Butterfly 2



「ただいま」

 玄関の扉を開けながらそう告げると、すぐに祐巳の笑顔が反って来た。

「おかえりなさい」

 はにかんだような声で答えられると、胸の奥がくすぐったくなりそうだ。

 桜の咲き誇る四月、祐巳はリリアン女子大学へ合格していた。

『優先入学の申請は受理されていますけれど、試験がないわけではないので』

 そう言って、神妙な顔で参考書を開く祐巳と隣り合い、手持無沙汰な祥子もレポー
ト課題をこなすような季節が終わる頃、彼女は合格証書を手にしていた。


 試験がある、とはいえ、外部から入学してくる生徒たちよりは遥かに有利な立場で
ある上に、その内容もきちんと授業を受けてさえいれば合格水準に達するようなもの
だ。素行にも問題がなく、山百合会の活動へも真剣に取り組んでいる彼女が不合格に
なるような不安は感じていなかった。


 祥子が不安を、というよりは戸惑いを感じるとすれば、その後だ。

 同じ大学へと入学した彼女は、幸か不幸か学部が違っていた。つまり普段通りの生
活をしていれば、学校での接点は全くないと言っていい。そしてその予想通り、構内
で彼女と出会うことはおろか、すれ違うこともごく稀だった。


 そんな、近くて遠い生活の中で、彼女と疎遠になってしまわないだろうか。

 入学式に出席した彼女はすぐに祥子の家へ寄ってくれた。それなのに、そんなこと
ばかり考えて、うまく笑えていたかわからない。


「いつも、すごい量の資料ですね」

 書斎のデスク脇へ祥子が無造作に置いた紙袋の中身を覗きながら、祐巳が感心した
ように呟く。


「そうねえ。でも、統計図表がページのほとんどだもの。論文を読み進めるよりは遥
かに楽よ」


「そういうものですか?」

「そういうものなの」

 とりあえずは数字から離れたくて、祥子はダイニングへと急いだ。

 分類すれば1LDKらしいこの部屋は、少し変わった間どりのような気がしないでもな
いけれど、祥子は気に入っていた。


 キッチンの向こう側にある空間をダイニング。その横に続く空間を、後付けした可
動式の本棚で区切って自分の書斎と小さな客室とに分けている。集合住宅では珍しい
のかそうでないのかは今一つ判断しかねるが、二階層に分けて作られたこの部屋は、
階段を上ると下で大きく分かれた二つの空間の真ん中を吹き抜けにして、大きな一つ
の空間がある。祥子はダイニングの上空部分をリビングとして、書斎と客室の上空部
分を寝室として使い分けていた。玄関や水回りは一階に配置され、その二階に当たる
部分はクローゼットになっている。全体的には実家で過ごしていた自室よりは広いけ
れど、生活のすべてを賄うには少々手狭に感じないでもない。けれど使い勝手を一か
ら自分で組み立てる作業をした上で過ごすこの部屋に、祥子は紛れもなく愛着を感じ
ているのであった。


「ねえ、この間買っていた紅茶って、どこに置いたかしら」

「私が淹れますから、祥子さまは座っていてください」

「いいの?」

 祥子に笑いかけてから、祐巳は手慣れた様子でカウンター脇のキャビネットを開く。
そこから間違えることなく祥子の言っていた茶葉を取り出すと、流れるような手つき
でお茶の準備を始めた。


「冷たい方がいいですか?」

「ええ」

 頷いて見せると、祐巳はおそろいのグラスをカウンターへ並べて氷を入れていく。
滞ることなく進む動作に見入りながら、祐巳と一緒に暮らしているような錯覚すら覚
えた。


(錯覚、ね・・・)

 そう自嘲しかけて、それも無理のないことかと思い直す。

 近くて遠い分、どんな距離で付き合って行ったらよいのだろう。

 その疑問に、祥子は毎週末のように祐巳を部屋へ招くことで答えていた。祐巳の方
も、高校生の時よりも身軽になったのか、最初こそ躊躇っていたものの、週が明ける
ごとに緊張を和らげてくれていた。帰らないで、と懇願しなくとも、おしゃべりが長
話になったような平日にも、彼女はずっと祥子の側にいてくれた。


