開いてみるのも
いいかもしれないと思っていた。


 でも、そうじゃなかった。

 彼女に触れると、胸が痛いくらいに息苦しくて、蕩けてしまいそうな程に温かい。

 唇が重なり合うと、声が溶け合っていく。

 結ばれる、とか。一つになる、とか。

 彼女の奥深い場所に触れるまで、そんな感覚ただの言葉遊びだと思っていた。

 抱きしめられると、彼女の胸の中で子どもみたいに涙があふれる。

 来るはずの朝に、もう少しだけ待って欲しいと思った。


                            


「・・・っ・・・」

 頭の上から噛み殺すような吐息が聞こえて祥子は顔を上げた。

「・・・祐巳」

 温かな場所に入り込みながら、祥子は左手で彼女の頬を撫でて見せた。

 そうすると、目のあった彼女はふんわりと微笑んでくれる。強張っていた表情が緩
んでいくのを眺めながら、祥子は安堵して息を吐く。


「だいじょうぶ?」

 一々口に出して尋ねる位なら何もしなければ良いのに。けれど、一度許されると、
抑え込んでいた欲求が際限なく溢れかえって、祥子ですら収拾が付けられなくなった。


 祐巳は拒まない。だから。

 一通り柔らかな頬を撫でてから、彼女のすぐ側に横たわって、祥子は指先を進めて
いく。


 水音。圧迫感。彼女の腰が跳ねる力。全てが愛おしい気がして、ただその感覚に溺
れていく。


 それでもわかっている。

 すぐ傍の彼女をそっと窺うと、柔らかな微笑みは息を顰めて、すぐ前のものへと戻
っていた。


 祐巳は拒まないだけで、いつも眉を顰めている。苦痛に耐えるように。

 気付かないでいられたらどんなにか幸せだっただろう。そんなことを考えては、自
分の身勝手さに辟易とする。


 例え気が付かないままだとしても、祐巳の浮かべる表情は変わらないのに。

 そうさせているのは自分だ。

 でも、それにも気付きたくなくて、祥子はすぐ傍の彼女と額を重ね合わせる。

「さちこさま」

 声が聞こえると、引き寄せられるまま口付けた。何度も重ねて、合間にみつめる度
に祐巳が笑ってくれると、少しだけ胸の疼きが薄れるような気がする。


 ―――付き合っているのでしょう?

 確かめたのは、いつだっただろう。

 探りながら、引き抜いて、また突き立てる。飽きもせず繰り返している自分が馬鹿
みたいだ。けれど、繰り返される感覚に、背中を抱いた腕の力が強くなっていくから、
結局は押し留まることもできなくなる。


 どんなに確かめたって、終わる日は決まっているのに。

 どうして頷いたりしたのだろう。

 そんな約束で縛り付けて、何がしたかったのだろう。

 こんなにも、彼女が愛おしいのに。



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