「あまり、無理しすぎないでくださいね・・・?」

 カウンターから出てくると、彼女は紅茶で満たされたグラスを差し出しながらこち
らを覗きこんでいた。


「平気よ。すぐに元気になれるもの」

「?」

 受け取ったグラスがうっすらと汗をかいている。

「きっと、祐巳だけが使える魔法だと思うわ」

 それを一口だけ飲み込んでから、祐巳が覗き込んだままの距離で目を閉じた。

 望んだ感覚が唇に押し当てられると、祥子は誰にするともなく微笑む。祐巳に気付
かれていたら少し恥ずかしいような気もしたけれど、それでも良いと思った。



                             


「この前持ってきたものは、もともとは学校の課題だったか」

「はい」

 珍しく家族の揃った食卓で、祥子は一瞬だけ考えてから頷いた。

「穴だらけだったが中々面白かった」

 お祖父さまは愉快そうに言ってから湯呑を口へ運ぶ。

 方便に使ったとはいえ、早々に始まったゼミの活動内容は確実に祥子を慌ただしさ
へと追い込んでいた。とはいえ、一般教養の授業をそこそこにこなしながら、専門教
科を机にかじりついて覚え込む段階でしかない。


 そんな祥子たち学生の姿をおもしろそうに眺めていた教授が、悪戯に投げつけたの
が理論演習の課題だ。曰く実地で結果が出なければ、君が覚えた理論は間違いだ、だ
そう。なんて乱暴な、その言葉を全員が呑み込んで今に至る。


「けれどあれでは、実際にはすぐに行き詰る」

「・・・はい」

 肩を落とす祥子に、教科書なんてそんなものと笑い飛ばすお祖父さまには、それだ
けの実力や経験があるのだ。


(経験、・・・経験ね・・・)

 それなりに確立されている理論だけではだめ。けれど、それすらも身につけていな
ければ端にも引っかからない。


 つまり組み立ての順序なり形なりに不具合がある。それを修正するか、リセットす
るか。もしくは全く別の要素を注入するか。より完璧に近づけるためには、膨大な質
量の中から正確な方法論を選び取る力が必要になるわけであるからして。


「基本的な思考方法は身についているようだが」

 延々と考え込み始めた祥子の前で、お祖父さまが思いついたような顔で言う。

「お前の所の先生の言う通り、結果が出なければ間違いだ」

 妙に仰々しく言うものだから、祥子は少し警戒する。普段のお祖父さまは優しいけ
れど、時々ひどく気難しくなるものだから、(同じような自分のことは棚に上げて)
訝しんでしまう。祥子のそんな気持ちを察したのであろうお祖父さまは相好を崩して
言葉を続ける。


「ならば、結果を出せるようにやってみるというのはどうかな」

「?」

 それはどうやら、アルバイトのお誘いのようであった。


                              


 授業を済ませた足がとても軽やかだ。夕日は傾いていたけれど、普段であればこの
時間帯に家路に着くのは珍しい。家に帰れば、それなりにパソコンと向き合う時間も
とられるわけではあるが。それでも、研究室で一人黙々と作業を続けるのとは違う。


『祥子さま』

 呼びかけてくれる声がすぐ側に聞けるのだから。

 同じ大学に入学してきた祐巳との距離感に戸惑いを感じたことが杞憂だったのでは
ないかと思える程、彼女は祥子の生活の中にとけ込んでいた。ダイニングの椅子、
ソファに腰掛ける位置、色違いのグラス、全てに祐巳がいることが心地よい。何より
も特別な約束をしなくとも、彼女が自分の部屋に足を運んでくれることがうれしかった。


「?」

 浮足立ったまま玄関の扉を閉めた祥子が、その床の上に今朝彼女が履いて行った靴
がないことをみつけたのと、携帯電話の着信音がフロアに鳴り響いたのはほぼ同時だ
った。


 出鼻をくじかれたような気持ちになりながら液晶を覗きこむと祐巳からのメールを
受信していた。


「・・・・・・ふうん」

 誰もいないフロアの中で思わず声が漏れる。

 由乃ちゃんと夕食を一緒にとるらしい。そこまではいい。けれど、そのすぐ後に遅
くなるから実家へ帰ると付け加えられているのを発見して、釈然としない気持ちが膨
れ上がって行く。


 特別な約束なんてしなくとも、祐巳は側にいてくれる。けれど、それはつまり、約
束などしていないのだから、彼女の心積もり一つでいくらでもひっくりかえせると言
うことだ。


 急に脚が重たくなったような気がして、祥子はダイニングの椅子に腰かけた。

 ガラステーブルの向かい側に置かれている空白の椅子を眺めていると、益々その感
覚が強くなっていく。


 側にいて欲しい。

 そう願い、口にするのはいつも祥子の方だ。


                             


 シャワーの水音が煩わしく鼓膜にはり付く。頭から水流を受けながら、タイル地の
壁に手をつくと、床へ流れ落ちたお湯が濁流のように見えた。


 声を荒らすつもりなんてなかった。詰るつもりも。

 遅くなると伝えてきた祐巳に、遅くなっても良いから家へ来るようにと返したのは
祥子の方。


『言い訳なんて、聞きたくないわ』

 会いたくて、会いたくて。ただ早く会いたくて。ここへ帰って来てくれたことに安
堵していたはずなのに。


『お姉さまだって、遅く帰ってくるじゃないですか・・・!』

 決して大きな声ではなかったけれど、はっきりと怒りの感情をこちらへ向けられて、
祥子は怯むしかなかった。あそこで祐巳が立ち上がらなければ、こちらの方が逃げ出
していただろう。


 濡れるままになっている髪が首筋にはり付いて気持ち悪い。煩わしい音も、いつま
でも耳元へ打ち付けられている。


 側にいて欲しい。

 いつもそう願い、口にするのは祥子の方だ。

 けれど。

 彼女はいつも、その気持ちに応えてくれていたのに。祥子は返される感情に満足す
るだけで、待ってくれていた彼女の心の中まで知ろうとはしなかった。


 祐巳にあそこまで言わせなければ、気が付きもしなかった。

 レバーを上げると水音が跡形もなく消えた。

 顔を上げて目を開けたら、バスルームの天井が湯気でほんの少し霞んで見えた。


                              


「ゆみ」

 口の中でそう呟いたけれど、彼女には届いていないのだろうか。こちらへ向けられ
た背中は身じろぎ一つもしない。それとも、聞こえてはいるけれど、祥子の声に等振
り向きたくもないとの意思表示なのだろうか。どちらにせよ、向けられた背中が悲し
くて、祥子は佇みそうになる。


 むずがりそうな脚を引きずりながら、彼女の横たわるベッドへと近づいていく。

「・・・ゆみ・・・」

 シーツへ手をついてそこへ上がり込んでもう一度呼びかけるけれど、彼女はやはり
振り返ってはくれなかった。


「祐巳」

 背中をじっと眺めながら、ひたすら彼女を呼び続けている自分の声は、なんて情け
ないのだろう。涙が滲みそうだ。けれど、そこで黙り込んでしまうことはしたくなく
て、祥子は彼女の耳元へと身を屈めて言った。


「ごめん」

 情けないまま告げると、初めて彼女の肩が揺れた。

「・・・心配だったから・・・」

 言い訳がましい言葉だと、口にした端から後悔する。本当に伝えたいのはそんなこ
とじゃない。


 振り向いてもらえないまま、もしかしたらこの先、もう目を合わせることすらして
くれなくなるのだろうか、そんなことまで考えて。それなのに、その場しのぎの言葉
なんて持ち合わせてもいない。


 会いたくて。側にいて欲しくて。心配で。不安になる。

 けれど、何をしてもいいわけではない。だから。

「でも、祐巳の気持ちを考えていなかったわ・・・ごめんなさい・・・」

 最後の最後でその言葉を口にしたけれど、惨めさはなかった。

 間近にある彼女の横顔が少し強張って、ゆっくりと振り返る。

「うん・・・」

 小さな声だったけれど、祐巳は確かに頷いてくれた。

 優しくされると嬉しい。強がって見せると虚しい。当たり前のことなのに、祐巳と
出会わなければ、知らなかった。知っていたとしても、彼女と向き合わなければ、理
解することなんてできなかった。


 こちらへ向き直った身体を抱き寄せながら、鼻筋や頬を撫でるように口付けたら、
祐巳は祥子が口にした以上に、何度も「ごめんなさい」と言った。


 隙間もない程に抱きしめると、背中に沿わされていた小さな手にも力が込められて、
喉の奥が狭まってくる。


 私はこの人を大切にしたい。

 息を吐き出してしまったら、全て零れ落ちてしまいそうで、祥子はぎゅっと唇を噤んだ。


                               


「成人式?もうそんな時期だっけ」

 聖さまが椅子に腰かけていた背中を反らせてこちらへ視線を送る。

「あなたきちんと出席したの?」

「一応」

「一応、ねえ」

 横からお姉さまに視線を送られた聖さまが、肩をすくめて舌を出して見せた。

 年末年始を自宅で過ごす祥子を、二人のお姉さま方が訪ねてきたのは年が明けて一
日が過ぎた二日の今日。去年もそうだったような気がするし、その前にも同じような
年があったと思う。


 同じようなことがあった年に顔を出していた祐巳は、今は自宅で過ごしていた。今
頃、祐樹さんや小父さま、小母さま方と穏やかな年初めを過ごしているはずだった。
寂しくないと言えば嘘になるけれど、そう言った特別な数日以外は、ほとんどを彼女
と過ごしている現状はこの上なく心地よかった。


「祥子も大きくなったねえ」

「・・・・・・ありがとうございます」

 椅子から立ち上がった聖さまは、ピアノの前に座る祥子の方へと歩み寄ると、妙に
恭しく祥子の髪を撫でた。


 しばらく祐巳と同じ年の日々を過ごした後に、祥子は二十歳になっていた。その日
から、今まで庇護されていた部分が全て自分の責任となることや、制限されていたこ
とが自分の意向で行えると言われても、今一つ実感はなかった。昨日までの自分と比
べても、目に見えて何かが変わってしまったわけではないのだから。


(成人式、ねえ・・・)

 先ほどのお姉さまの語尾を真似しながら、心の中で呟いてみる。それから、何とな
く成人となった実感が湧かない自分のような人間にとっては、ありがたい式典のよう
にも思えた。


「じゃあ、もう大人扱いしても構わないってことだよね。お姫さま」

「聖」

 聖さまが言い終わらない中に、お姉さまが鋭く呼ぶ。彼女は再度肩をすくめたけれ
ど、全く悪びれもせずこちらを覗き込んだ。悪戯を思いついたかのような顔で。


「リクエストしてもいい?」

「ええ」

「祥子の為に」

「何ですの、それ」

 自分が演奏するか、もしくは相手以外の人間か、とにもかくにも演奏者自身の為に
なんて、こういった場合には付け加えない。向こう側を見ると、お姉さまは素知らぬ
顔をして紅茶を口にしている。一抜けた、というやつだ。


「よろしいですわ。それで聖さまのリクエストは?」

 お姉さまに倣い、聖さまの言動について不思議がるのを止めた祥子は視線を楽譜の
並べられたチェストへ流す。楽譜を広げる必要のない曲もいくつかはあるが、複雑な
ものだと譜面を目で追う方が正確な音が出せる。


「早春賦」

 もう一度楽譜の背に一つ一つ視線を向け始めた所で聖さまが言った。

「まあ」

 カップをソーサーへ置いたお姉さまは楽しそうなため息を一つ零して、「いいわね」
と付け加える。


 今度は祥子が肩をすくめる番だ。けれど、その曲の旋律は好きだった。鍵盤に指を
落とすと、隣に立っていた聖さまがダイニングセットの方へと戻って行く。


 春とは名ばかり。

 唱歌が耳に聞こえてくるような気がして、祥子は視線を巡らせる。

 大人とは名ばかり。

 そんな声まで聞こえてきそう。

 けれどいずれ訪れるその日に向かって伸びていくような旋律だとも思った。

「祥子、随分と楽に弾くようになったのね」

 声につられて、落としかけた視線をテーブルの方へ向けると、お姉さまが瞳を緩め
てこちらを眺めていた。


 その表情に、祥子も同じように目を細めて見せた。

 恋人とは名ばかり。

 名ばかりでなくなるその日は、来るのだろうか。ふとそんなことを考えた。


                              


「まだ寒いわよ」

 そう言って聞かせたけれど、変な所で頑固な祐巳は、祥子を半ば引きずるようにし
て浜辺を歩いていた。


 見上げた空には灰色と水色が混ざり合っている。吹き抜けていく風も、緩急に差は
あれど、掠められる度に頬や耳が痛かった。


「寒いの?」

 何とはなしに二人して立ち止まった後に、彼女が言葉少なげなことに気が付いて視
線を投げかけた。


 その先で、祐巳が小さく首を振る。顔にかかる髪を指先で払いのけながら、はにか
んだように笑う口元に光るリップグロスの色がいつもとは違っていた。


 その口元へまた柔らかな髪がほつれて掛る。もう一度それを払おうとする祐巳の手
をとって引き寄せると、軽い身体は思いの外簡単に祥子の腕の中におさまっていた。


「・・・これなら、もうしばらくはここにいられるでしょう?」

 コートの前を開いて包み込むと、祐巳はおかしそうに笑った。その笑い声を独り占
めしたくなって口付けると、止まらなくなりそうだ。


「・・・さむくない?」

 抱き寄せたままもう一度尋ねると祐巳はくすぐったそうに笑う。

「祥子さまとこうしているから暖かいです」

 彼女の肩に顔を埋めた祥子の耳元で囁く声が甘く響いて熱くなる。波の音が遠く近
く聞こえて、また風が頬を掠めていく。


 ひりひりと痛い。だけど、ずっと抱きしめていたくて動けない。

「私も」

 掠れてしまわないようにそれだけ言った。けれど、もしかしたら風にさらわれてし
まったのかもしれない。


 重ねて言いかけて、止めた。

「ねえ、どうせなら温かくなるようなこと、しましょうか」

「え?」

 見上げた祐巳の手をとる、祥子の左手と、彼女の右手のひらを重ね合わせて。右手
で腰を引き寄せた。


「ワルツですか?」

 反らせた胸元に引き寄せると、祐巳は思い当ったように言った。

「そう」

 ろくにリズムもとらずに脚を踏み出すと、案の定祐巳はもつれるような速度で踊り
始めた。


 けれど、少しずつ二人の歩調が重なって。それと一緒に笑い声も一つになって行く。

「やっぱり、楽しいですね」

 出会った頃のような声で、祐巳は言った。祥子も同じように頷く。

 あの頃と違うのは。

 波が寄せる度、目が合う度にキスをした。


                                 


(・・・落ち着きがないわね)

 いつもならはっきりと口に出して言うはずの言葉を心の中で呟いたのは、別に彼女
を気遣った結果ではない。愚痴を零したとしても、彼女には届かない。そう判断した
からだ。


 映画でも見て帰るのもいい。珍しくそんなことを考えながらウィンカーを出してみ
たものの、正直、祥子はそう言ったものにあまり興味がない。上映スケジュールの中
から祐巳が選んだものを観れば良い程度にしか考えていなかった。だから、祐巳が首
を傾げてから先は、手持無沙汰に店内を歩き回る位しかない。結果、いたるところに
目移りする祐巳と、それを追いかける祥子があっちへうろうろ、こっちへうろうろ。
ちなみに、祥子は目的なくウィンドウショッピングを愉しむと言ったことが得意では
ない。それにも拘らず暇を見つけては祐巳を連れ出すのは、はしゃいでいる彼女を眺
めているのが好きだからに他ならない。


「祐巳?」

 CDを眺めていたはずの彼女の姿が忽然と消えて振り返ると、店内に点在する露店も
どきの一つに祐巳が吸い寄せられていた。何やら熱心に眺めている背中から手元を
覗き込む。


「欲しいの?」

 ケースに収められているリングを撫でている指先に問いかけると、大袈裟な位にび
くりと跳ねた。


(ふうん・・・)

 祐巳はこういった小物が好きなようだと、何となく納得する。いつも出かけている
際にも、同じような色身のアクセサリーや雑貨を眺めているからだ。


 きらきら光る石やガラスや、それらが細々と重なり合って、光のプリズムを作って
いる。光のさし込む角度でどことなく印象の違って見えるそれらはステンドグラスの
ように見えなくもない。彼女の指先が触れると、それはまたきらきらと輝く。


「これ?」

 思いついてそこから取り上げると、彼女は驚いたようにこちらを見上げた。それを
受け流してさっさと支払いを済ませる。ついでに自分のサイズのものも。


 言ってみれば気まぐれのようなもの。彼女がこんな風に好みの小物を飽きることな
く眺めていることなんて珍しくない。その度に購入していては目も当てられない。第
一、祐巳はそういったことを好まない。だから、眉を顰められる前に押し付けた。


「おそろい」

 自分の薬指にもはめて見せてから笑いかける。もちろん、からかうつもりなんてな
い。けれど、どことなくふざけたような響きを伴っている感は否めない。例えば、彼
女から嫌がるような素振りが見られたなら、すぐにでも引き返せるように、逃げ道を
確保するような。


 祐巳は何も言わない。

 ゆっくりと、微かに頷いて。それから。

 大きな瞳でじっとこちらをみつめている。

 その瞳が、口元が。花が綻ぶように微笑みの形に変わって行く。

 これでは祥子まで、何も言えなくなる。

(・・・ばかみたい)

 慌てて祐巳の手をとって歩き始めながら、自分を罵倒するようにそっと呟く。

 こんなことなら。

 こんな風に悦んででもらえるのなら。もっと他の言い方があっただろうに。そう思った。



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